百歳
「桜が百回目に咲く頃、また来る」
彼女はそう言って去って行った。厳しい冬の寒さが遠のき、春のぬくもりを感じるようになった頃の事だった。僕は彼女を引き留めることもできずに、その小さくなっていく背中を、ただ見送った。これがきっと最後になる、その言葉を伝えることはできなくて、胸の奥へと飲み込んだ時の苦さを今もよく覚えている。
彼女と初めて出会ったのは、僕が五つの頃だった。昔冒険家だった曾祖父の友人だと言って、ある日突然、彼女が訪ねてきたのだ。最初は誰も、彼女の言葉を信じなかった。
曾祖父は先頃九十を迎えた高齢で、最近は痴呆もひどく、ここ数年は寝たきりの状態が続いていた。一方彼女はその顔に皺一つなく、曾祖父の友人どころか、僕の母の妹だと言っても差し支えないほどだった。そんな二人が友人などとは思えず、両親や祖父母は彼女の事を怪しんでいた。
疑問を解決してくれたのは、曾祖父だった。部屋の入り口で、彼女が「コンラッド」と名前を呼ぶと、それまで意識も曖昧で夢うつつのまま窓の外を眺めていた曾祖父が、驚いたように目を見開いた。そしてか細い声で「フィーナ」と呟き、彼女の方へ片手を伸ばしたのだ。
彼女――フィーナは曾祖父の手を取って、「ずいぶん待たせてしまった」と言ってから、その手の甲を自身の額へ当てた。曾祖父は嬉しげに目を細めて、その瞳は心なしか潤んでいるようだった。
それから、二人は一時間に渡って何かを話していた。扉の向こうから時折こぼれる、微かな笑い声を聞けば、彼らが友人であるというのを疑う者は誰もいなかった。後から聞いた話だが、フィーナは人間よりもかなり長寿な種族出身で、成人後は老化が緩やかになるとの事だった。実年齢は曾祖父よりも少し年上だと聞いたときは、思わず大きな声を上げてしまった。
その後、フィーナは三ヶ月ほど我が家に滞在した。日中の一時間は曾祖父と過ごし、残りの時間では家事を手伝ってくれたり、狩りをしたり、僕や村の子供達と遊んでくれたりもした。僕は彼女の冒険譚を聞くのが大好きで、同じ家で過ごしているのをいいことに、よく新しい話をねだったものだった。また、彼女は優れた狩猟の腕を持っていて、飛んでいる鳥も難なく落としてみせた。近くの山で兎や鹿を射っては、皆にご馳走をしてくれて、その事もあって彼女が村に馴染むのに時間はあまりかからなかった。
彼女がやってきてから二ヶ月と半ば、曾祖父が亡くなった。僕をはじめとした家族は悲しんだが、驚きはなかった。フィーナも曾祖父が長くないことは知っていたのだろう。寂しげな表情はしていたが、動揺しているようには見えなかった。もしかしたら、彼女は曾祖父の死期を悟ったからこそ、我が家を訪れたのかもしれない。そんな風に思った。
葬式が終わった後、フィーナは我が家の裏手に一本の桜の木を植えた。どこから持ってきたのかは分からないが、その時点で既に、僕の背丈よりも少し大きく、蕾はふっくらと膨らんでいた。
フィーナがそれを植える様子を見守っていたら、彼女は「明後日にはこの村を出て行く」と言った。僕が「じいちゃんが死んだから?」と聞けば少しの沈黙の後「それだけじゃないさ」とだけ返ってきた。
最後の日の早朝、僕はフィーナの部屋を訪れた。他の誰よりも早く、彼女にお別れの言葉を言いたかったのだ。しかし、彼女は僕が何かを言うよりも先に「植えた桜が百回目に咲いた頃、また来る」と言って、村を出て行った。朝早い時間だったため、僕以外に見送る人間は誰もいなかった。
桜が百回目に咲く頃、僕はまだ生きているのだろうか。たとえ僕がもう二度と会うことができなくても、この桜が残っていれば、彼女は僕を思い出してくれるだろうか。
そっと桜の幹を撫でた。あと百回重ねた後、フィーナはまたここへ来る。僕には途方もなく長い時間だが、きっと彼女にしてみればあっという間の事なのだろうと、頭の片隅で考えた。
百歳=百年。百ほども年月が重なること