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掌編小説集  作者: いちか
3/7

水取雨

幼い頃の一ヶ月、僕は祖父母の家で暮らしていたことがある。

母が双子の妹を妊娠したからだった。当時の母は切迫早産で管理入院するよう、医師から言われたらしい。その為、まだ4歳で手のかかる僕を母の両親の元へ預けたのだと、最近になってから知ったのだった。

僕を祖父母の家まで連れていってくれたのは、父だった。「おばあちゃんちに、お泊まりしに行こう」と言った父の言葉が嬉しかったのをおぼろ気に覚えている。僕は年に数回しか会えない、××の田舎に住んでいる祖母が大好きで、久しぶりに会えるのを純粋に喜んでいた。

母がいないことが不満ではあったけど、母の具合が悪いのは知っていたし、なによりも祖父母の家に泊まれるのが嬉しかったのだ。

夕方頃に到着した父と僕を、祖父母はあたたかく迎えてくれた。祖父母が暮らす村は山の麓にあった。農業が盛んな地域で、そこに住む人たちは皆、自前の田んぼや畑を持っていて、夏になれば多種多様な農作物が実るのだった。二人もいくつかの野菜を育てていて、僕たちが来る時はきまって、もいだばかりのトマトやトウモロコシをご馳走してくれた。

その日の夕食にも、いつも通り、祖父母が作った野菜が食卓に並んだ。「うちで獲れた枝豆とアスパラだよ」と祖母は笑っていた。

夕食後、父は僕に言った。

妹たちが生まれてくるまでここで暮らすこと、父もここから会社に通うこと、しばらくの間母には会えないこと。突然知らされたいくつもの情報に僕は戸惑い、怒り、泣き叫んだのを今でもよく覚えている。

バカとか嫌いとか、当時の僕に思いつく限りの罵倒を父に投げかけて、それからその勢いのまま外へ飛び出した。

外はまっくらで、街灯のあかりがぼんやりと小さく灯っているだけだったが、不思議と怖いとは思わなかった。蛙や虫の囁きが耳に入ってくるなか、僕はあてもなく走った。母に会いに行こうと思っていたのだ。

けれど、その時はちょうど梅雨に入ったばかりの時期で。連日の雨のせいで、舗装もされていない田舎の道は存分に雨水を含んでいた。特に田んぼ脇のあぜ道はぬかるんでいて、力いっぱいそこへ足を踏み入れたものだから、僕は滑って、思いきり顔から転んでしまったのだ。ズボンに覆われている両膝がじくじくと痛んで、顔だけじゃなくて全身が泥だらけ。口からは土が入り込んで、それはもう悲惨な様相だったと思う。僕はくやしいやら情けないやら痛いやら、幼心に色々な感情を抱えて、さらに泣いた。

それからすぐ、後を追いかけて来ていた祖母が僕を抱き起こし、あらあらと言いながら、顔についた泥と涙を拭ってくれた。泣きじゃくる僕の背中を優しく撫でながら、ただ黙って傍にいてくれた。

ほんの数分の事だったと思う。嗚咽が弱まってきた頃、僕は祖母に手を引かれて家に戻った。

家の前では父と祖父が灯りを持って待っていて、父ときたら落ち着きがなく玄関前をうろうろと歩いているものだから、僕は鼻水をすすりながら笑ってしまった。この間TVで見かけた、ライオンみたいだと思っていたのだ。

結局、僕と父はそれから一ヶ月の間、予定通り祖父母宅で過ごした。

帰る頃には梅雨もあけ、夏の暑さが顔を出し始めていて、雲一つないラムネみたいな青空が、目に眩しかった。


今でも、梅雨の季節になるとよみがえる。

祖父母と野菜を収穫したこと、隣のおじさんの田植えを手伝ったこと、その時に尻餅をついて笑われたこと。印象深い記憶で、思い出すと胸にぬくもりが溢れる傍ら、寂寥感もつのっていく。

あの後に生まれた妹たちも昨年成人し、優しかった祖父母は亡くなった。幼い頃の一ヶ月、過ごしたあの家も、畑も、今はもうない。僕の記憶に残るだけになってしまった。

だからだろうか、昔よりもずっと、梅雨が好きだと思うのは。きっとこれから先も、この季節が訪れる度に、僕はあの頃を思い出すのだろうなあ。と、目の前に広がる田んぼを見ながら、無意識のうちに呟いていた。

水取雨【みずとりあめ】

→田植えに必要な雨水のことで、つまり梅雨のこと

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