9話:吉村の人生指南と恵まれない親子1
1985年4月5日に吉村君が、出勤し手持ち無沙汰に塾のテキストや模擬試験を見ているので、何も言わないで見ていた。佐野君が朝会社に出勤したら、おはようございますの挨拶をするべきだろと言うと、おはようございますと照れくさそうに言った。
4月になり、早朝の八王子、西八王子、高尾、相模湖、藤野でアルバイト講師全員に頼んでビラ配りを1人2回、お願いして千枚近くのビラを配った。そして、4月8日に66人、5月、連休前に73人の高校生が入った。その後、何したら良いですかと聞くので、そんなの自分で考えろと言った。
そのうちに佐野が今迄の指導要綱の本を指さして、あの本棚の本を熟読して理解しておいてくれと言い、壁に張り出したスケジュールで塾生が来るから、その授業に最善を尽くして1人でも多くの塾生を希望する大学に入れることが、この塾の使命だと言った。
そして普通の会社と違うから塾生が来て教えるのが一番の仕事だと言い、用が済んだら帰って良いと言った。次の土曜日に吉村君が来て「おはようございます」と挨拶し何から始めますかと聞くので自分で考えろと言うと机と椅子の雑巾掛けを始めた。
その後、床を掃除機かけるとアルバイト学生がやってきた。そこで塾生達に吉村君を紹介した。その後、佐野が我々のやっていることをよく見ておけと言い、とりあえず、それが最初の仕事だと言った。塾生が入ってきて授業開始して2人が塾生からの質問に答えて、塾生の間を回り説明した。
佐野は塾生をじっと観察して、なじめない塾生を呼んで個別相談をしていた。そのうち1人の男子塾生が腹痛を訴えたので一つだけ残しておいたベッドに寝かせるとトイレに入った。今日は休日で医者は休みで困ったが、とっさに、佐野は吉村君に救急病院を電話で捜せと指示した。
すると慌てて電話をして数分後、津久井日赤病院が救急を受け入れてくれることが解った。その後、佐野君に一緒について来いと言い車に乗せて20分で津久井日赤病院へ到着した。吉村君に具が胃が悪くなった男子塾生につきそってくれと指示した。
数分後、若い先生が来て塾生をストレッチャーに乗せて救急外来へ入った。15分後、その先生が出て来て佐野と吉村に彼は何か食べ物にあたった、食中毒だろうと言い、点滴して解毒剤を注射しておいた。だから1日、2日入院し回復したら退院できると言った。
そして彼の住所と電話番号を聞いていたので電話すると家は留守の様で誰も電話に出なかった。その後、1時間ほどで塾に戻り夜17時に塾の講義は修了し解散した。佐野は。奥さんが、2人目の子を宿したと聞いた。そのため塾から20分の奥さんの実家へ行た。
そして夕食を食べて風呂に入り彼女の横で付き添った。予定日は1985年10月14日と言われたと打ち明けた。出産が終わったら佐野の実家の離れに住もうと考えて、実の両親にも了解をもらった。夜21時になったので今日入院した塾生の実家に電話をかけた。
すると女性が電話に出て今日の出来事を話すと申し訳ありませんでしたと言った。そして彼女が身の上話をはじめ、実は数年前に旦那さんが不慮の事故で亡くなり、今、母と子供の2人暮らしで私が夜20時まで働いて、何とか食べていますと言った。
そして息子は身体が弱く特に胃と腸が弱く、辛い事や悩みがあると、すぐ腹をこわすと言った。その話を聞いて佐野が退院したら、どうしましょうかと聞くと、うちへ運んでもらえませんかと言った。それで大丈夫ですかと聞くと、それしかありませんからと言った。
それを聞いて了解しましたと言い電話を切った。やがて2日目に津久井日赤病院から電話が入り退院できると連絡が入った。そこで佐野が吉村を連れて、車で病院へ行き、その塾生を実家におくる途中、彼に個人的なことを聞いて良いかと聞くと、えー、と言った。
まず、なんで胃腸が弱くなったと聞くと、いろんな事で悩んで、イライラすると決まって下痢したり腹痛で苦しくなると言った。差し支えなければ、その悩みを教えてくれないかと聞くと、自分が母だけを働かせ、申し訳ない気持ちがあると言った。
母が自分を立派で賢い人間になり良い大学、会社に入って欲しいという願望との間で、こんなことしていて良いのか、思い悩むとイライラすると言った。そこで、君は、どうしたいと聞くと、僕は、そんなに賢くないし体力もない、だけど働いて母に恩返ししたい。
でも、母の期待にも答えなければならないと悩んでると言った。それで君は具体的にどうしたいと聞くと高校出たら直ぐ働いて、もう少し楽な生活と母に家にいてもらいたいと言った。
それを聞いていた吉村が涙を流した。そして君の気持ち分かるよと言い自分の思ったようにしたら良いと告げ、お母さんには、自分の気持ちを率直に話すべきだと言った。