2話:ソニーで営業部で頑張り過ぎ心身症
「マントバーニ」、「パーシーフェイス」、「ポール・モーリア」、「レーモン・ルフェーブル」、「フランシス・レイ」など。この当時、きら星のように音楽界に君臨していて、映画音楽のテーマ曲、サントラ盤「サウンド・トラック」を片っ端から聞いていた。
それも国産のサンスイ、ヤマハ、三菱・ダイアトーン、パイオニア、ソニー、テクニクス「松下電器」トリオのアンプ、スピーカー、ターンテーブル、スピーカを無料で秋葉原の大きな電気屋で聞くことができた。
日本はメカに強く素晴ら製品を発売したが、スピーカーは欧州のタンノイ、米国のJBLなど海外の高級スピーカーに押されていた。佐野公康は、特にJBLの大ファンで欲しいと思ったが、安い物でも数10万円で、最高級のパラゴンに至ってはトヨタ・クラウンの3台分400万円以上する。
もちろん勉強をおろそかにせず、しっかり勉強し、やがて大学4年へ卒論も1971年中に完成し提出し受理された。その後、ソニーを受験して合格し1972年4月から1ケ月の研修を受けオーディオに詳しいので高級オーディオ、テープデッキ、映像機器の販売部門に配属された。
そのため放送局、映画会社、放送局へソニーの映像、音響製品を販売する営業部に配属された。しかし、この時代、競争が激しく、その戦いで負けず嫌いの佐野公康は、頑張りライバイ会社を出し抜いた。そして他社からソニー製品に切替えた。
特にビデオ、高級スピーカー、テープでデッキを切り替え1972年、営業部で新人賞を取り賞金50万円を獲得。上客をつかみ、そのお客さんの、つてで、他社からの切替をして1973年には営業部の最優秀賞を獲得して200万円を手にした。
しかし仕事に熱中し頑張れば頑張るほど空虚な気持ちになった。1973年の4月、営業活動中に炎天下の歩道で倒れて救急車で運ばれ点滴を打って脱水症状は回復。内科では退院しても良いと言われたが、主治医の神経内科の医師が大学の神経内科を受診するように奨められた。
そして救急病院を4月7日退院。翌週の4月12日に大学病院の神経内科を受診し30分間、医師と面談して極度の心身症で長めに休息を取らないと取り返しの着かない重症の心身症になると忠告された。その後、診断書を書いてもらい5月12日まで1ケ月間の病欠届けを提出。
佐野公康は自宅から毎日、朝6時半に家を出て会社に通った。自分は小さい頃から佐野家の跡取り息子として新年の挨拶に父と行くと行く先々でお年玉をもらい、それを全て貯金していた。その貯金とソニーの給料と報奨金を合わせ500万円を貯めた。
やがて5月7日、営業部に出ると営業課長に呼ばれて佐野君がいないと業績が下がって困ると言われた。そして以前にも増して頑張って欲しいと聞かされると急に頭痛がしてめまいを起こし医務室へ行った。そのまま近くの大学病院の神経内科に行くと担当した医者が来て実情を話した。
すると、その会社に勤め続けるの厳しいと言われ転職を奨められた。人生長いから一度、1~2年、自分のこれからの人生を見つめ直したら良いと言われた。資金があるか聞かれ、ありますと答えた。すると先生が君みたいな将来性のある若者が、猛烈社員の上司に潰されるのを私は多く見てきたので退職を奨めるとあっさり語った。
それを聞いて佐野は、両親とも相談して結論を出しますというと絶対に無理しないでねと言うので無理して死を選んだ患者さんもいるんだと声を詰まらせて言ったのを聞いて背筋が凍る思いをした。その後、会社に電話入れ気分が悪いから自宅に帰ると言い中央線で八王子郊外の実家へ帰った。