11話:本田君と佐野の第2子誕生
1985年10月10日、佐野の奥さんが近くの産婦人科病院に入院した。10月13日元気な女の赤ちゃんを出産し10月16日に退院した。その後、奥さんの実家に戻った。名前の玲子、佐野玲子と名付けた。そして吉村君は再度、企業への就職活動を始めて佐野の元を離れた。
その代わりに本田喜一君が入り授業のある土、日、祭日の朝8時半から教室の長椅子、長机を並べ、雑巾でふき、掃除機でゴミを掃除して9時から授業を開始した。9時から10時、10時から11時、11時から12時で終了。
その後、塾生が帰った頃に本田君のお母さんが冷蔵庫の中の食材を使い昼食を作ってもらい5から6人で長机、長椅子で昼食をたべて、講師達は帰り、机と椅子を1つ残し片付けた。本田君を採用したが、塾で教えられないから給料は12万でなくて10万円で十分と言うので月10万円で契約。
その後、本田君が勉強をはじめ佐野が無料で本田君の解らない所を教えた。そして梅雨、夏、秋、冬が過ぎ、本田君が中央大学経済学部の夜学を受験したいと話した。それは賢い選択だと言い、やがて1986年となった。1月に塾生の最終模擬試験をして3人が問題を抱えてることが解った。
2人が精神的なことなので、座禅をさせたりストレッチ、深呼吸で、あがらないようにする方法を伝授すると楽になったと答えた。残り1人は、やる気が今ひとつで困り果て、この問題だけは、自分自身で解決しなければならないと説得した。
やがて2月に入り3人が不合格で、私立大学の受験にのぞみをつないだ。3月になり2人が不合格となった。やはり問題の3人だった。この時、やる気がない受験生に対しての対策が全くないことに佐野はふがいなさをしみじみと感じた。そして最終的に70人が合格して3人が不合格となった。
グラマーで美人のケイトは1986年中央大学経済学部に合格した。お腹を壊した本田君は中央大学経済学部2部「夜間部」に合格した。その後、夜18時からの授業に欠かさずギア付きの自転車に乗って通った。本田君の合格が決まり、佐野に会いに来て、お礼を言った。
育英会の奨学金を借りた事も話してくれた。もちろん塾は、土日祭日の昼間なので働きながら夜学へ通った。しかし悩みがなくなってからは本田君は体調をこわすことが少なくなり、身体も一回り大きくなって逞しさが増した。そして1986年度も塾生募集のチラシ配りを積極的に行った。
その結果、志望校合格率が9割を超してるのが評価されたのか、102名の応募があり100人の大台を超えた。その後、5月連休前に106人になった。本田君が大学生になったので給料を10万円から12万円に増やした。その後、ケイトが佐野の所へ来て塾の講師に雇って欲しいと言った。
その理由を聞くと父が厳しい人で子供に小遣いをくれず困っているので喫茶店に自由に入れ位の小遣いが欲しいと言い英語なら完璧だから良い講師になると思うわよと念を押した。仕方ないので了解すると、その話をケイトに話すと大喜びしてくれた。
そして講師のアルバイト学生が全員、交代して彼らが自主的に次の後輩を捜してきてくれ、10人の新しいメンバーが揃った。そうして7月になると、本田君から、この家を出て相模湖町の県営団地の2DKが空いたので、そちらに引っ越したいと言われ、了解した。