10話:吉村の人生指南と恵まれない親子2
そして職がなければ、佐野先生の下で働いたら良いと言った。それを聞いて2人も雇うのは難しいと言うと、吉村が自分の考えが甘かったことが良くわかったので、もう一度、就職して頑張ってみますと告げた。そうか、そう言う気になったかと佐野が言った。
それだけでも大きな収穫があったじゃないかと佐野が、うれしそうに言った。その塾生の家に行くと山の崖の近くで、炭たき小屋の様なトタン屋根で粗末な建物だった。その他、所々、トタンに穴が開いて穴にパテでふさいであるだけの掘っ立て小屋で、中に入ると、便所の臭いがきつい。
誰かが、床の土をならして、その上にブロックを置いて板をのせただけで歩くと音がする程だ。プロパンとコンロが一つとヤカン、お釜、鍋2つ、プラスチックの食器入れに、お茶碗と箸。数年前まで相模湖町の亡くなった父の農家に住んでいた。
しかし、家族が多くなり、だんだん、その家に、いられない雰囲気になり出たと話した。この近くの農家の人が無料で、ここ使って良いと言われ、たまに野菜、お米をもらって生活してると行った。これを見ていた吉村が信じられないと言い呆然と立ち尽くした。
そして吉村が彼に向かって。お前も男だろ何とかしてやれよときつく言った。すると、その塾生もハイと答え、まず、ここを出て、まともな所に引っ越しますと言った。そして佐野が、思わず、うちの塾に住むかと言った。
土日祭日は授業で使っている以外、塾の日でも夜19時過ぎは、だれも住んでないと言った。そして、ここの吉村君をクビにして君達、親子を塾の管理人として雇い、君は塾の仕事をしてもらい、給料も月に12万円出すよと言った。
それ以外、どこかでアルバイトすれば、何とか食べていけるだろうと言った。それを聞いて、その塾生は、うれし泣きし冷静になったようで、俺は、今迄、何やっていたのだろうと反省した。
そのうち、お母さんがやってきて、お礼を言って病院のお支払いはと聞くので、佐野が気にしないで下さいと言った。そして息子さんに詳しいことを言ってありますので、うちに来て住んで下さいというとキツネにつままれた様な顔した。
そして、じゃー、これで失礼しますと佐野と吉村は、そこを出て、吉村を相模湖駅で下ろして、佐野は奥さんの実家へ帰って行った。そして、翌朝、その塾生の家に電話して、今日、月曜日に引っ越ししたら良いと言い2トン・トラックで行くから家財道具をまとめておく様に言った。
すると彼の母が電話に出て、これからお世話になりますと声を詰まらせながら言い後は涙声で、ありがとうございますと言った。7時半に家に着くと佐野の母に握ってもらった、おにぎりと漬物を渡して腹ごしらえしてから荷物をトラックに入れましょうと言った。
彼の母が、何から何まで本当に申し訳ないと言った。それに対し佐野が「人生、捨てる神あれば拾う神あり」ですよと笑った。ところで自己紹介してませんでしたよねと言た。私は佐野公康、八王子郊外の農家の長男、早稲田大学理工学部を出てソニーに入社。
その後、働き過ぎで身体を壊し、自然豊かな自分の故郷に帰ってきて、藤野のアトリエが売りに出ていたので買った。その家で毎月、土日祭日を中心に高校生の進学塾を経営して最近2人目の子が生まれたところですと言った。
すると、彼が名前は本田喜一と言い、相模湖町の子沢山の農家で生まれて父が3年前に交通事故で死んでから1年間に亡き父の実家で暮らしていたのですが居づらくなって出て住む所がなく、この近所の農家で使ってない、元の炭炊き小屋を無料で借りて住んだと言った。
そして母、本田澄子が私を大学を出て立派な会社に入って、ちゃんとした家に引っ越そうと言うので、その期待に応えるため、佐野先生の進学塾に入ったと説明した。朝食を食べて話が終わり荷物をトラックに積み込んで途中の世話になった農家の人に挨拶し藤野の佐野進学塾へ15分で到着した。
そして荷物を台所の横に置いて台所の近くにベッドが1つと4枚の畳部屋があり、他は、折りたたみ長机と長椅子がきちんと隅の方に山積みされていた。そして15畳以上の広いリビングが何もない状態であった。家財道具やその他を間仕切りを買ってきて隠すと良いと言た。
風呂とトイレは、こっちと案内した。すると何て広いんでしょうと本田澄子さんが驚いた。私は掃除、炊事、洗濯が得意ですので綺麗にしておきますと言った。なお、外に自転車が2台、あるから自由に使って良いと言い、台所のシンクの引出に自転車の鍵が入っていると伝えた。