ふぇりるのかこ
「おかあさんへ。シーフーがうっとうしくてたまりません。わたしは産まれたばかりのいもうととおとうとにはやくあいたいです。でもシーフーが外は危ないからダメっていいます。早くかえってきておかあ」
「フェリル、手紙を書いてるの?」
「うん。シーフーがうっとうしいからおかあさんにどうにかしてってお願いするの」
背後から、するり、と手紙を取り上げたシーフーを振り返り、私は頬をふくらませた。
「なにこれ。こんなのアリエルさんが勘違いしちゃうだろ。もっと事実を書いてよ」
「フェリルうそついてないもん。シーフーはいいよね、王都のおうちにいったんでしょう? フェリルも行きたかった」
「ダメだよ。外にはいっぱい知らない人間が居て、可愛い可愛い天使みたいなフェリルによからぬ事を考えるクズ共で溢れているんだよ? そんな所に連れ出すなんてマーデリック公爵が許しても俺が許さないよ。ここにいれば森の精霊がフェリルを守ってくれるんだって。アリエルさんが言ってた。そもそも俺だって王都なんかに行きたくなかったんだ。公爵が泣き喚いて煩いからお願いってアリエルさんに頼まれたから仕方なくそうしたんだよ」
この男は目覚めたと思ったら常に私の後ろを、産まれたての小鳥のようについて周り、転びそうになったら大仰に抱き上げ、虫が数十センチ先にいればそれを抹殺し、食事の介助を譲らず、寝る時は必ず抱き枕か何かのように抱えて眠った。
そうだ、思い出した……。
シーフーは今よりもずっと変態だった。
そして今よりもずっとおしゃべりで。口調だって気安くて表情もあって、もっと……うーん、上手く言えないけど、人間っぽかった。
当時の私は幼すぎてシーフーが言っていることの大半は理解が出来なかったがこれが「うっとうしい」ということだけは分かっていた。なぜならお母さんがよくお父さんに言っていたからだ。
「ねえねえ、あかちゃんかわいかった?」
「かわいくなかった」
「うそだ!! おかあさんがてんしみたいにかわいいっていってたもん」
「全然かわいくなかった。というか見てない、興味無い。フェリルのがずっと可愛い」
「ねえねえ、シーフーはへんたいなの?」
「変態っていうのはね、君のお父さんみたいなやつのことを言うんだよ」
「おかあさんがシーフーはへんたいだから気をつけなさいって」
「俺が? フェリルが壊した机直してあげて、フェリルの代わりに鹿を捌いてあげたのに? ハテュの葉っぱいつも残してるの食べてあげるの誰だっけ」
「……ごめんなさい」
「俺はフェリルの為ならなんだってするよ? フェリルが大切で堪らないんだから、ずっとずっと森で一緒に暮らそうね」
「えーでもフェリル赤ちゃんがみたいの」
シーフーはにっこり笑った。
今みたいな貼り付けた笑みでなく、少年らしい鮮やかな笑顔だった。
両親は仲が良かったけれど、よく喧嘩もした。喧嘩というか考えの違いから喧嘩になる前にお母さんがふらっと逃げてしまうのだ。
だから私はそれに合わせて、森に着いてきていたのだけれど、シーフーが来てからはそれ以外でもしょっちゅう森にいた。
お父さんは帰ってこいとうるさく、頻繁に使用人と手紙を寄越し、シーフーは露骨に嫌そうにしながら私を連れて屋敷と森を行ったり来たりした。
双子が産まれても、私が狩りをできるようになっても相変わらずお母さんは自由で、たまに森にいたり、屋敷にいたり、でも大半は行方不明だった。
それでもシーフーがいてくれたから森でも屋敷でも私は寂しくなかったし楽しかった。
きっと、こんな日々がずっと続いていくのだと疑いもしなかった。
それが崩れたのは、シーフーがやってきて2度目の冬を迎えた頃。
一人の女性がふらりと森にやってきた。
濃い緑の髪はバサバサで艶がなく、ざんばらに切り刻まれ、とても寒い日だったのにぼろの布切れを辛うじて巻いたかのような衣服で、シワシワの枯れた枝のような肌を包んでいる。
髪と同じ色の瞳は見開かれて眼球は目に見えて乾いていた。
「どうしたの? 大丈夫? そんなところにいたら寒いよ」
山小屋の屋根から雪を下ろしていた私は、珍しい来訪者に少しワクワクしていたのかもしれない。
飛び降りて急いで駆け寄り、驚く程軽い体を抱き起こした。
「フェリル! 何やってるんだ、危ないから屋根から飛び降りるのはやめなさいっていつも……」
「シーフー、見て! 怪我しているのかも。直してあげなくちゃ。暖炉をつけて、あたたかいスープも」
「ちょっと、待て、誰だよそれ。…………フェリル、今すぐこっちに、」
「……ん、げん、」
「え? なあに? なんていったの?」
「……嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つきウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキ」
「フェリル!!!!」
シーフーの聞いた事のないような叫び声、ものすごい勢いで伸びてくる緑の群れ、身体中がジンジンと熱を持って痛かったし、口の中に入り込んだ雪崩のような何かのせいで息ができない。
「ウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキウソツキ」
「っあ、…ぐ、…た、…」
「やめ、やめろ!! フェリル!!」
苦しい、苦しい……。
…………そうだ、苦しかった。
シーフーがすごい顔でその人に飛びかかる。仰向けに倒れながらも何か呪いのような言葉を吐くのを辞めない。
持っていたシャベルを真っ先に心臓目掛けて振りかかったが女の人はシャベルが刺さろうが、血が吹きでようが、甲高い歪な笑い声を上げているだけだった。
「く、……し……」
「く、くそ!! や、やめろ!! やめろ!! その子を、やめ、やめて、やめて、やめてくれ」
意識が朦朧としてくる。
悲痛な鳴き声混じりの叫び声と、奇妙な高笑いだけが耳に残って視界が霞んで、もうダメだと思った時に、そう……そうだ、お母さんが来てくれたんだ。
突然、呼吸が出来るようになり、激しく咳き込みながら酸素を必死で吸って、ガタガタと震える体で呆然とその様子を見ていた。
「あらあら、私の可愛いフェリルになんてことするの」
「アリ、エルさ」
「腐りかけの身体でこんなに暴れて……辛かったわね」
「あ、あア、ア」
緑の人はもう既に人の形をしておらず、ついでに緑でもなかった。
なにか、どす黒い言い表せないほど深く醜い色形でぐちゃぐちゃになった暖炉の炭みたいで、やがて、さらさらと風に乗って消えていった。
荒い息を繰り返しながら状況を把握出来ないまま、その光景を凝視する私をいつしかシーフーが固く抱きしめていた。
ポタリポタリと春の雨のように耐えることなく顔に水の粒が当たって、驚いて見上げた先でシーフーは静かに泣いていた。
「シーフー?」
「ぅっ、っ、し、死んじゃうかとおも、思ったっ」
「シーフー」
「嫌だ。もうこれ以上、何もな、無くしたくないっ、いやだ、俺がっ、ぅ、はじめて、う、フェリルっ!」
私よりずっと大きいはずのシーフーがとても小さく見えて、泣き喚くシーフーの背を撫でながら「怖かったね」と言うと、シーフーは息を詰めて声を殺して泣いていた。
「フェリル。よく聞いて。あれはね、精霊の成れの果ての姿よ。精霊は自由な存在、とても純粋で穢れなき心を依代に成立しているの」
「なれの、はて?」
お母さんはシーフーがくっついたままの私をゆっくりと抱きしめながら身体中の傷を癒してくれた。
じんわりと染み渡る心地の良い感覚にぼんやりしながら、難しい言葉の羅列に首を傾げる。
「そこにいるシーフーのような人間と同じようだけれど、精霊は人間とは全然違うの。人間みたいに誰かを憎んだり、恨んだり、妬んだり、呪ったりしてしまうと、段々力を無くしていって、最後には腐って消えてしまうの」
「きえちゃうの?」
「そうよ。この子もきっと人間に騙されて悪い心を持ってしまったのね。可哀想に……。精霊はとても純粋な心を持っているから狡い人間にすぐに騙されてしまうわ。お母様はね、たまーにいるこういう哀れな精霊を見送ってあげているの。人間達との生活に支障をきたさないように上手いこと調整もしないといけないでしょう」
「……だからあんまりかえってこないの?」
「ええ、そう。ごめんね、フェリル。だから精霊たちはある時から人間の前に姿を現すのをやめてしまったの。昔はとても仲良しだったのだけれど……。貴方は私に似て精霊の力を受け継いでいるから悪い心を持ってしまったら消えてしまうかもしれない」
「フェリルも、きえちゃうの?」
「そんな!! じゃあもう金輪際人間と関わるのはやめましょう! 森にひきこもってずっと、ここで生きたらいいんです!」
「…………そうね、それが一番いいのかもしれない。でもね、悪い人間ばかりじゃないのよ。根本的に人間と精霊は相容れないけれど、例えば貴方のお父様のように変な……素敵な人間もいるわ。お母様はね、できることならたくさんの出会いを大切にして欲しいの。ほら、精霊って女体しかいないから恋も出来ないし、家族も作れないしね」
「こい?」
「そんなの必要ありません!フェリル、絶対一生分からなくてもいいんだからね」
「あらあら、恋は素敵よ? 世界が変わるの。今まで見ていた景色が二割増くらいで鮮やかに美しくなるわ。こころがはずんで生まれ変わったみたいに……」
「フェリル。聞かなくていいから。君にはまだ早い。というか一生知らなくていい事だから」
「こい……」
パァァと目を輝かせた私の肩をがっちりと掴んだシーフーが目を血走らせていたが一切気にならなかった。
「だからね、今見た事は全部忘れて。苦しかったことも怖かったことも無かったことにしましょう。貴方には恐れずに自分らしく生きて欲しいの。それが精霊ってものよ。怖がらずに自分の人生は自分で選ばなきゃ」
「は? アリエルさん!?? なんで、」
「お父様にはどうしようかしら……。娘が消えちゃうかもなんて知ったらあの人、貴方を閉じ込めちゃうかもしれないわね。ああ、なんて面倒で鬱陶しい男」
やれやれと呆れた顔をするお母さんは言葉とは裏腹になんだか楽しそうだった。
そう、お母さんはいつも楽しそう。
どんなときも自由で好きなことを好きなだけして、いつも楽しく生きている。
それが精霊ってものだから。
「ダメです。フェリルが消えるかもしれないなんて、そんな危険わざわざ犯す必要ない」
「あらあら、ここにも鬱陶しいのがいたわね」
「シーフーはうっとうしい」
「そうね。……じゃあ、シーフー。貴方がフェリルを傍で守ってあげて。汚い感情を抱いてしまわないように、悪い心に染まらないように、導いて、フェリルがいつだって心穏やかに幸せにいられるように」
「俺が?」
お母さんはこの世のものとは思えない程美しい顔で微笑み、それから両手を掲げた。
ふわり、と暖かな風が吹き、それからシーフーがこちらを向く。
私の手をぎゅっと握りしめ、何かを覚悟したように真っ直ぐにこちらを射抜く焦げ茶色の瞳が潤んでいた。
それから、しばらくして、シーフーは私を「フェリル様」と呼ぶようになった。
マーデリック家の使用人になりましたと、どこか作り物めいた笑顔で言い、もうすでに今までの気安い口調は見る影もなかった。
「シーフー? いきなり、どうしたの? ちがう人みたい」
あの時の記憶が既にない私がそう訪ねると、シーフーは少しだけ眉を寄せ、何かをこらえるようにぎゅっと目を閉じて少しだけ目を潤ませて、はにかむように笑った。
「いいえ、私はシーフーです。ただのシーフー。貴方に貰った名前です」
「そうだったっけ? でもなんか変」
「……ですが、必要なことなのです。これから先ずっとあなたを守る為に、私はまだなんの力も持っていませんから」
「一緒にいてくれたらそれでいいのにな」
俯きながらそう言うと、彼は困ったように笑って、居住まいをただし、そっと私の手を取る。
「フェリル様……。私は貴方のために生きます。貴方に救っていただいた命。貴方が使ってください」
「?? なにいってるのかわかんない」
「…………分からなくて構いません。貴方は何も気にせず今まで通りの貴方でいてください。ずっとずっと、私がお守りしますから」
当時の私にはよく分からなかったけど、シーフーがはにかんだようにちょっとだけ頬を染めて笑うから、嬉しくなって笑い返したのだった。
いつもありがとうございます!
とりあえず過去編終わり、かな??




