おかあさん
「ジェンシー殿下?」
険しい顔をして眉を寄せるジェンシー殿下に声をかけると彼はちらりとこちらを一瞥して、それから陛下とお父さんの方に目を向けた。
「シーフーと呼ばれている執事はザイオン人なのですか?」
ザイオン人? 考えたこともなかった。
確かに黒髪に焦げ茶色の瞳はザイオン人によくある特徴だろうし、トルヴァン人に黒髪や濃い髪色の者は珍しい。ザイオンの血が混じっているのかもしれないし、ザイオンから来たのかもしれない。けれどそんな話聞いたことも無い。なぜなら、気がついたらシーフーはもうそばに居たのだ。
陛下がお父さんと顔を見合せ、それから私を見る。妙に青ざめた顔のお父さんはハンカチで顔の汗を拭うと息をついて、口を開いた。
「今まで特に必要も無いだろうと言わなかったが……シーフーはザイオン人です。死にかけていた所を私の妻、アリエルが拾い、マーデリック家が管理していたハズレの森に行き着いた」
「……え?」
シーフーがザイオン人? いや別に何人だろうとどうでもいいんだけど、死にかけていた? お母さんが拾った?? 全然記憶にない。気がついたらシーフーはそばにいて家族同然になっていたんだ。昔からずっと、そういうものだと思っていた。
「ザイオン人か……。我が国も関係がないとは言いきれませんね。彼は何故シーフーという名前なのですか?」
「と、いいますと?」
「シーフーというのは、我が国の言葉で師を意味します。ですが、およそ人名につけるものでは無い。彼がそう名乗ったのですか?」
お父さんがちらりとこちらを向くが、呆然としたままの私は何も答えられないまま、ぼんやりとその青い瞳を見返しただけだった。
ジェンシー殿下まで、あの男と同じようなことを言っている。「なぜシーフーというのか」とかいうおかしな質問だ。シーフーはシーフーだし、シーフーでしかないのに、訳が分からない。なんだろう訳が分からなすぎて頭が痛い。
「私が出会った時すでに、彼はシーフーと名乗りました。この国で便宜上、リアム・フォスターという名を与え仮の爵位も与えましたが、騎士学校に通う以外で利用したことがありません。その後も自分の事はシーフーと呼べとそればかりで」
「ふうん」
私の知らないところで私の知らない話がどんどん交わされていく。リアム・フォスター? 誰だそれは、爵位? なんだそれは、騎士学校? シーフーが? なぜだかチラチラとこちらを見てくるお父さんが気持ち悪いが、詰る気にもならず、私はズキズキと痛む頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「フェリル・マーデリック? 大丈夫ですか」
私はシーフーの事を何も知らない。
誰よりも近くにいた誰よりも信頼のおけるあの執事のことを何も知らない。
お父さんは知っていたのに、いや、私が興味を持たなかったからいけないのか? そうじゃない、シーフーはどこまでいってもシーフーで、それだけで、別に肩書きも本名も出身地も私には必要無かったから。
別に、何を知らなくてもシーフーは「大丈夫」と言って笑ってくれて、シーフーが何者だろうと別にどうでもよかったから。
ーーーー私はシーフーです。ただのシーフー。貴方に貰った名前です。
今みたいに完璧で美しい笑みではない、涙の滲んだはにかんだ顔。
上擦った余裕のない声、手袋越しでない、震えた冷たい指先が触れ合う感覚。
ーーーーーフェリル様、私は貴方のために生きます。貴方に救っていただいた命、貴方が使ってください。
…………何だこの記憶は。
泣きながら私の手を取る黒髪の少年は、一体誰?
シーフー? あの完璧で変態で優秀な余裕に満ち溢れた、あの男?
「フェリル? フェリル? どうした?!」
ーーーーーー大丈夫。何があろうと、私がいる限り。
何があったんだっけ、何があって、シーフーはあんな顔をしたんだ? なにか、凄く恐ろしいことがあって、それで、確か……えっと。
…………恐ろしいこと? なんだ? 何があったんだ?
走馬灯のように、頭痛と共に森の映像がチラつく。泣き笑いのようなシーフーの顔も、悲しそうなお母さんの顔も、難しい顔をしたお父さんも……。
…………なにか、得体の知れない恐ろしいものも。
…………そうだ、
「お父さん?」
「どうした、大丈夫か、フェリル、まさかまだ体調が……」
「ううん……。お父さん、小さい頃、森で何かあった? 何か、怖いことが」
「フェリル……」
昔のシーフーのことも何もかも上手く思い出せない。なにか、蓋でもされているみたいに。
お父さんは世にも珍しく真剣な顔をしてじっと私を見つめてから陛下を呼び、頭を下げ何かを言った。
「陛下、私事で申し訳ございません。シーフーの過去については私も詳細を知りません。知るのはフェリルとアリエルとシーフー本人のみ。私が知るのはアリエルから聞いたことだけ。そして娘の記憶は妻によって封じられているのです」
「記憶を?」
ジェラルド王太子殿下が「はっ、便利なものだな」と皮肉げに笑い、ユーリウス殿下がこちらを驚愕の目で見つめ、陛下が腕を組む。
お父さんは未だ顔色の良くない顔でしかし何かを決心したかのように口を開いた。
「何があったのかは私もわかりませんが、精霊にとって重要な話だと言う事でした。もしかしたら何かの役に立つやもしれません。ティティー様をお呼びいただけないでしょうか」
「元より、そのつもりであった。しかしジェンシー殿は……」
「ドレイク王、俺の国にも関わることです。ユウロン……まあザイオン人、特に上流階級にはままある名ではありますが、もしその者がリー・ユウロンの関係者であるとするならば、ただごとでは済まないかもしれない」
「リー・ユウロン、聞いたことがある。確か……」
「ええ、国民より絶大な支持を得ていたかつての継承権第四位の王子です。在りし日は俺の政敵でもありましたが……。十四年前親族郎党暗殺されています」
暗殺。
いつもより数段低い声。
ジェンシー殿下に似合わない物騒な単語に痛む頭を押さえつけ、視線をあげると見たことの無い真剣で冷たい目をした殿下が陛下を見すえていた。
訳の分からないことばかりだ。
確か、シーフーの話をしていたはずだったのに、いつの間にか、ザイオンのかつての王子様の話になり、暗殺とかいう物騒な話題に成り代わり、そして、いつか見たティティーの鐘とやらが大慌てで用意されている。
「フェリル・マーデリック」
目の前で繰り広げられる目まぐるしい会話や人の動きが、やけに緩慢に見える。煩い喧騒もどこか遠く、ズキズキと痛む頭だけが現実味を帯びている。
「フェリル・マーデリック!」
まるで夢を見ているよう。
つい数ヶ月前まで私はいつもと変わらず森でのんびりと過ごしていたし、シーフーとこのままずっとのどかな日々を過ごしていくのだと信じて疑わなかった。それに疑問なんて感じたことはなくて、というか先のことなんて大して考えていなくて、国の上層たちがこんなに目の前で議論する場面に居合わせるだなんて想像すらしなかった。
なんでこんな大事になっているんだっけ、わたしはただ、シーフーから逃げようとしただけで……。
おかしいほど冷静な頭がぼんやりとどうでもいいことを考えているのが不思議だからか、ズキズキと鼓動する頭が痛すぎるからか、笑えてくる。
……私が逃げたからいけないのか? 全部私のせいなのか? そう、いつも、そう、いつも私のせいで…………。
………………いつも、いつもって、いつだ?
……どうして、私はここにいるのだろう。
「フェリル!!」
「あ、れ」
肩を揺さぶられて余計に痛む頭をなんとかあげた先にいたのは元婚約者役であるユーリウス殿下で、彼は何故だか泣きそうな顔をして焦りをいっぱい浮かべていた。
…………はは、なんでそんなに必死な顔してるんだ。こんなユーリウス殿下見たことない。
「フェリル! 大丈夫か、酷い顔色だ。いつもの阿呆丸出しの顔はどうしたんだよ、何に呑まれてんだ!? そんなの、全然フェリル・マーデリックらしくない」
阿呆、丸出しって……。大体、らしくないのはお前の方じゃないか、ユーリウス殿下。
はは、なんだよその顔。なっさけない顔してるなあ〜まるで、いつかの…………
…………あれ、いつかの、誰、だっけ……。
「あらあら、わたくしの可愛いフェリル。その陰湿そうな男に虐められているの? お母様が懲らしめてあげましょう」
ふわり、懐かしい匂いとともに肩に温もりを感じて、ぐちゃぐちゃだった思考がずっと落ち着いた。
山の麓の湧き水の爽やかな香りのような山葡萄の瑞々しい香りのような暖かくて優しい匂い。
何年ぶりだろう?
「……お母さん?」
「あらあら、わたくしのフェリル、大きくなったわね」
水を閉じ込めたような不思議な色彩の長い髪、青が散りばめられた神秘的な金の瞳。
人々は私の外見を誉めそやすけれど、本物に比べたらいかに私が劣化版であるかがよく分かる。
ーーーー本物の水の精霊は格が違うのだから。
一方その頃森ではーーーー
「……お、おい、あの女どっか行ったけど、まさか俺とお前2人で暮らすとか言わないよな」
「殺すぞ。なんで私がお前なんかと。大丈夫です、フェリル様の行く宛てなんて実家しかないんですから。直ぐに捕まえます」
「…………もし居なかったらどうすんだよ」
「は? 居なかったらって何です。どうもこうも、捕まえるっていったでしょう。例えどこにいようともね」
「(……怖)」
やっとお母さん\(^o^)/




