(三)僕らは悩んで成長する魔法使いの葦なのだ
ローズマリーの教室は別棟にある。偶然であってもなかなか会えない。
それなのに金曜日の放課後、中庭の噴水前で出会えた。
「あのね、わたし、悟くんに訊きたいことがあって……」
ローズマリーは澄んだ青い目で僕を見つめた。
僕は急に不安と緊張がよぎった。
「なに? なんでも訊いて?」
ここは寮への帰り道。待ち伏せまでするなんて、よほどのことだ。嫌われるような事をしたのでなければいいが。
「他の人が悟くんのことをサー・トールって呼んでいるみたいだけど……。サーって、貴族の称号の事よね。悟くんは、じつはどこかの国の貴族とか、騎士階級の出身だったの?」
あ、その件か。日本人の僕がサー・トールなんて、そりゃ変に聞こえるよな。でも、ローズマリーが僕のことを気にしてくれた、それが嬉しい。僕は喜びを隠しきれない笑顔で、事情を説明した。
「そうなの……。男の子って、変わったことをするのね」
ローズマリーは考え込むように俯いた。
どうやら女子には伝統的に二つ名を付ける風習は無いらしい。ここでは勉強以外にも覚えることが多そうだ。
ローズマリーには、僕が日本で平均的な一般家庭の日本人であることを、しっかり説明した。
一応、納得はしてくれた。
でも、まだ上目遣いに僕を見ている。他にも何かあるのかな?
「あの、わたしも、普通の……人間だから、家庭環境なんて、気にしないわ。わたしは最初から、悟くん、と呼んでいたから、それでいいかしら?」
どこか不安そうに訊ねられた。
こんな有り難い申し出を断る男がいると思っているのだろうか。
もしや、すごいお金持ちのお嬢様で、普通の学校へ行ったことが無い? まさかね。気さくに話しかけてくれるし、そこまで箱入り娘って感じはしない。普通に世間知らずなのだろう。
「ぜひ、それでお願いします」
じゃあ、君のことはローズマリーって呼んでもいい?
僕がそう訊く前に、ローズマリーはたたみかけて頼んでくれた。
「わたしのことはローズマリーって呼んでね。わたしも、普通の人間のローズマリーだから」
もちろん僕は、彼女をローズマリーと呼び捨てにすることを固く約束した。
彼女は『家政学科』だ。
家政学というものが、多次元管理局の魔法使い的な局員になるためにどう必要なのか、僕にはさっぱりわからない。が、使用教室が遠すぎて会えない理由は納得できた。
学校で会えそうなのは昼休みくらいだ。
食堂に行くタイミングを合わせれば、毎日会える。
僕らは月曜日に食堂で会うことを約束し、その日は寮の前まで一緒に帰った。
どうも僕が大勢の前で公式名称を許可したのは、早計だったようだ。
この二つ名は、信じられない早さで学校中に広まった。
「やあ、サー・トール、元気かい、授業はどうだった?」
二つ名が決定したその日の夕方早々、廊下で、通りすがりのリリィーナさんに声を掛けられた。魔法学や剣術の指導教官として学校内に居るんだそうだ。
『サー・トール』って、そんなに面白い呼び方かな?
リリィーナさんは、局を辞めた現在でも局では一、二を争う腕の立つ剣士で強い魔法使いだという。境海世界では名の通った探偵だとか。白く寂しい通りに不思議探偵事務所があるけど、指導教官を引き受けている間は、女子寮にある教師用の部屋に寝泊まりしているという。
「お、サー・トールじゃないか、ここの空気には慣れたかい?」
ポール教授には教室の前で肩を叩かれた。上品な紳士のポール教授は、境海世界の犯罪学の権威にして、やっぱり強い魔法使いだという。
そんな超が付く有名な二人が、僕に親しげに声を掛けたものだから、目撃した生徒達は僕にまで畏怖の眼差しを向けるようになった。
「サー・トールって、何者なんだ。じつは、どこかの魔法の王国から来た大魔法使いなのか?」
「いや、僕は普通の日本人だよ」
僕は普通というところを強調したが、いろんな所で、僕が知らない先生にまで「やあ、サー・トール」と声を掛けられる始末だ。その度に注目されるのはちょっと恥ずかしい。下手に目立って、イジメとかのターゲットにされても困る。
でも、一目置かれるなら、悪くないかな。
そう思った僕は開き直り、平気な振りをしてやり過ごすことにした。
だが、この魔法大学付属学院こと略称『魔学』は、僕の知る日本の学校とは完全に違っていた。
留学生の事情はさまざまだが、共通するのは、境海を超えた遠い国から魔法使いになるためにやって来たことだ。
リリィーナさんにスカウトされた僕の場合は、いささか不純な動機で入学を決めたわけだけど、彼らはそんな僕とは初めから目的意識が違う。卒業までに、魔法その他の技能を身に付けたプロフェッショナルになると決めている。卒業後は、ほとんど全員が多次元管理局に入局する。ハッキリ目標を定めた生徒達の向上心は強く、クラスの雰囲気は、僕の想像よりもうんと大人びていた。
そんなクラスに馴染むにつれ、生来がのんびり屋の僕も、否応なく自主的に、活動的になっていった。
「さっき、サー・トールって誰のこと?って、寮の先生に聞かれちゃったよ。ちゃんと君のことだと説明しておいたから」
寮に戻って夕食後、カイル・バートが報告に来た。
「はは、ありがとう」
それで、さっき寮の玄関口で、ヒルダおばさんに「お帰りなさい、サー・トール!」って声を掛けられたのか。ビックリしたので「ただいま」と返せず、引き攣った笑顔を返してしまった。
一週間のうちに、サー・トールという僕の二つ名を知らない者は、学校にはいなくなった。加えてリリィーナさんとポール教授の威光によって、僕は『特別な特待生』の異名までプラスされてしまった。
「サー・トールってすごいやつだな。リリィーナ教官が特別にスカウトしてきたんだって? 知ってたか、特待生って、今年は数人しかいないんだぜ」
寮で隣室のカイル・バートがやたらと感心している。彼はクラスで一番に声を掛けてくれた級友だ。
今年の特待生は、僕を含めて全部で五人。うち一人は女子でローズマリーだ。全員が遠方からの留学生だ。
特待生の特徴はいろいろある。
その一つは、選択科目が初めから指導教官によって決められていることだ。他にも、返さなくて良い奨学金と必要品の全支給、局員待遇の給与など、特典に溢れている。もっとも特筆すべきは、将来入局した時の所属部署がすでに決定していることだろう。
「そうか、サー・トールは、将来、万能捜査課に入って、通称・万課員になるんだな。エリート中のエリートだよなー。やっぱり、サー・トールにして良かったじゃないか。カッコイイだろ、君は万課員になる運命なんだ」
二つ名討議のあと、僕は自然な流れでカイル・バートをリーダー格とするグループに入っていた。クラスにすんなり溶け込めたのはカイルのおかげだ。
「カイルのことは、なんて呼べばいいんだい?」
他の皆には、僕みたいな特殊な呼び名は付いていないようだけど?
「え、俺の二つ名かい? まだ無いよ」
カイル・バートという名前は、本名だという。
僕の二つ名を真剣に討議した張本人なのに、何故だ!?
「そりゃ、卒業までにゆっくり決めるさ」
カイルは、まったく悪びれずに言った。ようするに、生徒がみんな、入学一日目から二つ名を持つわけではないらしい。
カイルは、親族の紹介で入学してきた生徒だ。父方の叔父さんが多次元管理局に勤めているとか。
「俺は魔法使いというより、多次元管理局の新聞記者になりたくて、叔父さんに留学の手続きを頼んだんだ」
意外にまともな夢だ。
多次元管理局に勤めているという叔父さんは『編集局』という部署に在籍しているという。編集局は『多次元新聞』の発行元だ。他にも境海世界の事件や文化を扱った雑誌や本をたくさん出版している。カイルの叔父さんは取材で境海世界を飛び回っているんだとか。
「その叔父さんが言っていたけど、リリィーナ教官の見立ては、絶対にはずれないらしいぜ。君はきっとすごい魔法使いになる運命なんだ。サー・トールが万課員になって、初めて事件を解決した時には、俺に独占インタビューさせてくれよな」
カイルはきっと将来、すごい魔法使いのインタビュー記事を書くことを計画しているのだろう。それが僕かどうかは別として。
「いや、僕が万能捜査課に入れるかどうかは、まだわからないだろ。だいたい僕は、自分が魔法使いになれるなんて、まだ信じられていないんだから」
僕は本音を語った。カイルの夢を壊して悪いが、いきがっても始まらない。
「あ、それはみんな一緒だよ。俺も、魔法を習うなんて、ここで初めてだから」
カイルの言葉は、僕にとって軽い衝撃だった。僕らと同学年で魔法を使える生徒は、ほんの数人らしい。それも魔法使いが家業だとか、日常生活に魔法が存在するのが当たり前の国から来たような者だけだという。
僕は驚くと同時に、ちょっと安心もした。この学校では、僕を除いた全員が、生まれながらに魔法使い的な存在だと思っていた。
ド素人は僕だけではなかったのだ。
魔法が日常生活全般にあるというのは、境海世界でも多くないらしい。
人間が生活するのに必要な物理法則は、地水火風の四大精霊が境海世界で共通するように、どこの世界でもわりあいに普遍的な共通事項なんだそうだ。
たとえば水道は、水道管が整備されれば、水圧によって利用できる。これは魔法とは関係がない。第ゼロ次元周辺の文化が進歩しつつある国では、電気を使用している国も多い。発電するエネルギー源は境海世界各地で異なるが、その進歩の仕方はどこか地球の歴史によく似ていた。
このように、海によって隔てられた異なる場所でありながら、似たような進化を遂げる現象を『収斂進化』というそうだ。というのを、境海世界学の授業で習った。
白く寂しい通りには、どこかに発電所と変電所がある。何で作った電気かは知らないが、僕は魔法大学の寮に暮らしていながら、日本にいるのと代わりない家電製品の恩恵に預かっている。
ちなみに日本製品が多い。いったい、誰が買ってくるのだろう。
あのリリィーナさんやポール教授や、ヒルダおばさんなんかも、日本の家電量販店に行ったりするんだろうか。
いや、べつにおかしくないけどね……。
そういえばリリィーナさんは、僕に何度も『君は万課員になるんだよ』と言っていた。万課員というのは『多次元管理局万能課』という部署に所属する局員だ。
境海を越えてどんな事件の捜査でも行うから『万能課』という意味だそうだ。
警察の仕事に似ていると聞かされても、地球の日本育ちの僕には、テレビ番組の二時間ドラマや推理小説の殺人事件くらいしか想像できない。
「そうだ、今年の特待生に、すごい美少女がいるっていう話を知ってるかい?」
カイル達は他のクラスの噂をしていた。どの女子が可愛いとか、勝手な品定めをしている。どうやら休憩時間に食堂へ行った級友達が、可愛い女子の一団が食堂へ入るところを見たらしい。エプロンを付けていたので家政学科の女子だとわかったという。
「うん、まあね」
僕は気を付けて、さりげなく同意するだけに留めた。心の中では、『すごい美少女』というのはローズマリーのことだね、と相づちを打ちながら。
ローズマリーの名前までは話題に上らなかったので、僕は安心して聞き手に回っていた。
この学校で、僕だけが、ローズマリーと同じ日に編入した。
これは非常に重要な問題だ。
級友達との顔合わせをしたその日から、僕は、男子の前ではけっしてローズマリーの名前を出すまいと心を砕いている。
僕以外の新入学年の男子には、未だほぼ全員、親しい女子はいない。
それに比べて僕は、入学初日から学食に誘えるほど仲の良い、とびっきりの美少女がいる!
僕にとっては奇跡に等しい大幸運、だが、僕より二か月早く魔法大学付属学院に来ていた男子にとっては、話を聞くのも耳に毒だ。
さらに、なにより危険な、用心すべき最大の問題は他にあった。
ローズマリーが僕に好意を持ってくれているのはその態度からして確実。
だが、公的にはまだ自由の身。
彼女に一目惚れした他の男子が、交際を申し込みに来るのも自由なのだ。
そんな僕の不安は、ここでの生活に慣れてきた二週間目に的中することになる。