(二)僕がサー・トールになった事情
この世界に来てから二日目、魔法大学付属学院に入学翌日。
僕はかつてない緊張にドキドキしながら、魔法大学付属学院の制服である、深い濃紺のブレザースーツにネクタイをしめ、初日に挑んだ。
残念なことに、ローズマリーとはクラスが別だった。後でローズマリーに訊いたら、僕とは選択科目がまったく違うので、合同授業も同じにはならないようだ。
朝はリリィーナさんが部屋にまで迎えに来てくれた。大ざっぱに校則の説明と今日の予定を説明され、他の寮生よりも一時間遅く学校へ着いた。構内の移動もリリィーナさんが案内してくれた。
始めに案内された広い教室には、階段状の机に見下ろされる教壇があった。
担当は初老の男の先生だった。
僕は壇上に立った。見渡せば、生徒は男子ばかりだ。
彼らの視線が一斉に僕に注目する。
「地球の日本から来た、里藤悟です。よろしく」という短い自己紹介を終えると、何人かは会釈を返してくれた。クラスからの反応はそれだけだった。僕は先生の指示で最前列の一つに座った。
後でリリィーナさんに聞いたら、この学年の男女の比率は男が三分の二以上とアンバランスで、このクラスには男子が固まったらしい。また、僕の受ける授業は、ほぼ全部がこのクラスと同じメンバーで、卒業まで変わらない可能性が高いことが判明した。
僕は、ローズマリーに会うために考えていた休憩時間や放課後や休日の使い方を、根本から考え直さざるを得なかった。
初めの授業は『境海世界』の歴史だった。
そこだけ拾い読みしてみると……。
境海世界とは、宇宙の一種だ。『境海』という無限の『海』に、多くの『世界』が浮かんでいる。つまり、世界と世界の狭間は『境海』という『海』によって隔てられている。
僕には初めて聞く話ばかりだ。
教科書には地球の歴史も載っていた。地球も境海世界の一員だ。
地球の海には、境海に繋がっている接点がいくつか存在する。大昔から、そこへ迷い込んだ船は二度と戻ってこないという、伝説の海域だ。じつは接点から境海へ渡ってしまって、地球へ帰れなくなったのが真相だという。
では、地球に在る接点とはどこか? サルガッソー? 魔の海? シーサーペントの脅威? 聞いたことがあるような単語がたくさん目に入る……日本海とか瀬戸内海とか、見慣れた文字まであった。なんかメチャクチャ怪しい語彙の羅列にしか見えない。これじゃ、歴史の教科書というより、日本で見かけた怪しいオカルト雑誌みたいだ。
いやいや、その辺は深く考えないでおこう。
僕自身が地球ではない場所で魔法を学んでいるのだ。教科書がオカルト雑誌に見えたところで、ノープロブレムだろう。
僕が皆に追いつくには補習授業が必要なので、個別授業の時間と放課後の補習が組まれた。先生はそれぞれの科目担当の先生が付いてくれる。
これは僕だけが特別ではない。他の生徒も、学力に合わせた丁寧な個人指導を受けられる。それが、この魔法大学の特徴ということだった。
歴史の授業が終わり、休憩時間になった。
僕は席を立つ前に走ってきた級友達に囲まれ、嵐のような紹介にモミクチャにされた。静かなのは授業中だけだったらしい。彼らもやっぱり僕と同じ年頃の男子だった。
スミスにクランクル、ライオット、チャールズなど、聞き慣れない音を耳にギュウギュウ詰め込まれる。聞いたこともない出身世界の名称が次次に降ってくる。……名前って、こんなに覚えるのが難しいものだったか?
出身世界まで覚えていられない。とにかく目の前の顔と名前を記憶にメモしている間に、級友達は僕をどう呼べばいいのか、真剣な討議会に移行していた。
「サトー、フジくん、か……。うーん、ちょっと呼びにくいかな」
「サトーはやめてくれ。それじゃ別の名字だよ。『くん』はいらない。サトフジがだめなら、サトルでいいよ、日本では友達にはそう呼ばれていたし」
僕はどちらでも呼び捨てで良いと提案したが、討議は難航した。
「サトゥル?」
「いや、それも違うし」
僕にはサツルと聞こえたよ。
「そうだよ、それはダメだ、この彼とは何かイメージ的なものが違う」
茶髪に茶色い目の男子が首を横に振る。
「おい、それはいい意味か悪い意味かどっちだよ」
僕が問い正すと、
「もちろん、あくまで君という人間のイメージのことだ。ここで呼ばれる二つ名は真剣に考えた方がいいぞ」
茶髪の男子は……たしか、カイルと言ったっけ、それこそ真剣な面持ちで僕を諭した。
よくわからん。
僕の顔のことなら、自分では極めて美形ではない自覚はちゃんとある。でも、そんなに悪くもないと思っているぞ。君らみたいに少女漫画に出てくる男子生徒みたいなハンサムじゃないけれど――……つまり、一般的な十人並程度にはマシだと……。
自分で自分を評価して沈黙のうちに落ち込んでいると、討議はクライマックスにさしかかった。
「サー、トー、ル?」
「サー・トール?」
「あ、それ、おもしろいや。サー・トール!」
「サー・トール、サー・トール!」
なんか変な風に、音とリズムがまとまってきたな。
僕達のやりとりを聞きつけてきた金髪少年が首を傾げた。
「へえ、君、サーが付くの? 騎士か何かの家系なのか?」
「違う違う、日本にそんなの無いよ。僕はただの庶民だからサトルと呼び捨てで良いよ」
「いいじゃん、サー・トールで。俺ら、トールの方が呼びやすいわ」
みんな、楽しそうだ。――まあ、いいか。
その日から、僕は『サー・トール』と呼ばれるようになった。
局員は本名を名乗らず、暗号名を使う。本名を犯罪者に知られたりすると、呪いのターゲットにされる危険があるからだそうだ。暗号名には学生時代の呼び名をそのまま使う局員が多いことを知ったのも、この数日後のことだった。