(三)彼女の名前はローズマリー
ポール教授は名前から連想した通り、金髪に青い目をしたおじさんだった。灰色のストライプ入りの背広にネイビーブルーのネクタイをきっちり絞めた、上品な英国紳士みたいな人だ。
立派な本棚に囲まれた大きなデスクの前で、俺はポール教授に頭を下げた。床は明るい黄土色でピカピカだ。きっと良いワックスで磨かれているのだろう、室内はほんのり甘い匂いがした。
「あの、すみませんが、俺は普通の中学生なんで、魔法使いにはなれません」
開口一番、本音から語ってしまった。そこは中学生だから勘弁してもらおう。
「はは、そうか。そりゃ、しょうがないね。やれやれリリィーナ、君のことだからうまいこと言いくるめて連れて来たと思ったのに」
ポール教授はちょっと目を細め、リリィーナさんへ横目をくれた。だが、同時に何かを期待しているように口元を軽くほころばせてもいる。
「必要な情報は説明しましたよ。境海世界と多次元管理局、魔法使いになるべき彼の特殊な才能について。そして、この特殊な編入試験を受けるに際しての必要事項を一通り」
リリィーナさんはスラスラと応えた。
「ふむ。だが、彼は多次元管理局と魔法使いのなんたるかを、まだ知らないようだが?」
ポール教授は俺をそっちのけで、リリィーナさんへ話しかけた。
「必要なのは彼がここにきて、まず入学することでしょう。他の事はそれから説明しないと、逆に悩みすぎますよ」
リリィーナさんはくったくの無い笑顔を僕に向けた。
「さて、里藤悟くん。すべての選択権は君にある。わたしの役目はこれで終わりだ。あとは君が自分で考えて判断するんだよ」
リリィーナさんとポール教授は、俺の返事を待ってくれた。
「すいませんが、俺は日本に帰ります」
俺は二人に頭を下げた。
「ほんとうに残念だけど、君が決めた事だから仕方ないね。地球に送ってあげるから、ちょっとここで待っててくれ」
リリィーナさんは紙コップのコーヒーを買ってきてくれた。俺はそれを持ち、ポール教授の部屋の窓が見える中庭の噴水の縁に座った。
コーヒーはごく普通の味がした。
リリィーナさんに聞いた話では、この白く寂しい通りという街は多次元管理局の管轄下にある。
生活レベルは俺の住む日本と変わらない。
科学技術も地球と同じか、国によっては数十年先くらいには進んでいるという。
ただし、文化と技術の半分は魔法によるものだ。
そこが実に異世界らしい特殊性だろう。
俺はコーヒーを飲み干した。
魔法使いになりたいか? と聞かれれば、複雑な心境になる。
世の中は、それを考えたことのない子供の方が少ないはずだ。
俺だってあるよ。
でも、今の俺には見たことも聞いたことも無い学校に通って、魔法使いになる自信なんて、どこを探しても見つからない。
だから日本へ帰らないと。
毎日が可もなく不可もない、俺に理解できる平凡だけの日常へ戻るために――。
ガサリ、と近くの茂みが揺れた。
はじめに目に入ったのは黒髪のストレートヘア。
現れたのは――年の頃十五、六歳の、美少女だ!
「ああ、良かったわ、あなたがここにいて」
彼女の黒髪には天使の輪が輝いていた。
肌の色は透き通るように白く、頬はピンクの薔薇の色。その目は優しい青色、空とも海とも異なる矢車菊の花のような明るい青だ。白いレースで縁取られたワンピースも瞳と同じ青。ツヤツヤのチェリーピンクの唇が微笑みかける相手は、目の前にいる俺しかいない。
俺の手から紙コップがポトリと落ちた。
「おれ、あ、いや、ぼぼ、僕のこと?」
コーヒーは飲み終わって空っぽだったのが幸いした。
俺は、さりげない動作に見えるように、ゆっくりと紙コップを拾い上げた。
座っている噴水の縁の、右横に置く。あとでゴミ箱が見つからなければポケットへねじ込んで持って帰ろう。彼女にはゴミを道に投げ捨てるマナーの悪い人間だと思われたくないから。
「ええ、もちろんよ。あなたも魔法大学付属学院に入学するんでしょう?」
彼女はさっさと俺の左隣に腰掛けた。
まるでそこが指定席とでもいわんばかりに、ごく自然に。
腰まで届く長い黒髪が揺れると甘い花の香りが漂ってくる。僕はうっとりして、胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。
「うん、まあそう、なんだ」
つい、スルッと即答していた。
言っちゃった!、と思ったときには後の祭りだった。
初対面の可愛い女の子に、堂々と嘘を吐いてどうするんだよ、俺……じゃない、僕は。
うん、そうだ、これからは僕ということにしよう。
彼女の前では、特に。
で、その僕は、どうして嘘を吐いているのかな。
ついさっきポール教授に魔法使いにはなれません日本に帰りますと、断ったばかりじゃないか!
「わたしもよ。この街には今朝着いたばかりなの」
彼女の名前はローズマリー。
今日から魔法大学付属学院の編入生。僕と同じ十五歳。出身地はこの白く寂しい通りがある第ゼロ次元から汽車で三日の、『エイレス』という国だという。
「寮生活になるから不安だったの。今年は珍しく同じ学年の生徒が多いらしいけど、他の人はもっと早く、何ヶ月か前から来ているでしょう。わたしみたいに季節外れで編入するのはすごく珍しいのですって。だから良かったわ。あなたがいてくれて」
「へえ、そうなんだ。僕たちは同じ日の編入生なんだね」
つるつると口から嘘が滑り出る。
僕はこんなに嘘を付くのが平気な人間だったのか。
もう、自分で自分が信じられなくなってきた。
「あ、もう行かなくちゃ。まだ手続きが残っているの」
ローズマリーは立ち上がった。
僕は右手を伸ばして彼女の左手を掴みかけ、触れる寸前で我に返り、手を引っ込めた。
よし、僕の理性はまだ残っている……たぶん、普段の10%くらいは。
「わたしたち、また明日も会えるわね。あ、お名前を聞いてなかったわ」
「里藤悟。悟でいいよ」
「サトフジ、サトルくん、ね。また、明日会いましょうね」
「おーい、悟くん。待たせて悪かったね。帰還の手続きはぜんぶすんだから、これから地球まで送っていくよ」
走ってきたリリィーナさんへ、僕はすぐ返事ができなかった。
ローズマリーの去った方角から目を離しがたくて、動けなかったからだ。