9 寝不足
パーティー仲間と昼食を囲んでいたユングサーブは目の前の友人の様子を眺めて怪訝に思った。その日、ユングサーブの属するパーティーは銀狼の毛皮を採ってくる依頼を受けて早朝から少し雪が残る山に全員で登っており、今は昼食のための休憩をとっている。
「なぁ、ハナル。お前最近やけに機嫌が良いくせに、よく見ると目の下にクマが出来てるぞ。まさか、変なクスリとかしてないよな?」
ハナルジャンは携帯食をかじりながらユングサーブをじろりとみた。しかし、すぐに目を逸らし遠い目をした。
「俺はもしかしたら悟りを開くかもしれん」
「は?」
「己の欲を律し続けるこの辛さ、お前にわかるか?」
「言ってる意味がさっぱりわからん」
「ミーナが毎晩のように布団に潜り込んでくるから、夜寝られないんだよ」
「はぁ!?ミーナってミルエンナのことだよな!?お前、確か前にミルエンナは妹のようなもんだって言ってたじゃねーか」
「状況が変わると人間関係も変わるんだよ。今はミーナは俺の嫁だ」
思いも寄らないハナルジャンの告白に、ユングサーブは完全に思考停止した。
今は嫁?毎晩のように布団に潜り込んで来て寝られない??あの正統派美少女で清純そうなミルエンナが!?なんということだ……。ユングサーブはわなわなと拳を震わせた。
「羨まし過ぎるぞ、このやろう!! なんでそんなことになったんだよ!? あー、我がギルドのアイドルがこんなやつの嫁……」
「こんなやつとはなんだ。ミーナが俺とずっと一緒に居たいから結婚してくれって薄着で迫って来たんだ。断れるほど俺の精神力は鉄壁じゃない」
「ミーナちゃん……。言ってくれたら俺がずっと一緒に居てあげるのに! どう見ても俺の方がミーナちゃんとお似合いだろ!?」
ユングサーブは所謂イケメンと称される自らの顔を指さし力説する。
「生憎だが、とても見る目のあるミーナは俺をご指名だったんだ。悪いがミーナは渡さん」
自慢げにニヤリと笑うハナルジャンをみて、ユングサーブはチッと舌打ちした。ハナルジャンとミルエンナは既に同居しているから本人同士が夫婦であると合意していればそれはもう夫婦だ。
一体誰が仕留めるかと皆が狙いを定めてお互い牽制し合ってたあのミルエンナが、まさか保護者代わりをしていた剣の腕が立つだけのごく普通の男にあっさりともっていかれるとは。しかし、ミルエンナがハナルジャンに保護者に向ける以上の好意を向けていることは周知の事実。おさまるところにおさまってしまったということなのか。
「あー、ショックだ。俺もどっかで可愛い孤児を拾って来ようかなー」
「牢屋に入れられるようなことはするなよ。お前が居ないと色々と困る。クリスも悲しむぞ」
「へいへい。わかりましたよ。俺はクリスでいいや」
ぐーたれるユングサーブが頭の後ろで手を組んで後ろに仰け反った。その瞬間、鋭いデコピンが飛んできてユングサーブは飛び上がった。
「クリスでいいや?随分なご身分ですこと。私は別にユングじゃ無くてもいいわよ」
胸の前で腕を組んでふくれっ面で見下ろすのはパーティー仲間でヒーラーのクリスティーナ。ユングサーブの恋人だ。20代前半の年齢よりやや幼く見える童顔を不機嫌に歪めてユングサーブを見下ろしている。
「クリス! いや、これは言葉のあやってやつだ。俺はクリスが良いんだ! クリス……」
いつものように痴話げんかを始めたパーティー仲間カップルを横目に、ハナルジャンは再び携帯食を食べ始めた。うむ、機嫌がいいと味気ない食事も旨く感じるものだ。
機嫌の良いハナルジャンの活躍もあり、ハナルジャンの所属するパーティーは銀狼を三匹も仕留めることに成功したのだった。
その日、ハナルジャンが疲れて帰ってくると自宅の窓には灯りが点っており、玄関前にまで煮物のような良い匂いが漂ってきていた。もう、ここ何年も続いている日常の風景だ。
違うのはドアを開けた後。ドアを開く音でハナルジャンに気づくとミルエンナはいつものように満面の笑顔を浮かべる。そしてハナルジャンの胸にまっすぐ飛び込んできた。
「お帰りなさい、ハナル」
「ただいま、ミーナ」
そして抱き合ったまま軽いキスを交わす。ミルエンナはハナルジャンの腕に絡みつきながら、その手首の辺りに小さな傷があるのを見つけた。
「あっ、ハナル怪我してるわ」
「銀狼を仕留めるときにぶつけた。これくらい大丈夫だよ」
「駄目!化膿したら大変なんだから。ちょっと待ってて」
そう言うとミルエンナはサイドボードから傷口用の薬を出してきて、真水でハナルジャンの傷の汚れを落としてから丁寧に薬を傷に塗り込んでゆく。実はハナルジャンは多少の治癒魔法も使えるのでこの程度の傷は自力で治せるのだが、ミルエンナのこの様子が好きでいつもわざと治さずに帰ってきていた。
傷口に薬を塗って清潔な布で覆ったミルエンナは満面に笑みで「出来たよ」という。ハナルジャンはそんなミルエンナの様子を見て、「ありがとう」と言うと、おでこにそっとキスをした。
その日のメニューは野菜と肉を煮込んだシチューのようなものだった。いつものように食事しながら二人はその日の出来事を語らい合う。
「今日はどうだった?」
「今日はね、薬草も間違えなかったし、調合もばっちり出来たのよ」
「へえ。最近調子がいいな。凄いじゃないか」
「えへへ。私ね、早く薬師として一人前になってハナルの『本当の奥さん』になるの」
ハナルジャンは嬉しそうに語るミルエンナをみて優しく目を細めた。ハナルジャンとしてはそんなことは忘れて今夜にでもそうしたいところだが、どうやらそのことがミルエンナが薬師として一人前になるために頑張る動機付けとなっているようなので、そのままそっと見守ることにする。
そして、その日もやっぱりスヤスヤと熟睡するミルエンナを腕に眠れぬ夜を過ごすハナルジャンだった。