27 解呪②
アクアストルの肌にしっかりと刻まれた蝶の呪紋を目にしたユングサーブは愕然とした。呪紋周辺の黒ずみやただれは綺麗になっているのに、呪紋自体は消えていない。
「なぜだ……。なぜ消えていない?」
呆然とするユングサーブを見上げるアクアストルの顔色は幾分か頬に赤味のさしているように見えた。横に居たクリスティーナが傷ついたアクアストルの腕に治癒魔法をかけると、アクアストルは光に包まれて治癒魔法が効いているような輝きをみせる。光が収まると白い肌は血色のよいピンク色にかわる。そこには優しい微笑みを浮かべるアクアストルがいた。痩せた身体を太らせることは出来ないが、それでもアクアストルの魅力が十分に伝わる美しさだった。
「さっきまでの辛さが嘘のように身体が軽いわ。ありがとう」
にっこりと微笑んで礼を言うアクアストルにユングサーブは返事が出来なかった。
なぜだ。なぜ呪紋は消えていないのにアクアストルの呪いは解けている? 図書館で見た古書の通りに忠実に再現したはず……そこまで考えてユングサーブはハッとした。一つだけ違う点がある。本来一人で入るべき魔法陣に二人入った。
目の前の魔法陣はまだ黒い炎があがっていたが、徐々にその勢いは落ちついてきていた。黒い炎の中に二人の人間の影が見えた。ナキナ領主とカーテナートだ。二人とも無事らしく、最初の羽交い締めの格好のままで呆然と立ち尽くしていた。黒い炎が消えたのに気付くとカーテナートは慌ててナキナ領主をその腕から解放した。
「カーテナート! 貴様謀ったな!!」
激しい怒りを顕わにしてカーテナートに詰め寄るナキナ領主に、アクアストルはすくっと立ち上がると「旦那様」と声をかけた。
「旦那様、ありがとうございます。おかげさまでわたくし、元気になりましたわ」
丁寧にナキナ領主に礼をして微笑むアクアストルを目にしてナキナ領主は目をみはった。とても先ほどの病人と同一人物には見えない。呆気にとられるナキナ領主からアクアストルは視線を横に移した。
「カテナ。私、元気になったみたい」
次に横に居るカーテナートを見上げたアクアストルは涙ぐんでそっとカーテナートの胸に額をつけた。
「ああ、アクア。本当に良かった。このままお前までもを失うかと思ったぞ」
カーテナートも涙ぐんでアクアストルの頭をそっと撫でる。アクアストルはカーテナートの胸に顔を埋めたまま泣き出した。
その様子を見たユングサーブとクリスティーナは二人の関係に益々疑問を持った。アクアストルの部屋に居るときから薄々と感じていたが、やはりこの二人はただの主人と護衛の関係には到底見えなかった。それに、先ほどナキナ領主はカーテナートにミルエンナのことを『カーテナートの妻になる女性』と紹介していた。と言うことは、カーテナートもバナール族と言うことだ。この二人はナキナ領主も公認の同族同士の恋仲なのだろうか。
「よし、よくやった! そこのヒーラーと薬師には約束通りに褒美を遣わす」
やっと状況を把握してきて無事にアクアストルが回復したと理解したナキナ領主は上機嫌で喋り出した。そして、アクアストルを胸に抱き寄せ空を睨みながら何やらぶつぶつと呟いているカーテナートに視線を送り、ニタリと笑った。
「カーテナート。その男がミルエンナがお前に嫁ぐのに異議を申しておる。ここは男同士で勝負すべきだとは思わぬか?あの男に痛い目を見せてこい。先ほどの不敬行為はそれで水に流してやろう。」
「あぁ!? なんだと。てめーもやんのか!?」
ナキナ領主の言葉に最初に反応したのはハナルジャンだった。怒りを露わにした鋭い眼差しでナキナ領主とカーテナートを交互に睨みすえる。しかし、カーテナートの方は一瞬だけハナルジャンに視線を向けただけでナキナ領主に向き直った。
「お断りします」
はっきりと言い放たれた拒絶の言葉にハナルジャンもナキナ領主も呆気にとられた。
「なんだと!? カーテナート! 貴様自分が何を言っているのかわかっているのか? お前の弟がどうなってもいいのか!?」
激昂するナキナ領主をカーテナートは無言で見つめてその首を横に振った。
「領主様、弟はもういませんね? 貴男が奴隷として酷使して殺したのですか? ずっと確信を持てなかったが今ならわかります。この領主館の何処にも弟の気配はありません。」
「なっ!?」
二人の会話を聞いたアクアストルは両手で口を覆いその両眼からぼろぼろと大粒の涙を零し、ユングサーブは驚きで目を見開いた。
ユングサーブはまさか……と思った。しかし今の発言からするとそう言うことなのか。恐らくカーテナートはこの僅かな間にこの広い領主館の隅々まで探知魔法で弟の気配を探った。そして弟が居ないことを確信した。
それは膨大な魔力を費やし、並レベルの魔導師では困難な技だ。カーテナートはそれをいとも簡単にやってのけ『今ならわかる』と言った。つまり、これまではわからなかったが今は分かると言ったのだ。急激な魔力量の増加、それが意味する物。
「まさか、呪紋はカーテナートに?」
呆然とするユングサーブの小さな呟きはカーテナートの耳には届いたらしく、目が合うと意味ありげな視線をよこし口の端が少し上がった。カーテナートは再びナキナ領主に向き直った。
「あなたはもう恐れるに足りません。これまでの罪を懺悔し、その座を他の者に明け渡し下さい」
「無礼者め!! 貴様、わしから領主の座を奪うつもりか!」
「私は領主の座に興味はありません。治世をする者が領主になるという本来あるべき姿に戻れば良いだけです。しかし、あなたは全てに目を瞑り見逃すには余りにも罪を重ねすぎた」
ナキナ領主はカーテナートを睨み据えてギリっと奥歯をならした。飼い犬に手を噛まれたとしか言いようが無い。次の瞬間、ナキナ領主は自らの大剣を握ると何の躊躇も無くカーテナートへと振り下ろした。
かつて反抗的な態度をとったカーテナートはいつもナキナ領主の木刀の折檻を避けることが出来ず、まともにくらっては痛みの余りに倒れて苦悶していた。今日は木刀ではなく真剣を使ったのだから既にカーテナートは事切れている、その筈だった。
「なぜだ……」
ナキナ領主は呆然とカーテナートを見つめた。
「それはあなたの剣のレベルが落ちて、私の剣のレベルが上がったからでしょうね」
力が無くなったとは言えナキナ領主はそれなりの剣の使い手であり、それを己の剣で受け止めたカーテナートの額には脂汗が滲んだ。ハッとしたナキナ領主は咄嗟に間合いをとって自らの右腕の袖をたくし上げた。
「ばかな……」
その肩に、二十年以上に亘りとまり続けていた蝶はもういなかった。




