26 解呪
「では早速治癒に取り掛かります」
ナキナ領主にうやうやしく礼をしたユングサーブとクリスティーナはカーテナートにアクアストルを床に下ろすように指示した。
先程部屋に入ったときの様子を見た限りではハナルジャンとナキナ領主は剣の打ち合いをしていて、僅かにハナルジャンが優勢のように見えた。ユングサーブはナキナ領主がまだ無事だったことに心底ホッとした。ここまで期待させておいて『やっぱり治せません』と言うのは極力避けたい。
「アクアストル様。私がまずあなたに自分の魔力を分け与えます。床に向けて私が指でなぞるとおりに正確にアクアストル様も指でなぞって下さい。その時、指には必ず魔力を込め続けて下さい」
「わかりました」
アクアストルがしっかりと目を見てから頷くのを見て、ユングサーブはアクアストルの背中に両手をあてた。そこから自身の大量の魔力をアクアストルに移動させる。
今回の魔法陣は多量の魔力を使う。アクアストル自身の魔力では到底足りないのでユングサーブが分け与える事にしたのだ。自身の九割近くの魔力を渡すと、魔力疲労でユングサーブの身体がぐらっと傾く。ユングサーブは必死にそれを立て直した。
「ではいきます。繰り返しになりますが、必ず同じラインを、魔力を込めてなぞって下さい」
「はい」
ユングサーブは床のやや広い空間に半径一メートル程の円を描き始めた。それに習ってアクアストルも魔力をこめてなぞってゆく。暫くすると段々と魔法陣らしきものが見えてきた。
「おい、治療に魔法陣を使うのか? 変わった治癒魔法だな」
魔法陣を描く様を見つめていたナキナ領主は眉間に皺を寄せてクリスティーナに話しかけてきた。厳しい顔つきにしっかりと生え揃った白髪交じりの茶髪に鍛えて締まった体つき。この年にしてはかなり洗練されておりダンディーであると評されるであろうナキナ領主だったが、クリスティーナは最初からにっくき敵だと思い込んでいるのでただの初老のジシイにしか見えなかった。
「普通の治癒魔法はアクアストル様には効果が出ないので特別な方法なのです。私達も初めてやります」
「そうか」
ナキナ領主はそれ以上は聞かずにただその様子を見守っていた。暫くするとあれだけ溢れていたアクアストルの魔力がかなり減ってきた。十分な量の魔力を渡していたにも関わらず、うまく魔力量を調整できずに無駄に魔力を使ってしまったようだ。ユングサーブはそれに気付くと今度はあたりを見回して、誰か魔力を彼女に分け与えるように言った。
夫であるナキナ領主が動かないのを見たハナルジャンが歩み寄り先ほどのユングサーブのようにアクアストルに自身の魔力を分け与えると、その途中でユングサーブに止められた。
「もういい。流石にこれで足りるはずだ」
そして最後まで描かれるとアクアストルにしっかりと魔力を籠めるように言った。ユングサーブがアクアストルにそっと手を添えてやり方を教えてゆく。アクアストルは自身の魔力こそ少ないが、魔力を扱うのは才能があるようでユングサーブの期待通りに魔法陣を完成させた。
通常とは異なり黒く禍々しい渦を巻く魔法陣はまさに黒魔術という言葉がぴったりのものだった。近づくのさえ憚られるその魔法陣の中に入るようにとユングサーブがナキナ領主に伝えると、ユングサーブの予想通りナキナ領主は難色を示した。
ナキナ領主としてはなぜ側妻の治療の魔法陣に側妻でなく自分が入らなければならないの意味がわからない。それに、魔法陣は黒い炎のようなものが蠢いており、彼がこれまでの人生で見た中で一番禍々しく普通の魔法陣には到底思えなかった。
「まさかお前達、わしにアクアストルの病を移そうとしているのだな! そうはいかんぞ!!」
取り乱した様子のナキナ領主にカーテナートが歩み寄る。
「領主様、この方法にはアクアストル様の夫であるあなた様の助けが必要なのだそうです。病を移すようなものではありません。もしご心配なら私も一緒に魔法陣に入りましょう」
カーテナートの言葉にナキナ領主は少し躊躇してから「先にお前が入れ」と言い、カーテナートは大人しくそれに従った。カーテナートが禍々しい魔法陣に入ったが特に何の調変化も見られなかった。それを確認してからナキナ領主も渋々と中に入った。
焦ったのはユングサーブだ。仕方なかったとは言え、無関係のカーテナートが魔法陣に入るのは想定外だった。解呪の対象者以外が魔法陣の中に入った時の影響がわからない。しかし、ナキナ領主は絶対に1人では中には残らないだろう。迷った挙げ句にこのまま解呪を続けることにした。
「アクアストル様、これで腕を傷つけて少し血を垂らして下さい」
ユングサーブはアクアストルに短剣を手渡した。その短剣でアクアストルが細く折れそうな腕を傷つけると、赤い筋がつうっと伝って魔法陣を滴り落ちる。すると魔法陣の黒い炎のような渦は益々勢い良くなった。
「次は領主様」
ユングサーブは短剣を手渡そうとしたがナキナ領主は受け取りを拒否した。
「お前がやれ」
ナキナ領主はカーテナートに短剣をとるように促した。カーテナートは一瞬だけユングサーブの目を見た。ユングサーブは「駄目だ」と目で訴えたが、それは通じなかったのか、カーテナートはユングサーブの差し出す短剣を手にとった。
その次の瞬間、並んでいた二人の男の影が一つになり、黒い炎のようなものは腰くらいまでに勢いを増した。カーテナートがナキナ領主を後ろから羽交い締めにしてその腕を傷つけたのだ。ナキナ領主は必至に拘束を解こうともがきカーテナートの腕も傷付き二人の血が滴り落ちるがそれでも必至に抑えつける。周りに居る護衛兵たちは呆然と立ち尽くして手を出せずにいた。
「早くしろっ!!」
カーテナートの怒鳴り声でユングサーブはハッとしてアクアストルに目を向けた。
「いいですか。一言一句間違わずに私の暗唱をまねて下さい」
「はい」
「闇の精よ、この血を糧にいまここに現れ我が願いを聞き入れよ。解呪」
「闇の精よ、この血を糧にいまここに現れ我が願いを聞き入れよ。解呪」
詠唱が終わった途端に魔法陣の黒い渦が天井まで高く上がる。激しい渦で中の様子は見えない。アクアストルも白い炎に包まれ数秒間光り輝き、それとともに今にも倒れそうな青白い顔に赤味がさした。
「やった! 成功か?」
ユングサーブはアクアストルの蝶の呪紋があった鎖骨下の場所を確認するために首もとを緩めさせて息を飲んだ。そこには、白く滑らかな素肌に羽ばたく美しい蝶の姿がはっきりと残っていた。