2 出会い
ミルエンナが気付いた時、彼女は見知らぬ町にいた。先ほどまでは確かに生い茂る草木の中にいた筈なのに、前にも後ろにも見たことのない街並みが続く。
咄嗟にミルエンナは建物と建物の間に身を潜めた。暫くじっと身を潜めていたが、誰もミルエンナを追いかけてくる気配がなかったのでおずおずと外に出た。見渡しても辺りは人通りが殆どなく、四角い形の建物が建ち並んでいた。
ミルエンナはとぼとぼと辺りを歩きまわって見たが、いつまで歩いても知る場所には出なかった。といっても、逃避行生活と幽閉生活が人生の全てであったミルエンナが知る場所などもとより殆どないのだが。
お腹もすいたし、喉も渇いたし、酷使した足も棒になっている。さらに悪いことに雨が降り出してきて、ミルエンナはぶるりと身体を震わせた。
ミルエンナは仕方がなく、目の前の一軒の建物の入り口についた庇の下の階段に腰を下ろす。今日は本当に疲れた。ミルエンナはいつの間にやら、建物の庇の下で座ったまま深い眠りについた。
「……。…いっ。おいっ!」
大きな呼び声がして目を開くと、目の前に若い男が立っていて不機嫌そうにミルエンナを見下ろしていた。
「おい、小僧。そんなところで寝ていたら、俺が家に入れないだろうが。子供は家に帰れ」
小僧と言われて何のことかと暫し呆然としていたミルエンナだったが、目の前の男が真っ直ぐに自分を見下ろしているので、どうやら自分に向かって言ったのだと気付いた。そして、自慢だった美しい髪を自分で刈り取ってしまった事を思い出した。
どうやら目の前の男はミルエンナを少年だと勘違いしているようだ。でも、それで構わない。ミルエンナが女であって良かったと思ったことなどただの一度もないのだから。
ミルエンナが謝罪の意味を込めて少し頭を下げて無言で立ち上がると、男はミルエンナの横をすり抜けて建物の中に入っていく。
庇で何とか濡れずにすんではいるものの、まだ雨が降っていてとても肌寒い。食べ物も、着る物も、寝る場所もない。勿論お金も無ければ、売れるものも持っていない。為す術なく、ミルエンナは庇の下の階段に再び腰を下ろした。雨の音だけがしとしとと耳に響いた。
「おい、小僧。帰れと言っただろう」
どれ位時間が経ったのかは判らないが、ミルエンナが再びうとうととしていると、頭上の後ろから先ほど聞いた不機嫌な声が再び聞こえてきた。目をやれば、先ほどの男が眉間に皺を寄せてミルエンナを見下ろしていた。
「……帰る場所がないのです。ごめんなさい」
ミルエンナが居心地悪げに小さな声で言うと、目の前の男は眉間の皺を更に深くして小さく舌打ちした。
「孤児か。なんだって俺の家の前に居るんだ。目障りだから元いた場所に戻るんだ。」
「戻り方がわかりません。それに、あそこに戻る位なら死んだ方がましです。」
小さなミルエンナがしっかりとした口調で物騒なことを言うのを聞き、男は一瞬だけ表情を強張らせた。そして、しばらくミルエンナを上から下までジロジロと眺めて、最後に「はぁ」と大きく溜息をついた。
「こんな所で眠ると風邪をひくぞ。今日だけ泊めてやるから、明日の朝になったらどこか別の場所を探してくれ」
そういうと、男は部屋の扉の開けたまま中に戻って行った。ミルエンナは驚きで目をみはる。
「いいのですか?」
「石の階段の方が居心地がよいなら止めはしないぞ」
ミルエンナは目の前の男をもう一度見返した。黒い髪に茶色い瞳、背はやや高めで顔はどちらかと言えば美形の部類だ。見た感じでは十代後半位の年頃に見えた。身なりは特別綺麗でも汚くも無い、ごく普通の若い男に見える。表情から察するには、ミルエンナをどうこうしようと思っているようにもみえない。雨はまだ降り続いており、いつの間にか辺りはすっかり夜の帳が下りていた。
少し迷ったものの、ミルエンナはこの男の好意に甘えることにした。死んだ方がましだと思うようなどん底から来て、迷い込んだ場所もやっぱりどうしようもなく孤独な場所だった。これ以上悪くなることなど考えられない。「ありがとうございます」とミルエンナが小さく告げて中に入ると、男はフンと鼻をならした。どうやら彼なりの返事のようだった。
「飯は食ったのか?」
タオルを借りて体を拭いてから、彼に貰ったコップ一杯の水をごくごくと飲みほしていたら男が無表情に聞いてきたので、ミルエンナは無言で首を横に振った。すると男はパンと干し肉を「ほら、食え」と投げてきた。受け取ったパンと干し肉は、逃げ出した領主の屋敷で出てくるものよりも、ずっと固くてパサパサしていた。
「……美味しい」
「旅の携帯用の乾パンと干し肉だぞ? あんまり美味いものじゃないけどな」
「ううん、すごく美味しい」
ずっと張りつめていた緊張の糸がやっとほぐれて、ミルエンナの目から涙がこぼれてきた。何がどうなってここへ来たのかさっぱりわからない。ここがどこなのかもわからない。目の前にはついさっき出会ったばかりの素性の知れない年上の男。 でも、ここでは自分が恐れるような仕打ちはきっとされないような予感がした。
男は何も言わずに涙をこぼすミルエンナから目を逸らすと、ランタンの光の傍で静かに本を読み始めた。