10 婚姻の証
珍しく休日に朝早く目覚めたミルエンナは、横でまだ眠っているハナルジャンの夜着の前の合わせをそっと緩め、こっそりとその身体を観察した。職業柄鍛えられたら身体は全体的に筋肉質で、胸板は厚く腹筋は見事に割れている。その逞しい身体の表面をつぶさに観察して、ミルエンナはがっかりした。
「そんなにジロジロ見られてからがっかりされると流石に傷付くな。俺の身体のどこか不満か?」
眠っていると思っていたハナルジャンの声が近距離からして、ミルエンナは飛び上がるほどびっくりした。顔を上げればハナルジャンが苦笑しながらミルエンナを見下ろしていた。
「ハナル、起きてたの? 違うの。ハナルの事はどこも不満なんてない。全部大好きだもの。ただ、『蝶』がどこにもないなって思って……」
「蝶?」
「うん。私はバナール族っていう少数民族の出身なの。バナール族の女性は結婚すると『蝶』が羽ばたく筈なのに、ハナルには無いなって思って」
ミルエンナはとても哀しそうな顔をしながらハナルジャンに説明した。ミルエンナの要領を得ない説明を辛抱強く聞いたハナルジャンは、どうやら夫婦はお揃いの蝶の刺青を身体に入れるはずなのにそれが無いと言っているようだと理解した。
「それはこの地域にそう言った風習が無いからだよ。この辺りの夫婦の証と言えばお互いの魔力を込めた石の交換だろ。そう言えばまだ買ってないな。今日買いに行くか?」
哀しそうな顔をしていたミルエンナはハナルジャンから土地柄の理由だと聞いて安心したのか、顔を上げて目を輝かせた。
「うん。買いたい!」
「じゃあ、朝食をとったら一緒に買い物に行こう」
「ありがとう、ハナル!」
ミルエンナは甘えてハナルジャンの厚い胸板に頭をすり寄せてきた。ミルエンナに中途半端に前をはだけさせられたせいでミルエンナの髪の毛や頬が直接肌に当たりくすぐったい。
このままではまずいとハナルジャンはミルエンナの身体を少し持ち上げて同じ目線まで引き上げるとギュッと抱き締めてから布団から起き出した。そして眠気覚ましと煩悩を消し去るために冷たい水で身を清めた。
部屋に戻るとミルエンナも起き出して、タンスの前で考え込んでいた。服をいくつも広げているので、今日着る服を選んでいるようだ。
「随分と熱心に選んでいるんだな」
「うん。だってハナルとデートだもの。少しでも可愛く見せたいの」
笑顔で答えるミルエンナを見てハナルジャンは表情を綻ばせた。本当にミルエンナはいちいち言うこと為すこと全てが可愛らしい。
「ミーナは何着ても可愛いよ」
お世辞を一切混ぜない純粋な思いをハナルジャンがミルエンナに告げると、ミルエンナは驚いたように目をみはり、すぐに顔をバラ色に染めた。
「ハナルもいつも格好いいよ。世界一格好いい」
耳まで真っ赤にしながら告げるミルエンナを見てハナルジャンは破顔した。
ああ、本当に俺の嫁は可愛い。あの日、小汚い少年だと思った孤児がまさかこんなに可愛い嫁になるとは想像すらしなかった。あの時に見捨てなかった自分を褒めてやりたい。
朝食後に町に出たミルエンナは鼻歌でも鳴らしだしそうなほどに浮き足立っていた。ミルエンナは歩きながら自分の右手をチラリと見る。そこにはいつも通りの白いミルエンナの手と、重ねられた大好きなハナルジャンの左手。ハナルジャンは職業柄剣をすぐに抜けるように右手を塞ぐのを嫌い、昔から繫ぐ手はいつも左手だ。
しかし、ミルエンナにとってそんなことはどうでもいい。ハナルジャンはここ数年はミルエンナと手を繋いでくれなかった。それが、今日は出かけ際に自然にミルエンナの右手をとったのだ。ミルエンナの感激たるや筆舌に尽くしがたいほどだ。なんと素晴らしき妻の座かな。クレッセには感謝してもしきれない。
「ここに入ろう」
ハナルジャンが立ち止まって指し示したのはこの界隈で一番大きな宝飾屋さんだった。ミルエンナは一度も入ったことは無い重厚感ある建物で、建物には至る所に色々と精巧な彫刻が施されている。大きな扉を開けると中から店員さんが出てきた。
「いらっしゃいませ。何かお探しのものがあればご案内致します」
「ああ。婚姻の証の宝石を探している。見せて貰っても?」
「もちろんでございます。こちらにどうぞ」
店員さんは店の奥の応接間にハナルジャンとミルエンナを案内した。飲み物が用意されたのでそれを飲んで待っていると、ハナルジャンとミルエンナの前には大小様々なサイズの色んな宝石が並べらてゆく。どれも美しく、すぐには決めがたかった。
「お互いの髪や瞳の色の宝石を選ぶ人が多いですが、お客様のように髪や瞳が黒や茶の場合は首飾りや腕飾りの革紐をそうして、宝石はお互い似合う色にするのもおすすめですよ」
迷ってなかなか決められない2人の様子をみて、店員さんがアドバイスをしてくれた。ミルエンナとハナルジャンは相談して店員さんの勧めてくれた通り、ミルエンナは黒紐、ハナルジャンは茶紐でそれぞれの宝石はお互いに似合う色を見立てる事にした。
ハナルジャンが早々にミルエンナに赤紫の宝石を選んだのに対し、ミルエンナはなかなか決められない。
「うーん。ハナルは藍色かなぁ。でも、深紅も良いわね。何を付けてもハナルはとっても素敵だから迷っちゃうわ……」
宝石を一つ手にとってはまた別の宝石を手にして、真剣な表情で悩んでいるミルエンナの様子はとても可愛らしかった。
「奥さまは旦那さまが本当に大好きなご様子ですねぇ」
ハナルジャンのとなりで真剣な表情で選ぶミルエンナの様子を眺めていた店員さんが、にっこりとしてハナルジャンを見つめた。
「有難い事に、そうらしい。彼女を幻滅させないように頑張らなければならないから少々荷が重い」
ハナルジャンは苦笑して答えたが、言葉とは裏腹に表情はとても穏やかで嬉しげだった。
結局、ミルエンナが選んだのは燃えるような赤色の石だった。この石の強そうなイメージがハナルジャンによく似合うと思ったのだ。石と紐を選び終えると店員さんが慣れた手つきで革紐と宝石を組み合わせて首飾りを作ってゆく。暫くすると、革紐に宝石がぶら下がった婚姻の証が二人の前に差し出された。
ハナルジャンとミルエンナはそれをその場でお互い身につけることにした。
「似合うかな?」
ミルエンナは婚姻の証を身につけると、とても嬉しそうにクルリとその場で回ってハナルジャンを見上げた。
「ああ、似合う。とっても可愛いよ」
ミルエンナを見下ろしていたハナルジャンが優しく微笑む。それを聞いたミルエンナは頬をほんのりバラ色に色づかせてはにかんだ。照れた姿もなんとも可愛いらしいとハナルジャンは目を細める。
「ハナルも凄く素敵。素敵過ぎて沢山の女の人が寄って来るんじゃ無いかって心配だもの」
本当に心配そうな顔をして見上げてくるミルエンナを見て、ハナルジャンは思わず口の両端を持ち上げた。
「心配いらない。ミーナは俺のものだし、俺はミーナのものだろ?」
「うん!」
ミルエンナには大切な宝物が一つ増えた。一番古い宝物は初めてハナルジャンと行ったお祭りで当てたお皿。一番新しい宝物はハナルジャンからもらった婚姻の首飾り。二人はお互いにもう一度見つめ合って微笑んだ。
そして、新婚ハイ状態の二人は宝飾店の面々の生暖かい視線に最後まで気付くことはなかった。