1 逃走
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ミルエンナのはっきりと覚えている一番古い記憶は、家族で山菜採りをしているときのものだった。父と母に手をひかれ、隠れ家ある村の外れの山に登って山菜を探した。木の陰や草の間にひっそりと生える山菜を見つけては、小さな手でそれを摘み取ってゆく。
ミルエンナは山菜を探すのがとっても得意で、いつも一緒に山菜採りをした誰よりも沢山の山菜を採った。「ミルエンナは捜し物が上手ね。」と母親が目を細めて褒めてくれて、ミルエンナはとっても鼻が高くて得意気に胸を張って微笑む。それはとても幸せな記憶……
今、ミルエンナは鬱蒼と生い茂る背丈よりも高い茂みの中を必死で逃げているところだった。生い茂る茂みの中でたった一人ぼっち。小さな身体を限界まで縮こませて見付からないように息を潜めた。
暫くすると、遠くから兵士達が辺りを探し回っている物音が聞こえてきた。鎧の金属がぶつかり合う音と、茂みの植物をなぎ倒す音と、今なら許してやるから大人しく出て来い、と叫ぶ怒声。その物音が恐ろしくて、ぐわんぐわんとミルエンナの頭の中で反響する。
怖い、怖い、怖い!
ミルエンナはまだ子供だったが、今なら許してやるから、と言われてそれを鵜呑みにするほど子供では無かった。兵士達に捉えられたら最後、きっと部屋に閉じ込められ、二度とは出て来られない。そして、籠の中の小鳥のように一生をそこで終えるのだ。
逃げないと、とミルエンナは周囲を窺った。生い茂る植物はミルエンナの姿を隠すのに好都合な一方で、ミルエンナから兵士達の動きを探るのには邪魔だった。移動しようにも、相手が何人いるのかすらわからない。
でも、あんな場所であんな暮らしを強要される位なら死んだ方がましだとミルエンナは思った。領主様と兵士達は血まなこになって自分を探すだろう。なんといっても、自分は『最後の一人』なのだから。
***
ミルエンナはバナール族と言う全部で数百人もいないような少数民族の出身で、元々彼らは周囲と隔離された辺境の地でひっそりと平和に暮らす温厚な民族だった。
この平和な暮らしが崩れたのは20年ほど前のこと。一人の道に迷った旅人がバナール族の村を訪れたのがきっかけだった。バナール族の村長は旅人に食べ物と寝る場所を提供し、とても良くしてやった。なので、居心地がよくその村につい長々と居ついてしまった旅人がバナール族の若い娘といつしか恋に落ちたのも自然な流れだった。
旅人とバナール族の娘の結婚式の翌日に、旅人の体に異変が起きた。元々、大して魔術も武術も長けていなかった旅人が、突然どちらも人並み以上の強さになったのだ。これこそがバナール族の女性だけがもつ特別な力だった。
人数こそ少なかったバナール族は、女が生涯でたった一人の男を選び、その男の能力の高めることが出来る特別な力を持っていた。ただし、力を与えた女が死ねばその高まった能力は無くなる。
それは、少人数民族であった彼らの独自の進化だった。女は愛する男に力を与える事により男は強くなり、男は力を失わないためにも愛するその女を大切に、大切に、守り抜く。そうやって彼らは細々と命を繋いできた。
旅人はその変化に大変驚き、そして喜び、新妻を連れて故郷に里帰りした際にその事を皆に自慢してまわった。そして、おぞましい悪夢が始まったのだ。
偶然旅人の不思議な噂を聞きつけたその地方の領主は、さっそくバナール族の村を訪ねて「村の娘を側妻に貰いたい。」と告げた。しかし、バナール族は元々人数が少ないため、未婚かつ年頃の娘が非常に少ない。しかも、相手は領主とはいっても村人たちからすれば全く見知らぬ人間だ。当然ながら、村長はその申し入れを丁重に断り、領主はすごすごと帰って行ったように見えた。
しかし、内心で腸が煮えくりかえる思いだった領主は後日、私設の兵士団を引き連れて村に攻め込んだのだ。村の男達はその特別な力故に強く、とても勇敢に戦った。しかし、なにぶん頭数が違いすぎた。そして、領主は村の若い男女何人かを無理矢理連れ去った。若い女は力を得る金の卵、若い男は奴隷として働かせるために。
領主に力を与えるのを拒んだ若い娘達の目の前で、領主は村の若者達を少しずつ嬲り痛めつけていった。拒めば仲間が死ぬと言って娘達を脅した。ある者は自ら命を絶ち、あるものは脅しに屈した。そして、もともと武術に長けていたこの領主は圧倒的な力を手にしたのだ。
だか、その領主はそれで満足しなかった。捕らえていた娘が病に倒れると、手厚く看病するどころかすぐに見切りをつけた。難を逃れていた別のバナール族の娘を再び連れ去り、同じように力を与えることを強要したのだ。
歴史は繰り返す。
何故か領主に捕らえられる娘は例外なく病にかかった。逃げるように各地を点々としていたバナール族は段々と追い詰められ、若い女性は次々と連れ去られた。そして、いつしか両親ともにバナール族である純粋なバナール族の娘はミルエンナ一人だけになった。
力を与えられる女は成熟した純粋なバナール族の女性のみ。しかも、生涯で一度のみだ。ミルエンナはまだとても幼く、力を与えることはできなかったのでそれまで無事でいた。
しかし、だんだんと成長してきたミルエンナが誰かの手に渡るのを恐れた領主は若い娘と共にまだ幼いミルエンナを捕らえて屋敷の奥深くに幽閉し始めた。何年も部屋の外に出ることは許されず、話をする相手もいない。大事な金の卵なので肉体的虐待こそ受けなかったが、孤独な生活は幼かったミルエンナを精神的に追い詰めていった。そしてそんな生活が何年か続いたある日、ミルエンナは食事が運ばれてくるときに扉が開く瞬間を見計らって逃げ出した。
走って、走って、後ろを振り返えらずにただひたすら走り続けた。途中で偶然見つけたガラスの破片を掴むと長く美しい栗色の髪を自ら短く切り取り、後ろ姿が男の子に見えるようにした。そして、また走った。
茂みで身を潜めていたミルエンナは、段々と草木をなぎ倒すような音が近づいてくるのを感じた。ああ、誰か助けて。ミルエンナは必死に祈るが、まわりに仲間など一人もいない。あんな場所に戻るなら死んだ方がましだ。ミルエンナは手にしていたガラスの破片を見つめる。
あんな奴のせいで何十人、もしかしたら何百人もの仲間が死んでいった。悔しさで視界が滲む。何とかして逃げ道を探さないと、とあたりを見渡す。
ミルエンナが物音を立てないように四つんばいになって慎重に進んでいると、突如目の前の茂みの底辺に丸い穴が現れた。鈍く光るその穴を一度だけミルエンナは見たことがある。空間橋と呼ばれるその穴はごく稀に、たった数秒間しか現れない自然現象で、ある空間と別の空間を繋ぐ異空間の通り道だ。穴の中は暗くて、中がどうなっているのか、どこと繋がっているのかは全く見えない。
「おい!見つけたぞ!!」
大きな叫び声が聞こえて後ろを振り返ると、一人の兵士がミルエンナから数メートルの距離まで迫っていた。捕まる位なら、死んだ方がましだ。迷っている暇はない。ガラスの破片を投げ捨てると、ミルエンナはなんの迷いも無くその暗い穴に飛び込んだ。