指先に愛を乗せて
「マニキュア……」
彼の部屋でその辺に置いてあった雑誌を開いていたけれど、特に面白い内容でもなくてすぐに飽きてしまう。
プロ野球ねぇ、なんて呟きながら、その雑誌を閉じて元あった場所に戻した時に、何となく私の興味を引くものがあった。
小さな厚みのある瓶に入れられた透明の液体は、紛れもないマニキュアで、私も持ってる薬局で売ってるシリーズのものだ。
百均じゃない辺りが、彼の変に神経質なところを表しているようで、笑いが込み上げる。
爪を綺麗にコーティングするためのマニキュア――ベースコートだ。
ベースコートは地爪の上に直ぐに乗せてくマニキュアで、その更に上に載せる色による色素沈着を防ぐ役割を果たすものだった気がする。
一度ベースコートとトップコートの違いが分からなくて調べた時に、インターネットにそんなことが書いてあった。
基本的に成分は同じらしいが、微妙に配合か違うとか何とか。
そんなにネイルに詳しいわけではないので、そんなところまでしか知らないし、覚えていない。
それにしても何故そんなものが、彼の部屋にあるのだろうか。
彼が買ったものだとは思うが、ならば何故そんなものを買ったのかという疑問が浮かぶ。
うーん、と唸りながらそれを開ければ、蓋にくっついた薄っぺらいハケに、液体が絡まって、余分な量がとろり、と瓶の中に落ちて行く。
特に使う回数はなかったけれど、マニキュア独特の薬品の匂いが懐かしく感じる。
「なぁ、コーヒーってミルクも入れるよな?」
ガチャ、と音を立てて開かれる扉に、私はマニキュアから視線を上げる。
そこには行儀の悪いことに、足で扉を開けたらしい片足が軽く浮いた状態の彼。
その両手には二つのマグカップが握られていた。
「ミルクも砂糖もたっぷり」
「だよな」
ははっ、と白い歯を見せて笑う彼に、私も笑顔を見せてマグカップを受け取った。
開けっ放しのマニキュアの薬品臭と、ミルクコーヒーと化した元コーヒーの匂いが混ざる。
放り投げられたマニキュアは、キャップを閉めずに、ただ容器の中に突っ込まれているだけ。
もう一つのマグカップを持った彼が、またしても足で扉を閉めてから、私の目の前のマニキュアを見る。
「塗りたいの?」なんて見当外れな答えに、苦笑を浮かべながら首を振っておく。
「何であるのかなぁって」
「浮気を疑ったりとか?」
「それはないけど。何、浮気してるの?」
白い湯気を立てるマグカップを両手で包み込み、息を吹きかけてから啜る。
ゆっくりと上げた視線の先には、目を細めて笑う彼がいて「なわけ」と言い捨てた。
そりゃそうだ。
私が浮気なんて許すと思うなよ。
ズズッ、と音を立ててブラックコーヒーを啜る彼は「ほら、見て」とマグカップを持っていない左手を、私の目の前に出す。
手の甲を上にして、爪を見せる彼に、私は首を傾げてその手を見れば、ツヤツヤと何かに守られている爪。
私は持っていたマグカップを、なるべくマニキュアから離して置いて、その差し出されている手を取った。
ゴツゴツと骨張った、私よりも大きな手は男の人のそれで、マメだかタコだかが複数箇所に出来ている。
それなのに、爪だけは手入れが行き届いていて、形も長さもマニキュアの塗り具合も綺麗だ。
「自分でしてるの?」
「おう」
「何でまた」
指の腹で彼の手を撫でる。
手の甲から指先に、指先をぐるっと回って手の平に、それからマメだかタコだかを指先でなぞった。
彼が擽ったそうに指先を動かすので、私は笑う。
彼がちまちまとマニキュアを塗っているところを想像すると、何だか楽しくなってしまうのだ。
楽しくというより、馬鹿にしているのかも知れないが、似合わないなぁ、とは思う。
「球技は爪、気を付けた方がいいぞ」
「球技?」
彼の手を滑っていた私の手が、彼の手に絡め取られて動かせなくなる。
にぎにぎと力を入れたり緩めたりと、遊ぶ彼に私は首を傾げるが、おう、と頷いた彼は「球技」と繰り返すだけ。
あまりスポーツはしない。
どちらかと言うと見ている方が多くて、見ている方が好きだから。
別に、特別運動音痴じゃないはずだけれど。
「爪、割れたり欠けたりするからな」
「あぁ、なるほど」
「俺達も指先のケアは怠らねぇわけですよ。透明のマニキュアくらい、保護のために使いますとも」
大袈裟なまでに頷く私に、ケタケタと茶化したように言う彼。
相変わらず手は絡め取られたままで、彼の指の腹が私の裸の爪を撫でる。
残念ながらマニキュアなんて塗っていない。
乾かすのが面倒だし、違和感もあるし。
彼は私の爪を撫でながら、まじまじと見つめて「小さいな」と呟く。
そりゃあ男のアンタとは違うだろ、という言葉を飲み込んで、まぁ、と曖昧に頷けば、彼は何だか嬉しそうに笑みを深める。
子供みたいに輝かせた目と、男のくせにやけに色気のある厚みのある唇が、近づいて来て「塗りたい」と言い出す。
指先が完全に絡められていて、俗に言う恋人繋ぎの手に力を込めて「は?」と間抜けた声を出す私。
部屋中に充満したマニキュアとコーヒーの匂いが鼻について、ヒク、と動いたように感じる。
それでも目の前の彼は、楽しそうに笑っていて、ゆっくりと私の手を離す。
指の間にあった熱がなくなって、物足りない。
「これしかねぇけど、やってやるよ」
そう言って彼は、私が開けっ放しにしたマニキュアに手を伸ばす。
そりゃあベースコートしかないだろうけれど。
それに何色も持っていたら、どういう反応をしていいのかきっと分からない。
お揃いお揃い、と楽しそうに言う彼は、私の返事も聞かずにハケに付いた余分な液体を瓶の中に落とす。
鼻を突くような薬品臭が、コーヒーの香りをかき消して私の爪に付着した。
重そうなその液体が私の爪に乗ると、彼がそれを薄く広げて伸ばす。
ゆっくりゆっくり、時間を掛けて保護される私の爪。
守られていくそれは、彼の手によるもの。
彼の手は彼が自分で守っているのだろう。
親指から人差し指へ、人差し指から中指へ、と移る作業を眺める私は、薬品臭すらも愛おしく感じ始める。
乾いたそれは、きっと綺麗な平になっていて、ツヤツヤとした輝きを見せ付けながら、彼の爪と同じように役割を果たすのだろう。
ならば私も、彼の爪を守りたい。
目の前で、高校野球で良く使われる応援歌――ヒッティングマーチを口ずさむ彼。
その爪には、いつ塗ったのか分からないベースコートがぼやけた輝きを見せながら、必死に自分の役割を果たそうとしていた。
次に塗り替えるのはいつだろう。
その時にやってあげようか。
それとも私の爪が終わったら、彼の爪を私が守ってあげようか。
薬品臭い思考を回しながら、生まれ変わっていくような指先を見つめていた。