思い出したくない過去
桜花にこれまでなにがあったのかが明らかになります。
春風さんを駅まで送った帰り道、笑顔はだんだん冷めていき、最後には凍りついたようになった。自分の中学時代から今までのことを軽い感じでさらっと話したが、話せなかった部分が後になって私に追いついて襲いかかってきた。
母の再婚相手がどうしても嫌で、一緒に住むのも、一緒にご飯食べるのも、耐えられなかった。ずっと顔を合わさないように自分の部屋に閉じこもっていた。気配を感じるだけで苦しくなった。母は働き者で明るい人だと思ってたのに、再婚してからは、別人のようになった。再婚相手に洗脳されてるようで、自分の意見を失ってしまっていいなりだった。母も再婚相手も不気味だった。二人がマンションにいる時間は子供部屋に閉じこもっていた。二人が仕事に出かけている間に部屋から出て台所にあるものを食べたりトイレに行ったりしていた。
猫のミーンだけが話し相手だった。ある日子供部屋から出てみるとミーンがどこにもいなかった。仕事から帰った母親の顔を久しぶりに見て話しかけた。
「ミーンがいない」
母は平坦な声で言った「今朝死んでた。あの人がすぐに清掃工場に持って行くように言うから、仕事に行く前に寄って係員に渡してきた」
悲鳴を上げていたのか、母に掴みかかっていたのか、覚えていない。その場に母の再婚相手が入ってきた。私は子供部屋に飛んで入ってドアを閉め、一人ガタガタと震えた。
ミーンは私が幼稚園児だった頃に、存命だった父にねだって飼うことを許してもらった大事な猫だった。変わってしまった母と再婚相手と一緒に住むのはもう限界だと思った。私は子供部屋にあった貯金を持って、何の連絡もせずに父の実家へ向かった。父が亡くなって以来、親戚づきあいも疎遠になっていたが、頼れるのはおばあちゃんしか思い浮かばなかった。
おばあちゃんは「ずっとここにいたらいい」と言ってくれた。
おばあちゃんの家で私は何もしなかった。中学は義務教育だから市役所の人や近くの中学校の人が私とおばあちゃんに話をしに来たけど、無理やり登校させられることはなかった。私は毎日ただぼんやりとおばあちゃんを見ていた。今になって思えば、あれは私の体にも心にもダメージが残ってて動かなかったんだと思う。回復するには、おばあちゃんときれいな空気を吸うことだと、本能的に感じてたんだと思う。おばあちゃんが炊事するところを見てる。おばあちゃんが掃除をしているところを見てる。おばあちゃんが畑仕事しているところを見てる。おばあちゃんが組紐しているところを見てる。見ているだけ。
おばあちゃんは、私をせかさなかった。何かさせようともしなかった。ありがたかった。ここへ来てよかったと思った。私はおばあちゃんに守られていた。
穏やかな日が続いていた。ある晩私は一晩中悪夢にうなされた。あの母と再婚相手が住むマンションに閉じ込められる夢。誰も助けてくれない夢。逃げられない夢。
朝になって起きてみると、おばあちゃんは台所にいなかった。裏へ出てみるとおばあちゃんは毛布に包まれた何かに手を合わせて祈っていた。
「おばあちゃん・・・・・」
「桜花、キリは死んじゃったよ」
「どうして、昨日はあんなに元気だったのに」
「おばあちゃんは夜中から何か胸騒ぎがしてたよ。朝になってみたらキリはもう冷たくなっていたよ。キリが何かを知らせようとしていたのかもしれないね」
「おかしいよ。絶対おかしいよ」
「どうして死んだのか、おばあちゃんにもわからない」
私以上におばあちゃんの方が悲しいのはわかっていた。キリは特別な犬だった。おじいちゃんが亡くなってこの家でおばあちゃんが一人暮らしになってからしばらくしたある霧深い朝、おばあちゃんは幼い動物の鳴き声を聞いた。声を頼りに山の方に歩いていくと、そこに子犬がいた。それがキリだ。おばあちゃんは山の神様かおじいちゃんが、寂しくないようにと自分に子犬を連れてきてくれたと思ったそうだ。一人息子を亡くし、伴侶を亡くしたおばあちゃんにはキリは間違いなくかけがえない恵みだった。
「おばあちゃん、キリをどうするの?庭か畑の隅にお墓を掘ってあげていい?キリをどこかにやらないで。お願い」
「キリを埋めたら、もしかしてイノシシが掘り返すかもしれない。桜花、キリをお骨にしてもらおうか?おばあちゃんはキリを手元で供養したいよ」
そして私とおばあちゃんとキリはH動物霊園のお世話になったのだ。火葬場で私は悲しさでいっぱいになりながらも、その過程に満足した。猫のミーンを思い出し、また涙が出た。ミーンも大事に弔ってやりたかった。霊園の納骨堂は人間のそれとは趣を異にしていて、ペットの天国がこの世に表されている気がした。それぞれの飼い主の愛情が区切られた空間からあふれていて、堂内にいる私たちも安らかで幸せな気分になった。テーブルの上に霊園のパンフレットと並んで『虹の橋』という詩のコピーが置かれていた。説明によると、作者不詳の詩で、原文や翻訳が世界中に広がっているのだそうだ。詩の大まかな内容は、亡くなったペットの魂は虹の橋のたもとにある楽園に行き元の飼い主を待っていて、飼い主が亡くなると、そこで再会し、虹の橋をともに渡って天国へ行く、というものだった。私はその紙を丁寧に折り、ポケットに入れた。ミーンとキリが楽園で楽しそうにしている姿が心に浮かんで、私は慰められた。
おばあちゃんは、私が教えてと頼めば、家事や組紐を教えてくれた。
おばあちゃんは一人で何でもできるスーパーおばあちゃんだった。魔法の手を持っていて、組紐も料理も野菜も特別な出来上がりだった。特に植物に詳しかった。甲賀では、組紐や野草について学ぶのが自然だったと話していた。新種の野菜やハーブも積極的に育てて生活を彩っていた。
そのおばあちゃんが年齢とともに病気がちになった。私が家事全般を私が引き受けた。おばあちゃんに付き添ってバスやタクシーで病院に何度も行った。そのうちおばあちゃんにはそれもつらくなってきた。私は運転免許を取る決心をした。中学から不登校で学校というものに何年も行ってない。でも勇気を出して自動車学校に通った。おばあちゃんのために。18歳になってすぐに免許が取れた。おばあちゃんは車は楽だと喜んでくれた。そして『外に働きに行きなさい』と言った。私はその言葉に従った。アルバイト先にはH動物霊園を迷わず選んだ。今にして思えば、おばあちゃんは自分の死期が近いことを悟っていたのかもしれない。自分が死んでも孫が生きていけるように道を示してくれたのかもしれない。そのおばあちゃんは自宅で倒れ、ほんの三か月間入院した後に亡くなった。おばあちゃんはつらい入院生活を送りながらも私に大きな贈り物をくれた。私を養女にしてくれたのだ。そうするためにおばあちゃんは、私の母と不愉快な会話を何度も何度も続けてくれたのだ。そのストレスが、死期を早めてしまったのでなないかと私は恐れている。
おかげで私はもともとの姓に戻れた。おばあちゃんと同じ姓に。円城桜花に戻れた。本来の自分を取り戻した気がした。私が今こうしていられるのはおばあちゃんのおかげだ。おばあちゃんに感謝してもしきれない。おばあちゃんに会いたい。
クラウスに会いたい。どうして私には何も話してくれなかったんだろう。クラウスの話を聞きたかった。一緒に悩みたかった。一緒に泣きたかった。クラウスを慰めたかった。クラウスを励ましたかった。そばにいてあげたかった。クラウスにとって、私は友達以下の存在だったということ?私は力になってあげたいのに、それは許されないの?
泣きながら、はっとした。私の方から、連絡したことが一度もない。出かけようと誘ってくれるのはいつもクラウスからだった。クラウスの勉強をじゃましちゃいけない、ずうずうしい態度をとっちゃいけないと思ってた。遠慮してた。遠慮してる気になってた。電話を待ってた。心のどこかで期待していた。クラウスは私に好意を持ってくれていると。
おばあちゃんが倒れた時、私はクラウスに相談したか?しようとしたか?ううん、してない。クラウスから電話が来たら、話したかもしれない。甘えたかもしれない。でも、自分からは何も行動を起こさなかった。クラウスに心配かけたくないと言いつつ、クラウスを頼っていた。物事の成り行きをクラウスにゆだねて、わたしの望むように進むことを期待していた。私のこの態度は、遠慮じゃない、傲慢だ。私のことが気になるなら連絡してくるはずだという思い上がりだ。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
クラウスは私に一言も声をかけずにドイツへ帰った。この現実は動かしようがない。それはつまり、クラウスの私に対する評価でもある。クラウスにとって私は重要ではない、ということ。ははは、当たり前だ。私みたいな自分勝手な女が好意を持ってもらえるはずがない。会ってもらえるはずもないのだ。後悔とあきらめの涙で目が熱くなった。
お読みいただきまして、ありがとうございました。