吹き込んだ春風
同い年の女の子に声をかけられます。
左門さんと別れて一人になっても、頭は熱っぽくて足はふわふわして、おかしくなってる自覚があった。少し落ち着こうと思った。今車を運転したら事故を起こしかねない。動物霊園に電話して、体調が悪いので少し休んで戻る旨を伝えた。近くにクラウスと以前行ったことがある喫茶店があるのを思い出して歩き出した。
喫茶『穏穏おんおん』に入った。店内は空いていた。店の奥の窓際の席に座って、ミルクティーを注文して、ふううと息を吐いた。
クラウスはこの店で「ドイツには『整理整頓は人生の半分』ってことわざがあるよ」と教えてくれたのを不意に思い出した。そのクラウスはもう日本にはいない。じわっと涙が出てきた。あの時私はそのことわざの意味が分からなくてクラウスに尋ねたのだった。
思い出を反芻していると、突然若い女性がカツカツと勇ましい靴音を立てて近づいて、私のテーブルの向かい側の椅子を引きドスンと座った。私をにらんでいる。
「あの」私が声を出すのと同時に女性が声をかぶせてきた。
「私、左門秋水しゅうすいの妹の春風はるかぜです。失礼ですけど、少しお話してもいいですか」喧嘩腰の口調だった。年は私と同じくらいに見えた。
「どうぞ」びっくりして涙が引いた。
彼女はアイスコーヒーを注文して、話し出した。
「私O大なんですけど、今日はクラブの対抗戦があってK外大に来てたんです。そしたら偶然兄を見かけて。声をかけようとしたらあなたが近くにいるから、黙って様子を見てたんです。何かただならぬ雰囲気だったから」
「そんなことありません」
「そんな風に見えました。あなた泣いていたでしょう」そう断定した彼女はやはり私をにらんでいた。
「私に何か?」
「兄は隠しますし、かばいますから、兄を問い詰める前にあなたに確認しておこうと思ったんです。あなたさっき兄から封筒を受け取っていましたね。お金でしょう」
「えっ、お金?」あまりにも思いがけないことを言われて大きな声が出てしまった。「この写真のこと?」カバンから封筒を取り出した。
すると彼女の顔が見る見る赤くなってきた。
「ごめんなさい。私の早とちり。すいません。恥ずかしい。勘違いしました。申し訳ありません。失礼しました」謝罪ワードを連発して立ち上がり90度の礼をして去ろうとして、ミルクティーとアイスコーヒーを運んできたウエイトレスとぶつかりそうになった。
私はあわてて引き留めた。「せっかくコーヒーも来たし、よかったら少しおしゃべりしませんか?」
彼女は素直に元の椅子に座った。
「私っていつもこうなんです。ああ、本当に恥ずかしい。頭の中でストーリー作っちゃって、決めつけちゃうんです」
私は自分を左門さんの元ルームメイトの友達だと自己紹介した。
「兄はだまされやすいというか情にほだされやすいというかすぐ同情する性格なんです」彼女は私に詰め寄った理由を話し出した。
「兄は高校生の時、不良グループの女の子に同情してかまっているうちに、不良グループが起こしたトラブルに関与した疑いを警察からかけられたことがあるんです。大学生になってからはバイト先の若いシングルマザーから一方的に付きまとわれました。どちらにも兄はお金を渡していました。放っておけなかった、と兄は言ってました。私は家族として兄を放っておけないんです。馬鹿な兄と馬鹿な妹です」
それから二人でぎこちなく飲み物を飲んで、ぎくしゃくしたまま同時に喫茶店を出て別れた。足のふわふわした感覚はその時にはもうなくなっていて、現実世界に戻った気がした。交通事故を起こさないようにいつも以上に気を使って車を運転し、動物霊園に戻った。「仕事は休まないこと。仕事は真剣にやること」おばあちゃんの声が聞こえてくるようだった。「考え事は家に帰ってから。泣くのは家に帰ってから」私は意識のレバーをガチャンと動かして、感情が漏れ出さないように堰せき止めた。
家に帰って、守り袋から中のものを取り出した。クラウスからもらったプレゼント。ドイツ製のたぶん最もシンプルで最も美しい日時計。
プレゼントされた時、クラウスにせかされてその場で箱を開けた。大きさも形も男性用の三連の指輪のような金属に長い革ひもがついていた。すぐにはそれがなんなのかわからなかった。箱から取り出すとネックレスのようだった。使い方はクラウスに教えてもらった。
「これはね、実は日時計なんだ。ここで今が何月か合わせるんだ。そしてこの小さな穴を通った太陽の光がさしている数字を見るんだ。やってみて。これだと3と4の間で3に近いから、3時20分かな?どう?本当の時間と比べて」
「あってる!」すごく驚いた。「わあ、すごい!うれしい!楽しいね!」
「気に入ってくれた?」
「もちろん!ありがとうクラウス。大事にします」
「よかった。僕もドイツに同じ時計を持ってるんだ。桜花のにはここに JAPAN って書いてあるでしょ?日本の標準時間に合わせて作ってあるんだ。僕が面白いと思うものを、桜花も面白いと感じてくれてうれしいよ。桜花には皮ひもじゃなくて、もっと華奢きゃしゃな鎖が似合いそうだね」
二人が写った写真とクラウスにもらった日時計を前に、私は泣いた。一人で泣いた。いつまでも泣いた。
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