別離
桜花とクラウスは離ればなれになります。
クラウスと楽しい時間を共有できたのは1年にも満たない。
私の大事なおばあちゃんが突然倒れ、救急車で病院へ運ばれた。そしてそのまま入院することになった。
おばあちゃんの容態が次第に悪くなっていき、担当医師からも油断できない、とはっきり言われた。私は可能な限りおばあちゃんの病院で過ごすようになった。そんな私におばあちゃんはアルバイトを休んではいけないと厳命した。おばあちゃんの入院以来、家と動物霊園と病院をぐるぐると移動する毎日が続いた。
その間、私から一度もクラウスに連絡を取ろうとはしなかった。クラウスからも一度も連絡はなかった。私はクラウスに現状を話さなかったし、クラウスもその頃自分がどんな状況なのか私に話さなかった。私がクラウスに起こったことを知ることになるのはおばあちゃんの四十九日も済んだ後だった。それはクラウスがすでにドイツに帰国した後だった。予定留学期間を残しての緊急帰国だった。他人の口を通して私はクラウスに起こったことを知った。
クラウスのルームメイトの左門さんに会えたのは全くの偶然だった。
その日、K外大近くのお客様宅にペットの遺骨をお渡しして、社用車を停めたコインパーキングに戻ろうとしていたとき不意に声をかけられたのだ。
「桜花ちゃん」左門さんの声には緊張が含まれていた。
そして「クラウスのこと、知ってる?」とそっと尋ねてくれた。
「何を?私とクラウスはもう半年くらい連絡取り合ってないです」
「どうして?あっ、名札、『円城』って、まさか桜花ちゃん、結婚したの?」
「いいえ、おばあちゃんが私を養子にしてくれて、もともとの苗字に戻れたんです。これまで母の再婚相手の苗字だったんです。クラウスに連絡しなかったのは、半年前おばあちゃんが倒れたからです。クラウスに心配かけたり、勉強の邪魔をしたくなかったんです」おばあちゃんが亡くなったことはわざと話さなかった。
「あああ、桜花ちゃん。君は。今話す時間ある?」
「アルバイト中なので少しなら」
公園のベンチで、左門さんが半年前にクラウスに起こったことを私に話してくれた。
クラウスは一人でマウンテンバイクで山奥の林道を走っていた。林道に似つかわしくない大型のワンボックスカーが止まっていた。横を通り過ぎようと思ったら、外側から見えないように窓の内側には板状のものがガムテープで貼られていた。クラウスは異常を感じて叩いて声をかけてみた。返事はなかった。ドアもロックされていて開かなかった。しかしそのままにしておけない気がして通報した。
警察と消防が駆けつけて車のドアを開けた。中には8人の男女が倒れていた。車内では練炭が焚かれていた。集団練炭自殺。7人がすでに亡くなっていた。そのうち一人は幼い女の子だった。大人の一人は命は取り留めたが重度の後遺症が残った。クラウスは初めて『無理心中』という日本語を知った。
クラウスは8人を助けられなかった自分を責めて苦しんだ。何か助けられる方法があったのではないかと。そして自殺するまでに思いつめた8人に同情し深く悲しんだ。そんなクラウスに日本人の声が聞こえた。クラウスが聞いたらどう思うかなんてこれっぽっちも考えてない何の気なしに口から漏れ出た言葉。
「放っといたほうがよかったのに」
「死なせたほうがよかったのに」
「助かったほうが不幸だ」
「余計なことを」
「自分が自殺希望者なら、死なせてほしかった」
「自分ならもし通りかかってもかかわらない」
無責任な言葉の数々。
そして極めつけは、命を取り留めた一人の親族が警察官に食って掛かっているところを目撃してしまったことだ。
「あいつがこれまで周りの者ににどれだけ迷惑をかけてきたか知ってるのか。それが、何だ、今度は一生あいつの面倒を見ろだと?いらん、あいつはいらん。絶対家に引き取らん。殺してくれ。どこかに捨ててくれ」
クラウスは病気になった。心の病気。食べることも眠ることもできなくなった。カウンセラーも精神科医も彼に帰国を勧めた。そしてクラウスはドイツで治療を受けることになった。
左門さんも、憔悴しきって別人のようになってしまったクラウスにかける言葉がなかったそうだ。
「クラウスの方こそ、生きているのか死んでいるのかわからない状態だったよ。日本が大好きで、一生懸命勉強して、日本を理解しようとして、これからやろうとしていたこともたくさんあったのに。日本人に傷つけられたんだ。クラウスは自分を傷つける日本人をも理解しようとしていた。でもそれはクラウスの人格を壊すことにもなったんだ」
私にはすぐには現実のこととは思えなかった。呆然としてしまい、それから涙があふれ、「クラウス、かわいそう」としか言えなかった。
私にはおばあちゃんを亡くして自分一人で抱えきれないほどの悲しみがあった。同じ時期に、クラウスも他者の生死に関わり一人では耐えられない哀しみを背負っていたのだ。
左門さんは黙って私を見ていた。カバンの中から本に挟まれた封筒を取り出して、私に差し出した。
「ずっと渡しそびれてた写真、あげるよ。桜花ちゃんにまた会えるかもしれないと思っていつも持ち歩いてたんだ」
七夕の留学生交流会の時の写真だった。大勢の浴衣を着た留学生や大学生の中で私とクラウスが楽しそうに笑っていた。遠い夢のようだった。まるで前世の記憶のようだった。新しい涙がまた流れた。
「桜花ちゃん、クラウスはね、君と初めて会った日、俺に『巫女みたいな女性に会ったよ』って言ったよ。『日本の乙女という言葉が浮かんだよ』とも言ってたよ」
私は驚いた。「私はただのアルバイトです」
「知ってるよ。君は制服を着て掃除をしていた。でもね、そのたたずまいが、桜花ちゃんの心根が、クラウスに特別な存在の女性を連想させたんだよ。俺も実はね、クラウスに紹介されて桜花ちゃんに初めて会ったとき、俺の周りにはいないタイプっていうか、会ったことのないタイプっていうか、そんな印象受けたよ」
私は返答に困った。
「あ、勘違いしないでね。桜花ちゃんを変人だと思ったとか、一目惚れしたとか、そういうんじゃないからね。あ~、俺ってすごく失礼なこと言ってるな」
「平気です。それに左門さんには恋人がいるってクラウスから聞いてます」
左門さんは空を見上げた。「恋人ね、うん、いるよ。何人も。ゲーム内でね」
「え?」意外な言葉だった。
「ゲームはいいよ。ストーカーされる心配もないし、感染症の恐れもないし」
「そうなんだ」私はポカンとなった。
「そこは笑ってよ。じゃなきゃツッコミいれてよ」
「ごめんなさい。私、そういうのが苦手で」
左門さんは私の目をじっと見た。「わかってる。君のそういうところも。桜花ちゃん、俺と付き合わない?三分前に言った事はうそ。初めて会った時から好きだった。これが本当」
思いもよらない告白に私は体が硬くなった。
「ごめんなさい。私、クラウスを待ってます」
左門さんは止めてた息を地面に向かって吐いた。「わかってる。わかってたんだ、君のその返事も。俺の気持ちは言わないつもりだったんだ」左門さんは「じゃぁ、さよなら」と言って去っていった。私は何も言えなかった。
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