ハイキングそして神社へ
出会った二人は惹かれあいます。
クラウスはK外国語大学のドイツ人留学生だった。マウンテンバイクが好きで、すごく遠くまで平気で行く。大学では日本文学を学んでいた。私とは真逆の彼だった。私は勉強しない。スポーツもしない。出不精。外国へ一度も行ったことがない。
でもクラウスと知り合って私には遅い遅い知識欲が芽生えた。私はクラウスに国語辞典の引き方を教えてもらった。国語辞典の引き方なんて、小学校で習う。でも私はそれまでできなかったのだ。そしてクラウスが文学を学んでいると聞いて、私もブンガクなるものを知りたいと思った。
「昔の人が書いたものは全部ブンガク?賞を取った小説がブンガク?」私にはそれすらわからなかった。本を読んだこともほとんどなかった。文学を求めて、家にあった中学生用国語便覧を引っ張り出した。ほとんど新品だ。パラパラと拾い読みしてみた。
『家にいると器に盛る飯を、旅なので、椎の葉に盛るよ』という一文が目に飛び込んできた。私は「これだ!」と思った。文学に開眼したのではない。一週間後にクラウスと低山にハイキングに行く約束があったのだ。「お弁当のおにぎりを椎の葉で包んで持って行こう」私は決めた。
次の日、アルバイト先の動物霊園で植物に詳しい平戸さんに園内に椎の木があるか尋ねてみた。
「これもこれも、この辺多いね。これもこれもこれも」
「ええっ、椎の木ってドングリの木のこと?」
「そうだよ。ついでに言うと、シイタケはこの椎の木の枯れ木に育つからシイタケって名前付いたんだよ」
「へええ、そうだったんですか、知りませんでした。葉っぱ小さいですね。もっと葉っぱが大きな椎の木ってあるんですか?」
「いやあ、だいたいこんなもんじゃないかな」
「そうですか」
私はがっかりした表情を出さずに、平戸さんにお礼を言った。葉っぱは6センチくらいの細長い形で硬かった。おにぎりを包むのには全く適していない。でも表面はつやつやしていて色もきれいだったので、せっかくだからお弁当のおかずのしきりとして使うことにした。
約束の日は晴天だった。お弁当のおかずは鶏のから揚げ、インゲンのごまあえ、ウインナー炒め、ポテトサラダ、果物、水筒に麦茶、保温スープポットに味噌汁。塩おにぎりに、ふと思いついて海苔で顔の表情を付けた。少女趣味かと思ったが、クラウスに似せて薄焼き卵で金髪を作った。気分がのってきて、細く切った海苔を貼り付けて自転車の車輪も作った。そこまでやったらクラウスが自転車に乗っているようにどうしてもレイアウトしたくなった。ああでもない、こうでもないと夢中になっているうちに、余裕を持って起きたはずが、家を出る予定の時間間際になってしまった。おばあちゃんのお昼ご飯用にお皿におかずを盛り、慌ただしく洗い物をしていたら、おばあちゃんが、「後は片づけておくから、怪我の無いように落ち着いて行っておいで」と言ってくれた。おかげで約束の時間ちょうどに待ち合わせの駅に着くことができた。
クラウスはほとんど空の大きなリュックサックを背負っていて、その中に私の荷物を全部入れて担いでくれた。体力のない私はありがたく甘えさせてもらった。
私達は、川沿いの登山道を登って行った。川は変化に富んでいた。登り始めは整備された大きな川だったのが、ごつごつとした大岩の間を流れる川になり、淵を作り、滝となっており、またしばらく歩くと穏やかな流れになり、私を飽きさせることがなかった。
山道を登りながら、クラウスはドイツ人がハイキング好きだと教えてくれた。クラウスの家はライン川のそばにあり、ハイキングのコースもサイクリングのコースもたくさんあるし、そうでない道でもうろうろするのが楽しいらしい。私は「へえ、そうなんだ」とか相槌を打ちながら、冷や汗をかいていた。
まずい、私ライン川ってどこにあるか知らない。そもそもドイツ自体どこにあるか知らない。家に帰ったらすぐに地図帳で確認しよう。クラウスがドイツ人だってことは初めて会った時に聞いてたのに、これまでドイツについて何も知ろうとしなかった自分のまぬけさに怒りさえ覚えた。
さらにクラウスは「『方丈記』の冒頭の『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。』を読むと、僕にはライン川の流れが頭に浮かぶんだ。おかしいでしょう。日本に来ていくつも河を見たけど、子供の頃から見続けたもののイメージは強いね」と笑った。私はさらにホージョーキを家で調べようと脳内にメモした。
山の頂上についたときには私はだいぶ疲れていたが気分は爽快だった。こんなに歩いたのはいつ以来だろう。クラウスに誘われなければ今日だって家の中でいじいじして時間をつぶしていたに違いない。
お弁当箱を開けるとクラウスは歓声を上げた。
「すごいね。これが本物の日本の手作り弁当。うれしい。これ僕の顔でしょう。ん、この葉っぱ、もしかして」
「椎の木の葉っぱ」
「やっぱり。先週授業でちょうどやった所。万葉集。有馬皇子。家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る」クラウスはすらすらと言う。
まずい。私は便覧で元のブンガクを見ずに口語訳だけを読んでいた。マンヨーシューにもアリマノミコにも知識ゼロ。知ったかぶりもできない。
「ええと、クラウスが勉強してるのってどんなことかなって思って、家で本をちょっと読んでたら、かわいい感じがして」正直に言うしかない。
「そう。うれしいな。思いがけないところから、思いがけないものが出てくることを日本語で何て言うんだろ。自分でほしいと意識していなかったものをプレゼントされた気分だよ」クラウスの頬は紅潮している。白い肌は日本人より感情がストレートに出ると思う。こちらが戸惑うほどに。
クラウスは私の決して上手でないお弁当にも「おいしい」を連発してくれた。考えてみれば、私が作ったお弁当を誰かに食べてもらうというのは初めてのことだった。ほめられすぎて、恥ずかしいほどだった。
昼食後は登りとは別のルートで下山することにした。登りより道幅が広くなだらかで、二人で並んで歩くことができた。
「実は、あの歌は悲しい歌なんだ」クラウスは説明してくれた。19歳の不遇な皇子が殺されるための旅の途中で詠んだ状況について。椎の葉に盛ったのは、自分の食事ではなく神仏へのお供えであったという説について。
「知らなかった」椎の葉は、楽しいはずのハイキングに使うべきではなかったのだ。思わず出た私の声はすごく暗かったのだと思う。クラウスは明るく言ってくれた。
「ぼくも先週まで知らなかったよ。講義がとても面白くて、誰かとこの歌について話したかったんだ。ルームメイトの左門は僕の話に全然のってくれないんだ。彼女とうまくいってないみたいで、上の空なんだ。ごめんね、僕だけがしゃべって」
「ううん、私、クラウスの声が好きだし、ずっと聞いていたい。私こそ日本人なのに日本の事何も知らなくて、気の利いた話できなくてごめん」
山道はいつしか里山に下りてきた。道が広くなると辻に小さな小屋があった。『野菜無人販売所』といかにもありあわせの板に書きましたといった風情の看板があった。私は素通りしようとしたら、クラウスは立ち止った。私は、欲しい野菜を取って代金を缶に入れるシステムを説明した。クラウスは驚いた。
「こんなのきっと世界中でも日本にしかないよ。自動販売機でさえ壊される国が多いのに」
クラウスは代金を缶に入れ、ジャガイモと玉ねぎをリュックに入れた。葉野菜も買いたそうにしていたが、大学の学生寮に帰るまでにリュックの中でつぶれそうなのであきらめた。
「寮の台所でジャーマンポテトを作って友達と食べるつもり」と嬉しそうに話すクラウスを見て、私は微笑んだけれど、内心落ち込んでいた。そうだ、クラウスは優秀な留学生なのだ。大学には優秀な友達が大勢いるのだ。私には絶対入っていけない世界の住人なのだ。今二人で歩いているからといっていい気になってはいけない。改めて自分に言い聞かせた。
私は自分で自分をつまらない人間だと思う。普通より劣った人間だと思う。それなのにクラウスは私に会ってくれる。
数日後、クラウスから一緒にI神社へ行こうと誘われた。クラウスが大学でK山へハイキングに行ったと話したら、そこから少し離れたところにクラウスが好きそうな場所があると教えてもらったそうだ。
「この前みたいに長袖長ズボンで、動きやすくて、汚れてもいい服で来てね」
クラウスの声はちょっとはしゃいでいた。小学校の先生が遠足の連絡をしているようで、ちょっとおかしかった。
この前のハイキングでも降りたK駅から、今回はバスで目的地へ向かった。このルートもハイキングコースらしく、それらしい服装の人たちを何組も見かけた。
「桜花はI神社に来たことある?」
「ううん、名前を知ってるだけ」
「そう。僕はね都会の神社しかお参りしたことがないんだ。I神社は古い姿を残していると聞いたから、ぜひお参りに来たかったんだ」
「そっか、ビルとビルに挟まれた神社とかね・・・」
無事に到着した私たちは、口や手を清め、神妙に本殿にお参りした。
「じゃあ、社務所へ行こう」
クラウスの声はちょっとはしゃいでいた。
「え?」
社務所で拝観を申し込むと、『I神社』と書かれた白いタスキを渡された。私たちはこれから岩窟めぐりをするのだ。
社務所の注意書きも、係員の方の説明も、危険性を強調してあった。荷物は持たない。写真撮影も禁止。足腰の弱い方はダメ、等々。
岩窟めぐり。入口からすでに急こう配で、手すりと階段がついているものの、油断すると足を滑らせそうだ。いきなり甘えた気持ちは吹き飛ばされて、覚悟させられた。この場所はもともと古代から続く修験道の修業の場として使われていたのが、100年近く前に、参拝者にも一般公開されるようになったとのことだ。湿った大岩の間をくぐっていくと、人間の力では作り出せない特別な雰囲気があり、まさに自分が神域に足を踏み入れている気がして、おそろしく、おびえた。大岩と大岩の間に体を滑らせて登ったり下りたりしていると、これは遊びじゃない、修業なんだと身が引き締まった。真剣に、矢印の通りに先へ進んでいく。途中、川が流れているところには何か所か橋が架けてあったが、それも簡素なもので、私は滑り落ちそうでクラウスに手を引いてもらって渡った。私一人だったら、洞窟めぐりできないと思った。社務所の注意事項にも一人での参拝禁止と書いてあったことを思い出した。何か起こった時、一人では前に進むことも後ろに戻ることもできなくなる。クラウスが一緒だととても安心できた。途中真っ暗になる個所もあった。そうして30分ほど、自分の、人間の、無力さを強く感じながらひたすら前へ前へ進んで、やっと洞窟を抜けた。
抜けた先にあったのは、天の岩戸と呼ばれる場所。折しも、その時空から光が差してきて、神々しく降り注いだ。私は思わず両手を上げた。そして水を受けるかのようにその光の流れを口元へ持っていった。自然が自分の中に入ってきたような、一体化したような気がした。
はっとして気づくと、クラウスが私を見ていた。
「きれいだ」
「きれいね」
「桜花が」
「・・・ちがうわ」
古代から続く自然の中で、あまりに器の小さい私だった。
I神社を見て回った後は、近くの一軒家カフェに歩いて行った。というか近くには人家すらなくその一軒しかなかった。外観はログハウスで、周囲の山と似合っていた。店内には薪ストーブがあり、壁には古い木製の時計がたくさん飾ってあった。
食事をしながらクラウスと話をした。
お読みいただきありがとうございました。