第六話
目を開けると、真っ暗な空。
私は辺りを見渡した。どうやら麓の交差点の所らしい。私は担架に乗せられており、救急車に搬送されるすんでの所だった。
「君、大丈夫か!?」
救急隊らしき男が話しかけてきた。私は身体を起こし、担架から降りようとした。
「動いちゃ駄目だよ!」
「大丈夫です」
頭の中は全くすっきりしており、私は至って冷静に自分を観察した。
「怪我もしてないし、立てます。大丈夫」
「検査しないと」
「大丈夫。家に帰ります」
「桐島さん!」
人混みの中に木名瀬と久慈の姿があった。どうやら彼女達が人を呼んでくれたのだろう。心配するなと笑いかけた。
救急隊はどうあっても私を病院に搬送したがっていたが、徹底して拒んで、私は一人帰路についた。途中で通学鞄をもっていない事に気付いたが、まあいいか、と思う。明日はずる休みしよう。とてもじゃないが通学する気にはなれない。
もう、駄目だ。
私は呟いた。
幻覚の女に首を絞められて失神するなんて。
もう限界だ。
心が音を立てて壊れていく。
俺はもう普通の人間じゃない。
俺はモンスターだ。
『幻覚に悩まされています』
インターネットの某質問掲示板に書き込む。
『顎の長い男や髪の長い女が、私を殺そうと襲ってきます。毎日のように色んな奴が私を殺すためだけに現れます。幻覚だと分かっているのですが、耐えられません。同じ想いをしている方はいませんか』
読み直して、我ながら失笑した。しかし指は送信ボタンを押していた。
一晩中眠れなかった。朝になり、私は、親に体調が悪いから学校を休んで病院に行くと告げ、精神病院を訪れた。
今までずっと避けてきたが、もう四の五の言っている場合でもない。
担当してくれた医師に、全て話した。中学時代に事故にあってからの現象であること。幻覚幻聴の内容。医師は慣れた感じで私の話を全て聞いてくれた。
「手足に不自由な感じがした事はありますか?時々痺れたりとか」
「いいえ」
「寝てる時、夢はよく見る方?」
「最近はあまり」
「夜はちゃんと睡眠とれてる?」
「はい」
他にも色々質問されて、安定剤を処方して貰った。
「症状を抑える薬だよ。でもこれを飲んでいるだけで治るわけじゃない。規則正しい生活を送る事。昼間は出来るだけ太陽の光を浴びてね。親御さんや友達に、何でも話す事。これを守ったら、きっとすぐに良くなるさ」
病名については医師は口にしなかったし、私も聞かなかった。
「今度は親御さんと一緒に来てください。ご両親にも、自分のことをきちんと話すんだよ」
「ありがとうございました」
帰り道、初めて他人に話したお陰か、幾分心が軽くなっている事を意識した。
親に話す気には……流石にまだなれなかったが、これで医師の言う通り快方に向かえば、きっとその必要もないだろう。
家に帰ると母が出迎えてくれた。母は、女の子が来たと言った。
「あんたの学校の子だと思うけど。木名瀬さんって言ってたわ。病院に行ったって言ったら、これだけ置いていったわ」
それは私の学生鞄だった。
「こんな大事なもの忘れるなんて、馬鹿ね」
「木名瀬いつ来たの」
「ついさっきよ。入れ違いだったわね」
「ちょっと探してくる」
「あんた元気じゃない。今からでも学校ちゃんと行きなさい。っていうかあの子もさぼってるんじゃないの?」
私は苦笑いして家を出た。玄関で母が、
「五郎!」
と呼び止め、小指を立てた。
「これなの?」
「違う」
「許さないわよ、高校二年生で学校さぼって女の子と遊び歩くなんて」
「会って話すだけだ。すぐ帰るよ」
「もう、お父さんに似たのね」
私は母に手を振って学校の方へ走った。
木名瀬には、角を二つ曲がったところですぐ追い付いた。
「木名瀬!」
彼女は振り向くと、パッと花が咲いたように笑った。
コンビニでアイスを買って、近くの公園で食った。木名瀬は今日登校して、朝礼前に私のクラスに鞄を届けてくれたらしい。しかし私が休んだ事を知り、いてもたってもいられず、担任に私の住所を聞いて2限目からさぼって出てきたという。
「桐島さん、思ったより元気そうでよかったっす……」
「心配かけてごめん」
「本当心配だったす」
急に、木名瀬が目に涙を浮かべる。
「大人の人連れて戻ったら桐島さん倒れてて、死んじゃったのかと思ったっす……息してるって分かっても、山下くんみたいに目を覚まさないかもって……」
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないす!目を覚まさなかったら、私のせいだって、本当に後悔したっす……」
そんなに気に病む必要はないというのに。優しい子だな、と思う。私はもう一度、大丈夫、と言った。
「でも、取材らしい取材にならなかったな」
「いや、ちゃんと記事にするっすよ!」
「……俺が倒れた事、書かないでくれよ」
「書かなくても皆知ってるっす」
「……喋ったのか?」
「……まずかったすか?」
「……」
確かに、こんな田舎町で救急車が出動する騒ぎになれば、それなりに広まりもしようか。そういえば昨日あの場には山のようなギャラリーがいたし。
近々私の両親の耳にも入るだろう。なんと誤魔化そうか。
私は嘆息した。
明日学校に行きたくなくなった。きっと周囲は私の存在を放っておかないだろう。もうこれ以上変な意味で目立ちたくないというのに。
携帯に目を落とした木名瀬が、うわ、もうこんな時間す、と言った。
「私、学校に戻るっすよ!4時限目始まるっす!」
「ああ。久慈にもよろしく言っておいてくれ」
「桐島さん明日は学校来るすか?」
「うん」
「やったっす!待ってるす!明日一緒に学食食べるっすよ!」
「分かった」
木名瀬は走り去り――と思うと途中で振り向いて、少し離れた所から、叫んだ。
「桐島さん!」
「何?」
「昨日はお化けから守ってくれてありがとうっす!命の恩人っすよ!」
「……」
私は曖昧にうなずいた。
その言葉を聞いてはじめて彼女の誤解を理解した。
違うんだ木名瀬。
俺はお前たちをお化けから守った勇者なんかじゃない。
狂った姿を見られたくなかっただけの臆病者だ。
俺が勝手に幻覚を見て騒いでいただけなんだ。
こっちこそ、怖がらせてごめん。
私は木名瀬を見送ってから歩きだした。
幽霊なんていない。全部幻覚だ。
でも少し疑問もあった。
音。
空気の入った紙袋を割ったような音。
木名瀬も久慈も反応していた。ほんの一瞬だが、初めて夢と現実が交錯した。あれだけ、私だけの幻聴ではなかった。
「……」
考えすぎだろう。ただの音だ。
幽霊なんていない。
何かの偶然だ。