第三話
午後の授業は全く耳に入ってこなかった。教室の扉の窓からずっと山下が見ていた。症状自体は収まりつつあって、いつも程の不快感はないものの、これほど長くじわじわ続くひんやりは経験がない。結局授業が終わって下校時刻になっても山下は消えてくれなかった。
「じゃあね~!」
「うんまた明日~!」
擦れ違う女生徒が何気ない別れの挨拶をかわしていた。私は一人、校門をくぐり帰路につく。振り返るとすぐ後ろに山下がいる。よもやこのまま家までついてくるんじゃあるまいか。
「さっさと消えてくれ」
ずっと念じていた事を、私はぽつりと口に出した。反応はない。
不意に背中を叩かれたような衝撃を感じ、 私はまた振り向いた。見るたびに常に直立不動だった山下の右手が上がっていて、何かを指差していた。
横断歩道を挟んで向こうに山道への入り口が見える。
それだけだった。
視線を戻すと山下はもう何処にもいなくなっていた。
「……」
この山道へ入りしばらく進めば例の廃屋である。山道で倒れていたと聞いた。この山道かは知らない。全部私のいかれた頭がみせた幻覚に過ぎないというのに、何故だか妙に気になる。
今も見えるのか。
何が言いたかったのか。
私に何をして欲しかったのか。
何かして欲しいのか。
「桐島さん?」
スポーツバッグを肩から下げた女生徒がいた。昼に食堂で話し掛けられた――木名瀬といったか。彼女は私が振り向くと、パッと表情を明るくし、
「うおお桐島さん来てくれたんすね!」
不意に抱きついてきた。
自慢ではないが、生来16年余、家族以外の女性と触れ合った事などない。それなりの衝撃で、どう対処したらいいか狼狽していると、連れの女生徒がぽつりたしなめた。
「結実やめなさい」
「だって心細かったす……でも桐島けっきょく来てくれたっす!さあ行こうっす!」
「いや……」
だから、と言いかけて私は辺りを見た。
私達の他には誰もいない。
「……君達二人で行くの?」
「そうよ」
「……」
もうすぐ夕暮れの山道を女生徒二人。幽霊が飛び出してくるよりも変なおっさんが飛び出してくる方が余程怖いのだが。
「……分かった」
流石に捨て置けなく、
「俺もいくよ」
安っぽい正義感というか、完全にその場の弾みで口にした。あとになって、この時こう言わなければと思わないでもない。ついていくのではなく、二人を諭して廃屋探索などやめさせるべきだったと。
「まだ言ってなかったわね。私は久慈羽々。2年B組。美術部よ」
歩きながら、木名瀬の連れが自己紹介を始める。私は違和感をおぼえ思わず聞き返した。
「はばね……?」
彼女は僅かに笑って、
「羽、に同時の点を書いて羽々。変な名前でしょう」
「……いや、綺麗な名前だと思うよ」
社交辞令のつもりで返した。久慈はありがとうと言った。木名瀬と違い、大人びているというか、落ち着いた印象の子だった。
「美術部なのに新聞部の木名瀬に付き合ってるの?」
「今日は部活ないし、結実は中学校からの友逹だから」
ところでその結実がさっきから何も発していない。後ろを見ると、辺りをきょろきょろと見渡しており、足取りが重い。
「どうしたの」
「べ、別に。どうもしないっすよ……」
と明らかに動揺した声で。この山道に入る前とは別人のようなテンションの落ちっぷりであった。
不意に頭上の木の枝が揺れた。
「ひょおっ!?」
かつて聞いた事がないような悲鳴をあげて、木名瀬が私に飛び付いてきた。上空を見ると野鳥が何羽か飛びさっていく。私は彼女に視線を戻した。この子は異性に抱き付くという事に抵抗を感じないのだろうか。
「こんな所で怖がってる場合じゃないだろ」
「うぅ……怖いっすよ。そりゃ怖いっす……」
「帰るか?」
「嫌っす……絶対記事にするっす……」
「じゃあ急ごう。陽が完全に落ちたら、それこそ洒落にならない」
私は木名瀬を引き剥がして一人先に進んだ。彼女が本当に半泣きのような声で、
「羽々ちゃん、手を繋いで下さいっす」
と言ったのが聞こえた。