第一話
通学の途中背後から、おい、という声がした。こういう時決まって首筋がひやっとする。振り返ると猫が一匹、歩道橋の手すりの上からこっちを見ている。
しかし案の定、ただの猫ではない。顔面は赤く焼けただれ腫れ上がっており、目が八つある。その形相は激しい怒気を帯びて、視線からは私を射殺そうとする意思が感じられる。そいつが存外にかん高い女のような声で言うのだ。
「ライターもってねえか」
私は黙ってその場を離れた。背後で猫がまだ何か言っているが知った事ではない。そうしてその場を離れるにつれて、首筋のひんやりが無くなっていく。
ああいう手合いは相手にすればするほど話がこじれる。この間は、空を飛んでいるアゴの長いおっさんの話に適当な相槌をうっていたら、何故だか説教が始まって、殺す殺さないだのわめきながら、結局家の前までついてきた。
一昨年、中3の夏に車にはねられ手術して、それ以来の現象である。最初は時折奇妙な声や物音が聞こえてくるだけだった。ぼちぼち飽きてきたなという頃に声だけでなく姿を見せるようになった。連中は様々な姿形をとってきて、様々な手段で私を怖がらせにくる。共通しているのは、激しい怒りや殺意を向けてくるという事。
連中が何故私に怒っているのは分からない。しかし所詮、幻である。いかに私を殺そうとしたところで不可能に決まっている。それも分かっている。分かってはいるのだが、だからどうなるという事もない。
あと何十年続くか分からない人生で、一生まとわり続けるかもしれぬ狂気。
今年もうだるほどの暑さになるだろう季節の始まり。
私、桐島五郎高校二年生の夏。
「桐島、お前、幽霊が見えるのか」
休み時間に廊下で、何処のクラスの誰とも分からない奴に声をかけられる。振り向くといかにもヤンキーのような奴がおり私は眉をしかめた。またか、と思う。
3ヶ月くらい前に、授業中例のひんやりがきた。別に周りに人がいる時にそれが起こる事自体は初めての経験じゃない。普段は何がこようが我慢している。しかしその時はかつてない程激しい、耐え難い波が来てしまった。
詳細はあまり思い出したくないが、私は、奇妙な発言を繰り返しながら見えないその何かと戦った。授業中。皆の前でだ。それ以来、私はクラスメイトからすっかり変人扱いされて、それ自体は自業自得だし仕方ないのだが、後遺症としてたまにこういうガラの悪い奴に絡まれるようになった。
大体はひんやりの連中と一緒で、適当な相槌をうったり、無視したりしている内に帰っていく。
彼等は私の事をいわゆる中二病と認識しているのだが、実際のところ単なる狂人でしない。それを知れば多分こういう風には絡んでこないのだろう。どちらがマシかは天秤に掛けかねるところではある。
「おい、どうなんだよ」
例の如く無視して歩いていたが、ちょっとしつこかった。
「見えないよ」
「本当の事言えよ」
彼の声のトーンがもう少し高かったなら、それでも無視して歩き去ったろう。私はその顔を見るために振り返った。
見た事のない奴だ。少なくともクラスメイトではない。五分刈りを茶髪に染めて、眉を剃っている。一目みて、人に絡むのを生き甲斐にしているような輩だと思う。しかし、その声色からも、表情からも、からかって楽しもうという意図はうかがえなかった。私は逆にたずねてみた。
「見えるって答えてほしいのか」
表情は変わらない。真剣、といって言いかもしれない。しかし何も答えない。私は少し質問の形を変えて聞いてみた。
「見えるとしたら、何だ」
すると、
「今も見えるのか」
と言う。
「見えないよ」
「本当か」
「どういう意味だ」
彼は何か言おうとしかけて、下を向いた。待ったが何も言わず、私に話しかけた事すらもなかったように、立ち去っていった。歩き方が少し変だった。左足をかばっているような。怪我でもしているのだろうか。後ろ姿を見ながら、ぼんやりそんな事を気にかけていた。
学校帰り夕暮れのコンビニでゲーム雑誌を立ち読みしていると、ひんやり。
いやだなあ、と思うがどうにもならない。自動ドアが開いて、幼稚園児くらいの女の子が入ってくる。
このあいだの猫のようにあからさまな外見をしている奴も結構くるものがあるのだが、一見して普通の見た目のやつも、心臓に悪い。
何故ってこれが幻であるなら、最初は普通でも、必ず何かしらのタイミングで豹変するからである。豹変してくれるまでそれが果たして現実のものであるのか私の幻覚の産物であるのか読めない。先走って決めつけると実在する人間に失礼を働いてしまうこともある。幻より何よりそのパターンが一番最悪だったりする。
「きりきりきりきり」
金属をこすっているような音が段々近付いてくる。少女の喉から鳴っているようであるが、まだ決めつけられない。幻聴だけで少女は本物というパターンもある。
「きりきりきりきり」
彼女は私の隣で雑誌を手に取った。音はずっと鳴っている。私はちらちら少女の方を見ていたが彼女はこちらには目もくれない。雑誌を棚に置いて、私はその場を離れた。
「きりきりきりきり」
音と一緒に少女も近付いてくる。コンビニを出て交差点までのところまでついてきた。私はもう一度少女を見た。その時やっと目が合った。いよいよ焦れて、こちらから話しかけた。
「何かご用」
少女は微かに頷いた。
「どうしたの」
「きりきりきりきり」
頷いたきり何も答えない。しかし私が歩きだすと、待ちかねたようについてくる。少し歩いて私は振り返り、
「おうちに帰りなさい」
と言った。
「……お」
不意に、
「お……おっおっお!おおお!おっ!」
何か吐き出すのではないと思うほど口を大きく縦に開き、少女が叫びだした。両目から緑色の汚液を流している。怒っているのだろう。何か訴えているようでもある。一体何が癇に障ったというのか。
やっぱり話しかけなければよかったのである。こうなると顎の長いおっさんと同様、何処までもついてくるだろう。
慣れたものだ。幻だと分かったらあとはどうだっていい。最近は慣れたもので、どうだっていいと念じる事で、ある程度心のバランスはとれつつある。
誰にも聞かれたくない独り言を呻きながら、私は家への道を急いだ。
どうだっていい。
しかしいっそ、もっと、壊れてしまって、本当に狂ってしまえたなら、今よりも楽になるのかとも思う。