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恋愛小説のはずでした

離縁された私を救った黒騎士は、私しか知らない息子の寝癖を知っていました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/09

 

「アイリーン。君とは離縁する」


 夫のアルバートがそう告げたとき、私は手にしていた刺繍針を、静かに置いた。驚きはなかった。


 その隣に、淡い金の髪の女が座っていたからだ。


 セシリア・ローデン男爵令嬢。半年前から、この屋敷へ通うようになった女だった。


 アルバートは私と目を合わせない。代わりに、机へ一枚の書類を滑らせた。


 離縁状だった。


「理由を伺っても」


「妻の務めを果たせなかった」


「跡継ぎを産みました」


 私たちの間には、五つになる息子がいる。レオン。笑うと右の頬にだけ、小さなくぼみができる子だ。


「あれが、私の子だという証拠はない」


 一拍、言葉の意味が遅れて届いた。


「……なんと、仰いました」


「レオンは黒髪だ。私にも君にも似ていない」


「私の母が、黒髪でした」


「死んだ人間は、何とでも言える」


 隣で、セシリアが眉を寄せた。


「アルバート様。アイリーン様も、お辛いでしょうに」


 口では庇いながら、その指はアルバートの腕へ絡んでいる。白い喉に、見覚えのある青い石が下がっていた。母の首飾りだ。嫁いでから一度も着けず、いつかレオンの妻へ渡そうと、箱の底にしまっていたもの。


「それは、私の母の形見です」


 私が言うと、セシリアは石を手で覆った。


「これは、アルバート様から……」


「返してください」


「アイリーン」


 アルバートが机を叩いた。


「見苦しい真似はよせ」


 見苦しい。その一言を、私は胸の奥へ刻んだ。


「レオンはどこです。今朝から、姿を見ていません」


「熱を出した。別邸へ移した」


「ならば、私も参ります」


「必要ない」


 アルバートの声が低くなる。


「あれは、この家の跡継ぎだ。私の血を引かずとも、外聞のために育ててやる。母親の資格もない女に、渡すものか」


 爪が掌へ食い込んだ。それでも、声は落とさなかった。


「あの子は、私が育てます」


「養う財産があるのか。持参金は、とうに領地へ充てた。母の形見も売った」


 嘘だ。形見は今、セシリアの喉で光っている。


「明日の朝、屋敷を出ろ」


「一目だけでも、レオンに」


「あれには、母が自分を捨てて出ていったと、もう伝えてある」


 椅子が倒れた。立ち上がった私の腕を、いつのまにか入ってきた護衛が掴む。まるで最初から、こうなると決まっていたように。


「離して。レオン——レオンに会わせて」


 アルバートは、もう私を見ていなかった。セシリアの肩を抱いて、女のほうを慰めている。


 私は、七年暮らした部屋から、引きずり出された。


 ◇


 翌朝、板を打ちつけた馬車へ押し込まれた。荷は、小さな鞄ひとつ。着替えと、わずかな銀貨。七年の対価が、それだった。


「レオンはどこ」


 御者は答えない。扉に、鍵のかかる音がした。


 暗い箱の中で、私は膝の上で手を握った。泣くのは、あとだ。今は、あの子を取り返す手を考えなければならない。父も母も、もういない。頼れる縁者もいない。それでも、諦めるという道だけは、持っていなかった。


 あの子は、まだ五つだ。母に捨てられたと聞かされて、どれほど泣いているだろう。


 ——馬が、嘶いた。剣の打ち合う音。何かが倒れ、やがて、静かになる。


 鍵が外れ、扉が開いた。朝の光を背に、黒い甲冑の騎士が立っていた。面頬は閉じ、顔は見えない。


「お怪我は」


 低い声だった。若いようにも、ひどく草臥れているようにも聞こえた。


「ありません」


 騎士は、小さく息を吐いた。安堵したように。


 差し出された籠手には、細かな傷が幾筋も走っていた。私はその手を取って、馬車を降りた。御者も護衛も、縛られて地に座らされている。命は、あった。


「なぜ、私を」


 騎士は答えず、私の肩へ外套をかけた。


「朝は冷えます。——産んでから、冷えやすくなったはずだ」


 見上げた。


「なぜ、それを」


 彼の動きが、わずかに止まる。


「屋敷で、使用人に聞きました」


 妙な間があった。けれど、それを問い詰めるより先に、私は尋ねていた。


「息子の居場所を、ご存じですか」


「北の修道院です」


 即答だった。


「別邸というのは嘘だ。ご主人は、あの子を病死したことにして、遠くへやるつもりでいる。——今夜、移されます。急ぎましょう」


 胸が締めつけられた。


「なぜ、そこまで知っているのです」


 騎士は背を向けた。私は、その外套を掴んだ。


「あなたは、何者ですか」


「あなたの味方です」


「どうして。私は、あなたを知りません」


「それで構いません。——私が、あなたを知っています」


 その言い方に、胸の奥が小さく鳴った。責めるでも、乞うでもない。ただ、ずっと遠くから私を見ていた人のような、声だった。


 馬に乗せられ、彼が後ろへ続いた。甲冑に囲まれる格好になった。不思議と、怖くはなかった。


 むしろ——七年のあいだ、誰の隣にいても消えなかった強張りが、今だけ、少しほどけていた。それが、自分でも分からなかった。


「掴まって」


 私は、彼の腕へ手を添えた。その瞬間、鎧の下の身体が、わずかに強張る。手を離そうとすると、「そのままで」と、かすれた声がした。


 風が、頬を打つ。私はレオンの名を、胸の中で繰り返した。


 ◇


 北の修道院に着く頃、日が傾いていた。古い石造りの門は、閉ざされている。


 騎士が叩くと、年老いた修道女が顔を覗かせた。


「今日は、どなたもお預かりしておりません」


「今朝、五つの男児が運ばれたはずだ。黒髪、青い目。右の頬にだけ、えくぼがある」


 修道女の顔色が変わった。


「存じません」


 閉じかける扉を、騎士が片手で押さえた。


「その子は、夜になると、右手の親指を握らねば眠れない」


 胸が、大きく鳴った。それは、私しか知らない。レオンは不安になると、私の右手の親指を握る。乳飲み子の頃からの、癖だった。


「どうして、それを」


 問いかけた私に、騎士は答えず、修道女だけを見ていた。


「子を、返してもらう」


 ——奥で、何かが落ちた。続いて、細い泣き声。


「母さま……」


 考えるより先に、身体が門を押し開けていた。廊下の奥に、小さな影。黒髪。青い目。


「レオン」


「母さま!」


 駆けてきた身体を、抱きとめる。軽い。震えている。頬に、涙の跡。手首に、赤い痕。


「ごめんなさい」


 何度も、謝った。


「母さま……ぼくを、捨てたの」


「捨てるものですか」


 髪へ顔を埋めた。


「あなたを置いていくはずが、ないでしょう。ずっと、あなたを探していたの」


 背後で、騎士が静かに息を吐いた。振り返ると、少し離れて、彼は息子を見つめていた。兜の奥は、見えない。それでも、その立ち姿には、言葉にならない何かが張り詰めていた。


「騎士さま」


 レオンが、腕の中から彼を見た。


「母さまを、連れてきてくれたの」


「ああ」


 騎士は片膝をつき、子の目の高さまで、身を低くした。


「母上は、お前を捨てていない」


「本当」


「本当だ」


「どうして、分かるの」


 騎士が答えるまでに、少し、間があった。


「私も——信じるまでに、ずいぶん長くかかったからだ」


 意味は分からなかった。レオンも、分からなかっただろう。それでも、その声に安心したように、息子は私の胸へ頬を寄せた。


 修道女たちは、もう止めなかった。彼が剣に触れたからではない。あの声に、逆らえなかったのだと思う。


 ◇


 森の小屋は、狭かった。暖炉と、寝台がひとつ。


 騎士が火を熾し、レオンへ毛布をかけた。


「騎士さまは」


 息子が訊く。


「私は、外で見張る」


「寒いよ」


「慣れている」


 レオンはしばらく考え、毛布の端を持ち上げた。


「ここ、空いてるよ。三人なら、あったかいよ」


 私は、思わず笑った。離縁を告げられてから、初めて笑った気がした。


「困らせては、いけません」


「でも、騎士さま、ずっと一人でいるみたい」


 兜が、わずかにこちらを向いた。


「どうして、そう思う」


「わかんない。なんとなく」


 レオンは、眠そうに目をこする。


 騎士が、低く笑った。


「よく分かるな。——だが、もう一人ではない。母上がいる」


 その声に、奇妙な重さがあった。


 私は息子を寝かせ、右手の親指を握らせた。


「眠るまで、歌って」


 母から教わった歌を、歌った。小さな舟が夜の川を下り、遠い家へ帰る歌。二番まで来たとき、暖炉のそばで、騎士がその続きを口ずさんだ。


 私は、歌を止めた。


「その歌を、ご存じなのですか」


「昔、よく聞きました」


「どなたから」


 騎士は、眠るレオンを見た。


「——誰より、大切な人から」


 その方は、と訊きかけて、私は口をつぐんだ。踏み込んでは、いけない気がした。代わりに、別のことが胸に落ちていた。


 この人は、私のことを、あまりに知りすぎている。冷えやすい体。息子の居場所。頬のえくぼ。眠るときの癖。母の歌。


 なのに私は、あなたの名前ひとつ、知らない。


 奇妙だったのは、その事実が、少しも怖くないことだった。


 七年の結婚で、私は隣にいる人へ、何かを打ち明けたことがなかった。打ち明けても、いつも横へ押しやられた。けれど、この人は、私が言う前から、私の痛む場所を知っている。まるで、ずっと私を見ていたように。


 見られていた、という感覚が、なぜか怖くない。むしろ——生まれて初めて、誰かに本当に見つけられた気がした。


「兜を、取ってはいただけませんか」


 騎士の手が、止まる。


「できません」


「私に、顔を見られたくない」


「はい。——見れば、あなたが、私を知ってしまう」


「私は、知りたいのです」


 彼は、答えなかった。


「明日、すべてが終われば」


 やがて、そう言った。


「私は、行きます。遠い場所へ」


「戻ってきますか」


 沈黙が、答えだった。


 胸が締めつけられた。それが恋なのか、それとも、まだ名前を持たない別の何かなのか、私には分からなかった。ただ、この人を失いたくない、とだけ思った。顔も、名前も、知らないのに。


 ◇


 翌朝、王都へ戻った。アルバートが、私の誘拐を訴え出ていたのだという。


 王宮の大広間へ通されたとき、そこには国王夫妻と、貴族たち、そして、アルバートとセシリアがいた。


 私を見て、アルバートの顔が歪んだ。


「アイリーン……!」


 私は、まっすぐ広間の中央へ歩いた。膝の震えは、もう、止めていた。


「お久しゅうございます。——と申し上げるほど、時は経っておりませんね」


 レオンが、私の背へ隠れる。アルバートが、手を伸ばした。


「レオン、こちらへ来い」


「嫌だ」


 息子が、私のスカートを握る。


「父さまは、母さまがぼくを捨てたって、嘘をついた」


 広間が、ざわめいた。私は息子の手を握り返し、顔を上げた。


「国王陛下。私は、二つのことを申し上げに参りました」


 自分の声が、広間の隅まで届くのを、私は生まれて初めて、確かめた。


「一つ。私は、息子を捨てておりません。夫は、私を屋敷から追い出すために、その嘘を、幼い子へ吹き込みました」


「証拠はあるのか」


 アルバートが、叫ぶ。


「あなたご自身が、書いていらっしゃいます」


 騎士が前へ出て、数通の手紙を差し出した。私はそれを受け取り、王の前へ広げた。修道院長へ宛て、レオンを病死とし、遠方へ送るよう命じた、アルバートの筆跡。


「二つ」


 私は続けた。指が、セシリアの喉元の青い石を、まっすぐ指した。


「その首飾りは、私の母の形見です。夫は、領地のために売ったと申しました。ですが、ご覧の通り、そこにございます。——私の持参金も、母の形見も、どこへ流れたのか。すべて、帳簿が記しております」


 騎士が、二冊の帳簿を置いた。けれど、王へ向かって読み上げたのは、私だった。使い込まれた持参金。セシリアへ渡された屋敷と、宝石。三年前の借金。二年前の、税のごまかし。


「これは、偽造だ!」


 アルバートが、吼えた。


「では」


 私は、静かに言った。


「なぜあなたは、私が今読み上げた金額に、顔色を変えたのです」


 広間が、静まった。


 国王が、アルバートを見据えた。


「申し開きは」


 アルバートの口が、開いて、閉じた。それが、答えだった。


 その後は、早かった。アルバートは爵位を剥奪され、領地と財を没収された。セシリアも、横領に加担した罪で捕らえられた。私の持参金と母の形見は返され、レオンの親権は、私に認められた。


「見苦しい」と、あの人は言った。


 けれど、見苦しくても、私は息子を取り戻した。自分の声で。


 ◇


 人が去っていく大広間の隅に、騎士は、立っていた。甲冑の表面に、白い亀裂が走っている。


「どうしたのです」


 駆け寄った私の前で、彼は自分の手を見ていた。籠手の先が、光の粒に変わり、ほどけていく。


「終わったようです」


「何が」


「あなたが、あの未来へ進む道が。——閉じました」


 意味が、分からなかった。


「あなたは、誰なのです」


「遠い時代から、来ました」


 これまでの違和感が、そこで、ひとつに繋がっていく。見たことのない鎧。まだ起きていないことへの、確信。夫の隠し帳簿。息子の、居場所。


「未来で……私は、どうなったのですか」


 騎士は、しばらく黙っていた。


「あなたは、息子を取り戻せませんでした。病死したと信じたまま、遠い土地へ、追われた」


「レオンは」


「生きていました。——母に捨てられたと教えられ、父にも要らぬ子として、育ちました」


 光が、彼の胸まで、這い上がる。


「大人になって、すべてが嘘だったと知った。母は、最後まで、自分を探していたのだと」


 その声に、なぜか、覚えのある響きがあった。どこで聞いたのかは、分からない。分からないのに、胸が、痛んだ。


 けれど、その痛みの正体へ届く前に、別の思いが、私を突き動かした。


「行かないで」


 私は、彼の腕を掴んだ。手応えが、ない。霧を掴むようだった。


「私はまだ、あなたの名前も、知らない」


「知らなくて、いい」


「知りたいのです。あなたは、私を助けてくれた。息子を取り戻してくれた。私が、一人ではないと、教えてくれた」


 黒い兜を、見上げた。


「あなたがいなければ、私は、すべてを失っていた」


「それでも、あなたは生きたでしょう」


 光の中で、声がかすれる。


「今度は、失う前に来られた。それだけで、十分だ」


「一度だけでも」


 私は、言った。


「私を、抱き締めては、くれませんか」


 彼の腕が、上がる。けれど、私の背へ触れる直前で、止まった。


「できません」


「どうして」


「一度触れれば——離れられなく、なる。それでは、私がここへ来た意味が、ない」


 崩れていく肩を、私は抱いた。甲冑は冷たく、その奥の身体は、震えていた。


「また、会えますか」


「はい。——もう、すぐそばに」


 騎士は、眠るレオンへ、顔を向けた。


「この子は、もう——母に捨てられたと、泣かずに済みます」


 かすれた、声だった。


 私は、息子を見た。黒い髪。青い目。右の頬にだけできる、小さなくぼみ。


 兜に亀裂が入り、面頬の奥から、一瞬、青い目が覗いた。レオンと、同じ色だった。


「あなたは——」


 騎士は、幼い子どものように、笑った。


「今度こそ、あなたを失わずに済むのですね。——母上」


 光が、ほどけて、消えた。


 私の腕には、もう、何もない。ただ、抱いた腕の温もりだけが、確かに、残っていた。


 寝台で、レオンが寝返りを打つ。小さな手が、私の右手の親指を探して、握った。


 私は、その手を、握り返した。


 もう、二度と、離さない。


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― 新着の感想 ―
泣けた‥切ない‥ 彼の半生を想像すると、アルバートとセシリアのその後が相応のものであることを願って止まない。 彼のその後は幸せなものであることを祈りたいです。
自分も子どもが生まれたばかりで、息子を取り戻そうと必死なアイリーンに深く共感しながら読ませていただきました。文章が淡々としているのが、逆に自分の気持ちを主人公に投影して補完できてよかったです。それから…
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