第2話「覚醒とは、寝ぼけた頭がはっきりすることである」
パンを食べ終えた僕は、しばらく呆然としていた。
いや、呆然という言葉では生ぬるい。脳みそが沸騰して、頭蓋骨の中でぐつぐつと煮えているような、そんな感覚。比喩ではなく、文字通りに。
『ええっと、整理しよう。僕はスキル【再翻訳】を使った。対象は「石ころ」。結果は「焼きたてのパン」。プロセスは不明。再現性は……?』
冷静になろうとすればするほど、心臓がドラムロールみたいにうるさく鳴り響く。
僕は、おそるおそる、もう1つ別の石ころを拾い上げた。手のひらに乗るくらいの、ごく普通の、何の変哲もない石ころだ。
深呼吸を一つ。
意識を集中させる。
『【再翻訳】、発動。対象は、この「石ころ」。翻訳後の概念は……そうだ、「澄んだ水」』
スキルを発動した瞬間、手のひらにあった固い感触が、ふっと消えた。
代わりに、ちゃぷん、という涼やかな音と共に、冷たい液体が指の間をすり抜けていく。手のひらには、水晶のように透き通った水が溜まっていた。
僕は恐る恐る、その水をぺろりと舐めてみた。
ひんやりとしていて、ほんのり甘い。紛れもなく、極上の水だ。
「……マジか」
思わず声が漏れた。
これは夢じゃない。幻覚でもない。現実だ。
僕のスキル【再翻訳】は、物質の「概念」そのものを書き換える力だったのだ。
『「言葉を置き換える」というのは、この力のほんの上澄みに過ぎなかった。本質は「概念の置換」。世界のデータベースに直接アクセスして、オブジェクトの情報を書き換えるようなものか?だとしたら、これって、いわゆる……』
神の力、とまでは言わない。そこまで傲慢でもないし、自己評価も高くない。
でも、少なくとも「ゴミスキル」ではないことだけは、確かだった。
僕を追放した父や兄、僕を蔑んだ全ての人々の顔が脳裏に浮かんだ。
今すぐ王都に戻って、この力を見せつけてやろうか。どうだ、見たか、お前たちが捨てたのはとんでもないお宝だったんだぞ、と。後悔のあまり、床を転げまわって泣き叫ぶがいい、と。
そんな幼稚な復讐心が、一瞬だけ頭をよぎった。
でも、すぐにその考えを振り払った。
『いや、待て。駄目だ。そんなことをしてどうなる?またあの息の詰まる屋敷に連れ戻されて、今度は便利な道具として利用されるだけだ。それはごめんだ』
僕が望んでいたのは、すごいと認められることじゃない。ただ、普通に、僕として生きていくことだった。それすら許されなかったから、僕はここにいる。
だったら、この力は僕のためだけに使おう。
僕が生き延びるために。そして、もしできるなら、少しだけマシな人生を送るために。
そう決意すると、不思議と心が軽くなった。
空腹は満たされ、喉の渇きも癒えた。体力も少し回復してきた。
『まずは、この森を抜けないと。それから、どこか人のいる場所へ。できれば、僕のことを誰も知らないような、辺鄙な場所がいい』
***
僕は立ち上がり、再び歩き始めた。
さっきまでとは、世界が違って見えた。森の木々も、道端の草も、空を飛ぶ鳥も、全てが僕のスキルの対象になり得る。
木の枝を「頑丈な杖」に。
足元の邪魔な木の根を「平坦な地面」に。
うっとうしい藪を「開けた道」に。
試してみると、面白いように成功した。
もちろん、万能というわけではないらしい。例えば、「この森」全体を「王都の広場」に、なんていう大規模な書き換えは、イメージがぼやけてうまくいかなかった。どうやら、僕がはっきりと認識できる範囲の、比較的小さなオブジェクトにしか効果がないようだ。
それと、魔力のようなものを消費する感覚があった。連続でスキルを使っていると、頭がずきずきと痛んでくる。MP切れ、みたいなものだろうか。
『なるほど。制約はある、と。まあ、当然か。無制限に世界の理を書き換えられたら、それはもう神様だ』
それでも、この力は今の僕にとって、何よりも頼もしい相棒だった。
数日間、森の中を歩き続けた。
お腹が空けば石ころをパンや果物に、喉が渇けば葉っぱの上の朝露を水筒いっぱいの水に変えた。夜は、洞穴の入り口の空間を「見えない壁」に再翻訳して、獣の侵入を防いだ。
追放された当初の絶望が嘘のように、僕は生きる力を取り戻していた。
いや、生まれて初めて、自分の力で「生きている」という実感を得ていたのかもしれない。
***
そして、森を抜けた先に、それを見つけた。
谷間にひっそりと存在する、小さな村。家は10数軒ほどだろうか。畑は痩せ細り、家々の屋根には穴が空いている。お世辞にも裕福とは言えない、むしろ貧しいという言葉がぴったりな、寂れた村だった。
村の名前を示すであろう看板は、文字が掠れてほとんど読めなかったが、かろうじて「忘れられた谷」と読めた。
『忘れられた谷、か。……今の僕には、おあつらえ向きかもしれない』
僕は、その村へと続く坂道を、ゆっくりと下りていった。
村に入ると、すぐに視線を感じた。
家々の窓から、あるいは畑仕事の手を止めて、村人たちが訝しげな目で僕を見ている。ボロボロの服を着た見知らぬ少年。無理もない、警戒するのは当然だ。
どうしたものか、と考えていると、一人の少女が僕の方へ駆け寄ってきた。
亜麻色の髪をポニーテールにした、快活そうな少女。歳は僕と同じくらいだろうか。そばかすの散った頬、好奇心に輝く大きな瞳が印象的だった。
「ねえ、あんた、旅の人?こんな何もない村に、何の用?」
少女は、僕の目の前でぴたりと止まると、腰に手を当てて言った。その声は、村の寂れた雰囲気とは不釣り合いなほど、明るく弾んでいた。
「いや、用というか……道に迷って、偶然たどり着いたんだ」
「ふーん。道に迷ったにしては、ずいぶん汚れてるじゃない。森でも越えてきたの?」
「まあ、そんなところだ」
僕は曖昧に答えた。追放された、なんて言えるはずもない。
少女はジロジロと僕の全身を値踏みするように眺めると、ふっと笑った。
「お腹、空いてるでしょ。ちょうどお昼ご飯の時間だし、うちに来なよ。何もないけど、黒パンとスープくらいならご馳走するからさ」
「え?いや、でも……」
見ず知らずの僕に、あまりにも親切な申し出だった。何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまうのは、僕の育ちのせいだろうか。
「遠慮すんなって。旅は道連れ、世は情け、ってね。あたしはリリア。この村の村長の娘だよ」
リリアと名乗った少女は、にぱっと笑うと、僕の腕をぐいっと掴んだ。思ったよりも力が強い。
「さ、行こ行こ!お父さーん、お客さんだよー!」
有無を言わさず、僕はリリアに引っ張られていく。
彼女の家は、村の中でもひときわ大きな、と言っても知れているが、村長の家らしい風格のある建物だった。
中に入ると、人の良さそうな髭面の男性が、木の器を磨いていた。彼が村長らしい。
「おお、リリア。その子は?」
「森の方から来た旅の人だって。お腹空かせてるみたいだから、連れてきちゃった」
「そうかそうか。まあ、汚いところだが、ゆっくりしていくといい」
村長さんは、僕を嫌な顔1つせず迎え入れてくれた。
差し出された黒パンは石のように硬く、スープは具がほとんどない塩味の汁だった。でも、人の優しさが、何よりのスパイスになっていた。
食事をしながら、僕は自分のことを少しだけ話した。
カイリという名前であること。家出して、当てのない旅をしていること。もちろん、スキルや貴族の出身であることは隠して。
リリアと村長さんは、僕の話を静かに聞いてくれた。
「そうかい。家出、か。まあ、若い頃はいろいろあるわな」
村長さんは、大きく頷いた。
「行く当てがないんだったら、しばらくこの村にいたらどうだ?見ての通り、何もない貧しい村だが、寝る場所くらいなら提供できる。その代わり、少し仕事を手伝ってもらうことになるが」
「……いいんですか?」
願ってもない提案だった。
「ああ、構わんよ。働き手は一人でも多い方が助かるからな」
「やった!カイリ、これからよろしくね!」
リリアが、自分のことのように喜んでくれた。
その屈託のない笑顔を見ていると、僕の心の奥にあった、ささくれだった何かが、少しだけ癒されていくような気がした。
***
こうして、僕は「忘れられた谷」で暮らすことになった。
追放された元貴族の少年が、辺境の村で新しい人生を始める。
定義上、これはセカンドライフの始まり、ということになるのだろう。
まあ、悪くない。
いや、むしろ、今までで一番、まともな人生の始まりかもしれない。
僕は、これから始まる日々に、ほんの少しだけ、期待を寄せてみることにした。




