第四話 虫愛ずる姫は、世界の理を紡ぐ
「お願いだリリアーナ! この通りだ、どうかその虫たちを止めてくれ! 我が国が、王都が、羽音で埋め尽くされてしまう!」
かつての婚約者、エドワード王子の情けない絶叫が、美しく整えられた「絶望の森」の入り口に木霊した。
彼の背後では、王国の精鋭騎士団が、空を覆い尽くさんとする『黒死蝶』の群れに追い詰められ、腰を抜かして震えている。
一方のリリアーナは、そんな阿鼻叫喚をBGMに、黄金のヘラクレス――通称カブちゃんの、硬質で滑らかな背甲を絹の布で丁寧に磨き上げていた。
「……あら、エドワード様。まだいらしたの? 今、カブちゃんの角の付け根にある、この繊細な溝の汚れを落とすのに集中しているのですけれど。見てください、この絶妙なカーブ。ここに溜まる微かな土の香りと、カブちゃんの体臭が混ざり合った芳香……。くんくん、……はぁ、これこそが生命の神秘ですわ」
「香りを嗅いでいる場合か! 結界が破られたんだ! あの蝶どもが鱗粉を撒き散らして、街中の作物を食い荒らしている! お前なら、あの子たちの『お母さん』なんだろう!? なんとかしてくれ!」
リリアーナは、カブちゃんの角の曲線を愛おしそうになぞる手を止め、ようやく心底面倒そうにエドワードへ視線を向けた。その瞳は、冷徹な審判の光を宿している。
「……勘違いしないでくださいな。あの子たちが暴れているのは、私がいなくなったからではありませんわ。あなたたちが、私の大切にしていた『飼育室』を、あろうことか『不気味だから』という理由で消毒し、焼き払おうとしたからでしょう? あの子たちは、ただ自分たちの居場所を守ろうとしているだけ。生存本能に忠実な、とても健気な子たちなのです」
「そ、それは……! だが、このままでは国が滅びる!」
リリアーナは、ふっと妖艶な笑みを浮かべた。
彼女は、傍らで静かに脈打っていた『銀の繭』にそっと手を触れた。
「……分かりましたわ。では、一つ『取引』をしましょうか?」
その瞬間、繭が眩いばかりの光を放って弾けた。
中から現れたのは、かつての銀月芋虫が変態を遂げた姿――透き通るような翅に、星屑を散りばめたような輝きを纏う、伝説の『月光神蝶』。
蝶がゆっくりと羽ばたくたびに、周囲の空間に清浄な魔力が満ち溢れ、殺気立っていた黒死蝶たちが、魔法にかけられたように大人しくリリアーナの周囲へと集まっていく。
「……ああ、なんて美しいのかしら。この、触れれば溶けてしまいそうなほど繊細な翅脈。そしてこの、甘く切ないフェロモンの響き……。ねえ、あなた。私の代わりに、あの子たちを導いてあげて?」
リリアーナの言葉に応えるように、神蝶が大きく羽ばたいた。銀色の鱗粉が風に乗り、王都の方角へと流れていく。
すると、暴れていた蝶たちは一斉に方向転換し、リリアーナが管理する「絶望の森」の深部へと整然と帰還し始めた。
壊滅の危機に瀕していた王国に、瞬く間に静寂が戻っていく。
「た、助かったのか……? おお、流石はリリアーナ! やはりお前こそが我が国の聖女だ! さあ、すぐに城へ戻ろう。婚約破棄は取り消してやる。お前を正妃として迎え――」
「話は最後までお聞きになって、エドワード様」
リリアーナの声が、冷たくエドワードを遮った。
彼女の隣には、いつの間にか辺境伯ゼノスが立っていた。彼の左腕に宿る魔虫は、リリアーナの魔力を受けてかつてないほどに活性化し、黒く鈍い光を放っている。
「『取引』と言いましたわよね? 私が国を救う代わりに、あなたたちには『罰』を受けていただきます。……ゼノス様、例の(・・)準備はよろしくて?」
「ああ。君の望む通り、最高の『実習場』を用意した」
ゼノスが不敵に笑い、地面を剣で叩く。
すると、エドワードとシャーロットの足元の土が盛り上がり、巨大な『監獄蜘蛛』の糸が彼らを絡め取った。
「な、なんだこれは!? 離せ! 不潔だ、ベタベタする!」
「ふふ、それは世界で最も強靭で、かつ保湿成分たっぷりの最高級の糸ですよ。……エドワード様、シャーロット様。あなたたちには今日から三年間、この森の『下働き』として、虫たちの飼育補助をしていただきます。具体的には、カブちゃんたちの食べ残しの片付けと、一日に数千個産み落とされる卵の磨き上げ、そして――」
リリアーナは、最高に楽しそうに指を立てた。
「――神蝶様が排泄なさる、最高に香ばしい『聖なる肥料』の回収作業ですわ! 一粒も残さず、素手で丁寧に集めてくださいね? それが、あなたたちが蔑んだ命への、何よりの償いになるのですから」
「そんな、嘘でしょう!? 私が、虫のフンを拾うなんて……っ!」
シャーロットが悲鳴を上げるが、リリアーナは慈悲深い笑みを絶やさない。
「あら、光栄に思いなさいな。その肥料のおかげで、王国の枯れた大地は再び豊かになるのです。あなたたちは、文字通り『国を支える肥やし』になるのですから」
エドワードとシャーロットは、衛兵たちによって引きずられるように、巨大な虫たちが待ち構える「実習場」へと連行されていった。
王位継承権は剥奪され、彼らは「虫への理解を深めるまで」一生、森の奥でカサカサと動く脚に囲まれて暮らすことになったのである。
静寂が戻った森の中で、リリアーナは神蝶の翅をそっと指先でなぞった。
「……ふふ、くすぐったいかしら? いい子ね。これでようやく、静かにあなたを愛でる時間が作れるわ」
「リリアーナ。……王都の連中が、君を国賓として迎えたいと騒いでいるが」
ゼノスが、苦笑しながら彼女の腰を抱き寄せた。
リリアーナは、その逞しい胸板に背中を預け、うっとりと目を閉じる。
「お断りしてくださいな。私は、この『いきものがかり』の仕事が何よりも気に入っていますの。それに……」
彼女はゼノスの左腕を取り、その皮膚の下で蠢く虫の鼓動を、自身の指先で感じ取った。
「……ゼノス様。あなたの腕の中にいるこの子も、今日は一段と甘えん坊ですわ。……今夜は、ゆっくりと時間をかけて、この子の『お世話』をさせてくださる?」
リリアーナの熱っぽい視線に、鉄の意志を持つと言われるゼノスの耳たぶが、わずかに赤く染まる。
「……ああ。私の身体も、この呪いも、すべては君の観察対象だ。好きなだけ、弄んでくれ」
「ふふ、嬉しいわ。……ああ、幸せ。可愛い虫たちと、私を理解してくれる素敵なパートナー。こここそが、私の真の帝国ですわね」
黄金の神虫が羽を鳴らし、銀色の蝶が空を舞う。
かつて「宝石の姫」と呼ばれ、今は「虫愛ずる無双の主」となった少女は、最愛の騎士と共に、豊饒の森へと消えていった。
遠くからは、フン掃除に追われる元王子の「もう嫌だー!」という絶叫が聞こえてきたが、それはリリアーナにとって、愛好する虫たちの羽音よりも、ずっと心地よい喜劇の幕間に過ぎなかった。
宝石の姫は、泥にまみれてもなお、美しく。
彼女が紡ぐ「いきものがかり」の伝説は、この森から永遠に語り継がれていくのである。
「さあ、ゼノス様。次はこの子の、この節々の隙間の感触を……もっと詳しく教えてくださいな。ふふ、……あははは!」
多幸感に満ちた笑い声が、夜の森に溶けていった
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「偏愛を極めた令嬢が追放された先で無双する」をテーマに短編を連作しています。印章フェチ、虫愛ずる姫、土壌狂愛——どの令嬢も変態ですが、全員幸せになります。
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現在「追放?いいえ遷都です」を長編として連載中です。シリーズの中で一番スケールの大きい話になっています。




