第三話 崩壊する王国、愛でられる神虫
「助けてくれ、リリアーナ! 頼む、この通りだ! お前がいなければ、我が国は……ルミナス王国は、羽のある悪魔どもに食い尽くされてしまう!」
かつての婚約者、エドワード王子の無様な絶叫が、美しく整えられた「絶望の森」の入り口に木霊した。
だが、その声はリリアーナの耳には届いていない。
彼女は今、黄金のヘラクレス――通称カブちゃんの、硬質で滑らかな背甲に頬を摺り寄せ、うっとりと目を細めていた。
「……ああ、この冷ややかでいて、内側に熱い脈動を感じる黄金の装甲。たまらないわ。カブちゃん、あなた今日も一段と艶が良いわね? この角の付け根の、わずかな隙間から溢れる体液の芳醇な香り……。くんくん、……はぁ、脳が溶けてしまいそう」
「リリアーナ! 聞いているのか! 私が、第一王子であるこの私が頭を下げているのだぞ!」
エドワードは、泥と脂汗にまみれた顔で叫び続けている。
彼の背後では、王国の精鋭騎士団が、空を覆い尽くさんとする『黒死蝶』の群れに追われ、悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。
それは、リリアーナがかつて「可愛いから」という理由だけで、王城の地下で密かに餌を与え、繁殖を制御していたSSSランクの魔虫たちだ。
彼女という「飼い主」を失った虫たちは、抑えを失い、王国という名の巨大な餌場を蹂躙し始めていた。
リリアーナはようやく、カブちゃんの角の曲線を指でなぞるのをやめ、心底面倒そうにエドワードへ視線を向けた。
「……うるさいですね。今、カブちゃんの脱皮前のデリケートな肌質を堪能しているところなんです。エドワード様、その汚い声で、森の可愛い子たちが怯えてしまったらどうするおつもり?」
「怯えているのは人間の方だ! 見ろ、王都はあの虫どもの鱗粉で真っ黒だ! 作物は枯れ、結界はボロボロだ! お前なら、あの虫どもを止められるのだろう!? 今すぐ戻ってこい!」
「嫌ですわ。お断りします」
リリアーナは即答し、再びカブちゃんの節足の付け根を愛おしそうに突いた。
「な、なんだと……!? 国を見捨てるというのか! お前には慈悲というものがないのか!」
「慈悲? あら、おかしなことを仰いますのね。あの子たちは、ただお腹が空いているだけですもの。自然の摂理に従っている子たちを、人間の都合で止めるなんて……そんな残酷なこと、私にはできませんわ」
「狂っている……! 貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか! 国が滅びれば、お前の公爵家だって――」
「公爵家? ああ、あそこならもう、私の可愛い『大食い地食い虫』たちが、建物の基礎から美味しくいただいているはずですよ。今頃は、お父様もシャーロットも、素敵な瓦礫の中で虫たちとダンスを踊っているのではないかしら?」
リリアーナは、まるでお茶会の予定を話すような軽やかさで、実家の破滅を告げた。
エドワードは絶句し、その場にへたり込んだ。
そこへ、優雅な足取りで一人の男が現れる。
リリアーナの守護騎士となった辺境伯ゼノスだ。彼は、リリアーナに調教された寄生虫が宿る左腕で、巨大な銀のトレイを捧げ持っていた。
「リリアーナ嬢、おやつにしよう。今日のパンケーキは、森の『極楽蜂』から採取したばかりの、濃厚なロイヤルゼリーをたっぷりかけてある」
「まあ、ゼノス様! 嬉しいわ。あの子たちの蜜は、ねっとりとした粘り気があって、舌に絡みつくような甘さが最高なんですもの」
「ああ、私も少し舐めてみたが、力が漲るようだ。……ところで、あそこに転がっている不快な騒音源はどうする? カブちゃんが、そろそろ突き飛ばしたそうに角を震わせているが」
ゼノスは、ゴミを見るような目でエドワードを一瞥した。
エドワードは、ゼノスの放つ圧倒的な強者のプレッシャーと、その腕から漏れ出る不気味な虫の気配に、腰を抜かして後ずさる。
「ヒッ、ヒイィッ! ゼノス、貴様、そんな化け物を腕に宿して……!」
「化け物とは失礼な。この子は今、私の血管の中で愛らしく喉を鳴らしているのだぞ。……さて、リリアーナ嬢。最後通牒といこうか」
リリアーナはパンケーキを一口、官能的な溜息と共に飲み込むと、エドワードを真っ直ぐに見据えた。
「エドワード様。三度言いますわ。一つ、私はもう、あなたの婚約者ではありません。二つ、私はこの森の子たちのお世話で忙しいのです。そして三つ――」
リリアーナは、指先に付いた蜜をペロリと舐めとった。
「――無能な虫けらに構っている暇は、一秒だってありませんの。……カブちゃん、お掃除してくださる?」
ブォン!
黄金のヘラクレスが、短く羽を鳴らした。
次の瞬間、巨大な黄金の角がエドワードの目前に迫り、爆風のような圧力で彼を森の外へと弾き飛ばした。
「あべしっ!?」
情けない声を上げながら、王太子は空の彼方へと消えていく。
後に残されたのは、静寂と、甘い蜜の香りが漂う楽園の空気だけだった。
「ふふ、すっきりしましたわ。さあ、ゼノス様。おやつの続きをしましょう? その後で、あなたの腕の子の様子もじっくり見せてくださいね。今日は、皮膚の裏側を這い回る感触を、もっと詳しく観察したいのです」
「……ああ、好きなだけ見てくれ。この腕も、私の命も、すべては君のものだ」
二人は、黄金の陽光が差し込むテラスで、仲睦まじく微笑み合った。
その光景は、一国の滅亡が進行しているとは到底思えないほど、平和で、そして倒錯した愛に満ちていた。
しかし、その時だった。
リリアーナの傍らで、ずっと静かに眠っていた「銀の繭」が、激しく脈打ち始めたのは。
ドクン、ドクン……。
それは、世界そのものを震わせるような重低音。
第1話で彼女が「銀月芋虫」と呼び、愛でていた幼生が、ついに成虫へと進化しようとしていた。
「……あら? あの子、予定より早いわね。よっぽど、私の愛が待ちきれなかったのかしら」
リリアーナの瞳に、獲物を見つけた肉食獣のような、あるいは我が子の成長を喜ぶ母のような、妖しくも美しい光が宿る。
繭の表面に、銀色の亀裂が走る。
そこから溢れ出したのは、光そのものを物質化したような、透き通った未知のエネルギー。
それは、ただの虫の羽化ではなかった。
世界の理を書き換える、神の誕生の序曲。
「さあ、おいで……。私の、最高に可愛い『終わりの蝶』。あなたと一緒に、この退屈な世界を、もっと面白い形に塗り替えてあげましょう」
リリアーナは、割れゆく繭に向かって、優しく両手を広げた。
その背後では、数万の魔虫たちが一斉に羽を震わせ、新しい主の誕生を祝福する不気味な旋律を奏で始めていた。
滅びゆく王国。
そして、虫たちの愛によって再構築される新しい世界。
宝石の姫は、もはや人間であることをやめ、すべての生命を愛でる「神のいきものがかり」へと昇華しようとしていた。
銀色の光が森を飲み込み、空を覆う黒い虫の群れさえも、その輝きに平伏していく。
「ふふ……あはははは! 見て、ゼノス様! なんて美しいのかしら! この子の羽に触れたら、きっと、魂まで溶けてしまいそう……!」
リリアーナの歓喜の叫びが、羽化の衝撃波と共に世界を駆け巡る。
物語は、誰も予想しなかった究極の終焉へと向かって、加速していくのだった。




