表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/4

第二話 絶望の森、虫たちの楽園に変わる



「リリアーナ嬢、正気に戻れ。ここから先は『絶望の森』だ。一歩足を踏み入れれば、二度と太陽を拝むことはできん。ここは、生者が来るべき場所ではない……文字通りの地獄なのだぞ」


 馬車の扉が開いた瞬間、辺境伯ゼノスは重苦しい声で警告を発した。

 彼の眼前に広がるのは、どす黒い霧が立ち込め、日光を遮るほどに巨大な樹木がのたうつ魔境。空気には腐葉土の臭いと、名もなき魔獣たちの殺気が混じり合っている。


 しかし、馬車から降り立ったリリアーナは、大きく深呼吸をしてその白い頬を上気させた。


「……ああ、なんて素晴らしい芳香かしら! ゼノス様、聞こえますか? この、湿り気を帯びた空気の奥から聞こえてくる、何万、何十万という子たちの生命の鼓動が! ここは地獄なんかじゃありません、選び抜かれた者だけが許される至高の聖域……最高にキラキラした天国ですわ!」


「……正気を疑う。あの毒々しい紫色の沼を見ろ。あれは触れるだけで骨まで溶かす酸の沼だ。命の保証などどこにもない」


「あら、あの沼は『大鉄殻甲虫』たちのミネラルたっぷりの泥遊び場ですよ? 見てください、泥の中から突き出たあのアゴのライン! 重厚で、まるで名工が鍛え上げた黒鉄のような光沢……。ああ、あのアゴに挟まれて、ギリギリと力比べをしてみたい……想像しただけで指先が震えてしまいます!」


「挟まれたら指が千切れるぞ。……いいか、あそこに巣を張っている『大鎖蜘蛛』にだけは近寄るな。あの糸に絡まれば、生きたまま中身を吸われるのを待つだけだ」


「まあ、あの子はなんて働き者な淑女レディなのかしら! あの規則正しく、かつ弾力性に富んだ幾何学模様の巣……。あの中央で、彼女の八本の足の動きをじっくり観察できるなら、一晩中縛られていても構いませんわ。あの粘着質で熱を持った糸に包まれる感触……。ふふ、考えただけで……背筋に甘い電流が走ります」


「……話にならん。やはり貴殿は、私とは別の世界を見ているようだな」


 ゼノスは頭を抱え、腰の剣に手をかけた。

 だが、リリアーナは意に介さず、森の奥へとズンズン進んでいく。

 普通なら魔獣に襲われるはずのその歩みは、不思議と淀みがない。彼女が通るたびに、草むらから現れた猛毒の這い虫たちが、なぜか道を開けるように左右へ分かれていくのだ。


 リリアーナが立ち止まったのは、管理官の拠点となるはずの、今にも崩れそうな古びた石造りの塔の前だった。


「さて、まずはゼノス様。お約束通り、その『ギフトボックス』を拝見させてくださいな」


 リリアーナはゼノスの前に回ると、彼の呪われた左腕をそっと、壊れ物を扱うような手つきで両手で包み込んだ。

 ゼノスが顔をしかめる。常に燃えるような熱痛と、何かが這い回るような不快感に苛まれている腕だ。


「……やめておけ。この呪いは、数多の聖職者が匙を投げたものだ。下手に触れれば、貴殿まで――」


「あら。そんなに元気よく暴れて。寂しかったのね、坊や」


 リリアーナはゼノスの言葉を遮り、彼の腕に自身の唇を寄せるようにして、甘い吐息を吹きかけた。

 同時に、彼女の指先が独特のリズムで、腕の皮膚をタッピングし始める。


 トントン、トトト、トン。


 それは虫たちにしか聞こえない、母の鼓動に似た鎮静の旋律。

 すると、ゼノスの黒ずんだ血管が波打ち、皮膚の下から『何か』が蠢きながら浮き上がってきた。


「ひっ……!」


 ゼノスが呻き声を上げる。激痛ではない。今まで感じたことのない、脳が痺れるような奇妙な快感が、腕から背骨へと駆け抜けたのだ。


「いい子ね……。この、節々の硬質な感触、そして内側から押し返してくる生命の圧力。たまらないわ。……ゼノス様、少しだけ我慢してくださいね。今、この子と『対話』を済ませますから」


 リリアーナは懐から、一匹の極小の羽虫を取り出した。

 透き通るような青いはねを持つその虫は、リリアーナの合図と共にゼノスの毛穴からその体内へと滑り込む。


「ぐっ、あ、あああ……っ!」


「ふふ、大丈夫ですよ。私の可愛い『蒼氷ノミ』が、中の暴れん坊を優しく宥めてくれているだけです。ほら、見てください。あなたの腕の熱が引いていくでしょう?」


 驚くべきことに、ゼノスの腕を覆っていたどす黒い痣が、急速に薄れていく。

 腕の中で暴れていた『呪い』の正体――それは、魔力を餌にする希少な寄生虫『焔尾針』だった。

 リリアーナが送り込んだ虫が、その寄生虫の毒性を中和し、共生可能な状態へと調教していく。


「……痛みが、消えた? いや、それどころか、腕の感覚が研ぎ澄まされていくようだ」


「ええ。その子はもう、あなたを蝕む敵ではありません。あなたの魔力を吸って、あなたの意志で動く、最強の『生体武装』になりました。時々、私に触らせてくれれば、機嫌を損ねることもありませんわ」


 リリアーナは、ゼノスの腕を名残惜しそうに最後にもう一度撫で回すと、満足げに微笑んだ。

 ゼノスは呆然と自分の手を見つめる。何年も苦しめられた呪いが、この少女のわずか数分の『愛で』によって、力へと変えられたのだ。


「リリアーナ、貴殿は一体……」


「ただの『いきものがかり』ですよ。さあ、次は私たちの『本丸』のお世話をしましょうか」


 リリアーナは、馬車から大切に運び出していた一つの包みを取り出した。

 それは、彼女が王宮から連れ出してきた『銀月芋虫』が包まっていた繭だ。

 しかし、その繭は今、眩いばかりの金色に輝き、周囲の魔力を渦のように吸い込み始めている。


「これは……まさか、伝説の……」


「ええ。銀の月を経て、黄金の太陽へと至る。世界を統べる神虫の王……羽化の時間です」


 パリ……。


 静寂の森に、小さな、けれど決定的な亀裂の音が響いた。

 次の瞬間、繭が内側から爆発するように弾け、中から一本の、黄金に輝く巨大な角が突き出された。


 ブォォォォォォン……!


 空気を震わせる重低音。

 現れたのは、体長一メートルを超える、黄金の甲殻を纏った巨大なカブトムシだった。

 その存在感は、周囲の魔獣たちを一瞬で平伏させるほどの神々しさに満ちている。


「……カブちゃん。おはよう、いい子ね」


 リリアーナが手を差し伸べると、黄金の巨体は甘えるように彼女の肩へと乗り、その強靭な足で彼女のドレスをぎゅっと掴んだ。

 普通なら、その足の力だけで肩の骨が砕けるはずだが、リリアーナは「あふぅ……くすぐったいわ」と恍惚の声を上げるだけだ。


「ゼノス様、見てください! この完璧なフォルム! この、一切の無駄を省いた流線型の美しさ! そしてこの、鼻を突くような雄々しいフェロモンの香り! ああ、抱きしめて一生離したくない……!」


 黄金のヘラクレス――神話にのみ記されるその虫が、リリアーナの意志に応えるように、その角を天へと掲げた。

 すると、どうだろうか。

 拠点となる塔を中心に、周囲の森が急速に変容を始めた。


 猛毒の霧は爽やかな森の息吹へと浄化され、歪んでいた樹木は美しい果実を実らせる大樹へと姿を変える。

 森の魔獣たちは、神虫の威光に恐れおののき、自ら塔を守護する番犬のように周囲に配置された。


 わずか一晩。

 リリアーナがその場所を「ヨシヨシ」と愛でただけで、死の森は、世界で最も安全で豊かな「黄金の楽園」へと作り変えられてしまったのだ。


「……これが、追放された無能な王女のすることか」


 ゼノスは、黄金に輝く森の景色を前に、乾いた笑いを漏らすしかなかった。

 彼は確信する。この少女を敵に回した王国は、取り返しのつかない過ちを犯したのだと。


 だが、当のリリアーナは、そんな世界の変革など一顧だにしない。


「ふふ、ゼノス様。見てください。カブちゃんが、私の指を甘噛みしています……。ああ、この硬い感触、もっと、もっと強く……。ああ、幸せ……」


 黄金の神虫に指を食まれながら、頬を赤らめて悶える元王女。

 その光景は、神々しくも、どこか狂気的で、そして恐ろしく官能的だった。


 一方その頃。

 リリアーナを追い出したルミナス王国では、異変が起き始めていた。

 王城の庭園から、あらゆる虫たちが姿を消し、代わりに空を覆い尽くすほどの「黒い羽虫」の群れが、地平線の彼方から迫っていたのである。


 王城のバルコニーで、エドワード王子は空を仰ぎ、顔を青ざめさせた。


「……なんだ、あの雲は? いや、雲ではない。あれは、虫か!? なぜだ、結界はどうした!?」


 彼らはまだ知らない。

 自分たちが「不気味な虫女」と蔑んだ少女こそが、この国を害虫から守っていた唯一の、そして最後の守護者であったことを。


 絶望の森は、今や世界で唯一の安息の地。

 そこでは、虫を愛しすぎる姫の、艶やかな笑い声が今日も響き渡っている。


「さあ、みんな。次のお世話はどの子かしら? ……ああっ、そこの蜘蛛ちゃん! そんなに足をバタバタさせて……。はいはい、今すぐ優しくしてあげますからね!」


 リリアーナの欲望アイが、森をさらなる未知の進化へと導いていく。

 王国に破滅の羽音が忍び寄っていることなど、今の彼女にとっては、大好きな虫の羽音に比べれば、あまりに些細な雑音に過ぎなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ