第二話 絶望の森、虫たちの楽園に変わる
「リリアーナ嬢、正気に戻れ。ここから先は『絶望の森』だ。一歩足を踏み入れれば、二度と太陽を拝むことはできん。ここは、生者が来るべき場所ではない……文字通りの地獄なのだぞ」
馬車の扉が開いた瞬間、辺境伯ゼノスは重苦しい声で警告を発した。
彼の眼前に広がるのは、どす黒い霧が立ち込め、日光を遮るほどに巨大な樹木がのたうつ魔境。空気には腐葉土の臭いと、名もなき魔獣たちの殺気が混じり合っている。
しかし、馬車から降り立ったリリアーナは、大きく深呼吸をしてその白い頬を上気させた。
「……ああ、なんて素晴らしい芳香かしら! ゼノス様、聞こえますか? この、湿り気を帯びた空気の奥から聞こえてくる、何万、何十万という子たちの生命の鼓動が! ここは地獄なんかじゃありません、選び抜かれた者だけが許される至高の聖域……最高にキラキラした天国ですわ!」
「……正気を疑う。あの毒々しい紫色の沼を見ろ。あれは触れるだけで骨まで溶かす酸の沼だ。命の保証などどこにもない」
「あら、あの沼は『大鉄殻甲虫』たちのミネラルたっぷりの泥遊び場ですよ? 見てください、泥の中から突き出たあのアゴのライン! 重厚で、まるで名工が鍛え上げた黒鉄のような光沢……。ああ、あのアゴに挟まれて、ギリギリと力比べをしてみたい……想像しただけで指先が震えてしまいます!」
「挟まれたら指が千切れるぞ。……いいか、あそこに巣を張っている『大鎖蜘蛛』にだけは近寄るな。あの糸に絡まれば、生きたまま中身を吸われるのを待つだけだ」
「まあ、あの子はなんて働き者な淑女なのかしら! あの規則正しく、かつ弾力性に富んだ幾何学模様の巣……。あの中央で、彼女の八本の足の動きをじっくり観察できるなら、一晩中縛られていても構いませんわ。あの粘着質で熱を持った糸に包まれる感触……。ふふ、考えただけで……背筋に甘い電流が走ります」
「……話にならん。やはり貴殿は、私とは別の世界を見ているようだな」
ゼノスは頭を抱え、腰の剣に手をかけた。
だが、リリアーナは意に介さず、森の奥へとズンズン進んでいく。
普通なら魔獣に襲われるはずのその歩みは、不思議と淀みがない。彼女が通るたびに、草むらから現れた猛毒の這い虫たちが、なぜか道を開けるように左右へ分かれていくのだ。
リリアーナが立ち止まったのは、管理官の拠点となるはずの、今にも崩れそうな古びた石造りの塔の前だった。
「さて、まずはゼノス様。お約束通り、その『ギフトボックス』を拝見させてくださいな」
リリアーナはゼノスの前に回ると、彼の呪われた左腕をそっと、壊れ物を扱うような手つきで両手で包み込んだ。
ゼノスが顔をしかめる。常に燃えるような熱痛と、何かが這い回るような不快感に苛まれている腕だ。
「……やめておけ。この呪いは、数多の聖職者が匙を投げたものだ。下手に触れれば、貴殿まで――」
「あら。そんなに元気よく暴れて。寂しかったのね、坊や」
リリアーナはゼノスの言葉を遮り、彼の腕に自身の唇を寄せるようにして、甘い吐息を吹きかけた。
同時に、彼女の指先が独特のリズムで、腕の皮膚をタッピングし始める。
トントン、トトト、トン。
それは虫たちにしか聞こえない、母の鼓動に似た鎮静の旋律。
すると、ゼノスの黒ずんだ血管が波打ち、皮膚の下から『何か』が蠢きながら浮き上がってきた。
「ひっ……!」
ゼノスが呻き声を上げる。激痛ではない。今まで感じたことのない、脳が痺れるような奇妙な快感が、腕から背骨へと駆け抜けたのだ。
「いい子ね……。この、節々の硬質な感触、そして内側から押し返してくる生命の圧力。たまらないわ。……ゼノス様、少しだけ我慢してくださいね。今、この子と『対話』を済ませますから」
リリアーナは懐から、一匹の極小の羽虫を取り出した。
透き通るような青い翅を持つその虫は、リリアーナの合図と共にゼノスの毛穴からその体内へと滑り込む。
「ぐっ、あ、あああ……っ!」
「ふふ、大丈夫ですよ。私の可愛い『蒼氷ノミ』が、中の暴れん坊を優しく宥めてくれているだけです。ほら、見てください。あなたの腕の熱が引いていくでしょう?」
驚くべきことに、ゼノスの腕を覆っていたどす黒い痣が、急速に薄れていく。
腕の中で暴れていた『呪い』の正体――それは、魔力を餌にする希少な寄生虫『焔尾針』だった。
リリアーナが送り込んだ虫が、その寄生虫の毒性を中和し、共生可能な状態へと調教していく。
「……痛みが、消えた? いや、それどころか、腕の感覚が研ぎ澄まされていくようだ」
「ええ。その子はもう、あなたを蝕む敵ではありません。あなたの魔力を吸って、あなたの意志で動く、最強の『生体武装』になりました。時々、私に触らせてくれれば、機嫌を損ねることもありませんわ」
リリアーナは、ゼノスの腕を名残惜しそうに最後にもう一度撫で回すと、満足げに微笑んだ。
ゼノスは呆然と自分の手を見つめる。何年も苦しめられた呪いが、この少女のわずか数分の『愛で』によって、力へと変えられたのだ。
「リリアーナ、貴殿は一体……」
「ただの『いきものがかり』ですよ。さあ、次は私たちの『本丸』のお世話をしましょうか」
リリアーナは、馬車から大切に運び出していた一つの包みを取り出した。
それは、彼女が王宮から連れ出してきた『銀月芋虫』が包まっていた繭だ。
しかし、その繭は今、眩いばかりの金色に輝き、周囲の魔力を渦のように吸い込み始めている。
「これは……まさか、伝説の……」
「ええ。銀の月を経て、黄金の太陽へと至る。世界を統べる神虫の王……羽化の時間です」
パリ……。
静寂の森に、小さな、けれど決定的な亀裂の音が響いた。
次の瞬間、繭が内側から爆発するように弾け、中から一本の、黄金に輝く巨大な角が突き出された。
ブォォォォォォン……!
空気を震わせる重低音。
現れたのは、体長一メートルを超える、黄金の甲殻を纏った巨大なカブトムシだった。
その存在感は、周囲の魔獣たちを一瞬で平伏させるほどの神々しさに満ちている。
「……カブちゃん。おはよう、いい子ね」
リリアーナが手を差し伸べると、黄金の巨体は甘えるように彼女の肩へと乗り、その強靭な足で彼女のドレスをぎゅっと掴んだ。
普通なら、その足の力だけで肩の骨が砕けるはずだが、リリアーナは「あふぅ……くすぐったいわ」と恍惚の声を上げるだけだ。
「ゼノス様、見てください! この完璧なフォルム! この、一切の無駄を省いた流線型の美しさ! そしてこの、鼻を突くような雄々しいフェロモンの香り! ああ、抱きしめて一生離したくない……!」
黄金のヘラクレス――神話にのみ記されるその虫が、リリアーナの意志に応えるように、その角を天へと掲げた。
すると、どうだろうか。
拠点となる塔を中心に、周囲の森が急速に変容を始めた。
猛毒の霧は爽やかな森の息吹へと浄化され、歪んでいた樹木は美しい果実を実らせる大樹へと姿を変える。
森の魔獣たちは、神虫の威光に恐れおののき、自ら塔を守護する番犬のように周囲に配置された。
わずか一晩。
リリアーナがその場所を「ヨシヨシ」と愛でただけで、死の森は、世界で最も安全で豊かな「黄金の楽園」へと作り変えられてしまったのだ。
「……これが、追放された無能な王女のすることか」
ゼノスは、黄金に輝く森の景色を前に、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
彼は確信する。この少女を敵に回した王国は、取り返しのつかない過ちを犯したのだと。
だが、当のリリアーナは、そんな世界の変革など一顧だにしない。
「ふふ、ゼノス様。見てください。カブちゃんが、私の指を甘噛みしています……。ああ、この硬い感触、もっと、もっと強く……。ああ、幸せ……」
黄金の神虫に指を食まれながら、頬を赤らめて悶える元王女。
その光景は、神々しくも、どこか狂気的で、そして恐ろしく官能的だった。
一方その頃。
リリアーナを追い出したルミナス王国では、異変が起き始めていた。
王城の庭園から、あらゆる虫たちが姿を消し、代わりに空を覆い尽くすほどの「黒い羽虫」の群れが、地平線の彼方から迫っていたのである。
王城のバルコニーで、エドワード王子は空を仰ぎ、顔を青ざめさせた。
「……なんだ、あの雲は? いや、雲ではない。あれは、虫か!? なぜだ、結界はどうした!?」
彼らはまだ知らない。
自分たちが「不気味な虫女」と蔑んだ少女こそが、この国を害虫から守っていた唯一の、そして最後の守護者であったことを。
絶望の森は、今や世界で唯一の安息の地。
そこでは、虫を愛しすぎる姫の、艶やかな笑い声が今日も響き渡っている。
「さあ、みんな。次のお世話はどの子かしら? ……ああっ、そこの蜘蛛ちゃん! そんなに足をバタバタさせて……。はいはい、今すぐ優しくしてあげますからね!」
リリアーナの欲望が、森をさらなる未知の進化へと導いていく。
王国に破滅の羽音が忍び寄っていることなど、今の彼女にとっては、大好きな虫の羽音に比べれば、あまりに些細な雑音に過ぎなかった。




