第一話 宝石の姫、泥に咲く虫を愛でる
「リリアーナ・フォン・アステリア! 貴様との婚約を、今この場を以て破棄する!」
王城の白亜の晩餐会会場に、裂帛の気合がこもった声が響き渡った。
声の主は、この国の第一王子であるエドワード・フォン・ルミナス。
眩いばかりの金髪をかき上げ、彫刻のように整った顔を歪ませて彼が指し示した先には、一人の少女がいた。
リリアーナ・フォン・アステリア。
アステリア公爵家の長女であり、かつてはその類まれなる美貌から『宝石の姫』と称えられた少女である。
しかし、今の彼女は、その美しいドレスの裾を泥で汚し、あろうことか大理石の床に膝をついていた。
だが、彼女は震えてなどいない。
絶望に打ちひしがれているわけでもない。
「……ああっ、素晴らしいわ。この、波打つような節足の動き。まるで見えない天使たちが一斉にハープを奏でているかのよう……。ねえ、あなた。そんなに一生懸命に歩いて、どこへ行くつもりなの?」
リリアーナは、エドワードの断罪などこれっぽっちも耳に入っていない様子で、自身の掌の上を這う『何か』を熱っぽく見つめていた。
それは、一見すればただの芋虫だった。
しかし、ただの芋虫ではない。白銀の体毛が絹糸のように輝き、その節々からは淡い燐光が漏れ出ている。
彼女の細く白い指先が、芋虫の背中をやさしく、愛おしそうに撫でる。
「リリアーナ! 私の話を聞いているのか、この虫女が!」
エドワードの怒声が再び響く。
リリアーナはようやく顔を上げた。その瞳は、婚約者を失う悲しみではなく、愛好する対象を邪魔された不快感に満ちている。
「……エドワード様。静かになさってください。この子が驚いて、排泄物をもらしてしまったらどうするのですか? この銀月芋虫のフンは、最高級の香料の原料になるほど高貴な香りなのですよ。まだ幼生ですから、ストレスには弱いのです」
「知るか! 貴様、自分の立場を理解しているのか! 公爵令嬢ともあろう者が、四六時中そんな不気味な虫を這わせ、挙句の果てには社交界の庭園を掘り返して幼虫を探し回る……! 私の隣に立つ女性が、土まみれの虫愛好家など、国家の恥辱だ!」
エドワードの傍らには、可憐な笑みを浮かべたリリアーナの異母妹、シャーロットが寄り添っていた。
彼女は怯えたふりをして、エドワードの腕にしがみつく。
「お姉様、もうおやめになって……。エドワード様が仰る通りですわ。そんな、カサカサと動く足がたくさんある生き物なんて、見ているだけで吐き気がいたします……。殿下を困らせるのも、大概になさってくださいな」
シャーロットの言葉に、周囲の貴族たちからも失笑が漏れる。
「宝石の姫が聞いて呆れるな」「ただの虫女ではないか」「不気味なことこの上ない」
心無い言葉が矢のようにリリアーナに降り注ぐ。
だが、リリアーナはフフッと低く笑った。
その笑みは、蔑まれている者のそれではなく、愚かな未開人を憐れむ学者のような慈愛に満ちていた。
「シャーロット。あなたにはこの機能美がわからないのね。この、腹脚の吸い付くようなもっちりとした質感。指先を通じて伝わってくる、微かな、けれど力強い心臓の鼓動。そしてこの、湿り気を帯びた涼やかな皮膚感……。ああ、想像しただけで背筋がゾクゾクするほど愛おしいわ」
リリアーナは芋虫を頬に寄せ、うっとりと目を閉じた。
その恍惚とした表情は、端から見れば狂気そのものだった。
芋虫がリリアーナの柔らかな肌の上をゆっくりと這う。そのたびに彼女の喉が小さく鳴る。
「ひっ……! 狂っている、やはり貴様は狂っているぞ!」
エドワードは嫌悪感を隠そうともせず、懐から一枚の書状を取り出し、リリアーナの足元へ投げ捨てた。
「貴様のような『虫呼び』の呪われた加護を持つ女に、この国の王妃は務まらん。今日限りで貴様をアステリア家から除名し、国外へ追放する! 行き先は北の最果て、『絶望の森』だ。そこで一生、貴様の愛する虫けらどもと泥を啜って暮らすがいい!」
『絶望の森』。
そこは強力な魔獣が跋扈し、草木さえも人を喰らうと言われる禁忌の地だ。
管理官という名目で送り込まれた者は、誰一人として生きて戻ったことがない。実質的な死刑宣告である。
会場にいた誰もが、リリアーナが泣き叫び、許しを乞うだろうと予想した。
しかし。
「……えっ? 今、なんと仰いました?」
リリアーナの瞳が、今日一番の輝きを放った。
「『絶望の森』ですって? あそこは……確か、固有種の『獄炎大百足』や、絶滅したと思われていた『冥府の糸紡ぎ蜘蛛』の生息報告があったはず……。そんな、そんな夢のような場所の『いきものがかり』にしてくださるというのですか!?」
「なっ……!?」
「ああ、神様! ありがとうございます! 王宮の庭園は農薬が撒かれていて、可愛い子たちがすぐに弱ってしまうから不満だったのです。あんな豊かな生態系のど真ん中で暮らせるなんて……エドワード様、あなたって意外と慈悲深い方だったのですね!」
リリアーナは立ち上がり、泥のついたドレスを翻してエドワードの手を握ろうとした。
エドワードは汚物を見るような目で飛び退く。
「触るな! 狂人が! おい、衛兵! この女を今すぐ連れて行け!」
「ふふ、急かさなくても結構ですよ。荷造りなんて必要ありません。この子たちがいる場所が、私の家なのですから。さあ、行きましょう、銀月ちゃん。新しいお家は、とっても広くて美味しいものがたくさんあるわよ」
リリアーナは、銀色の芋虫を大切に胸元へ仕舞い込むと、鼻歌交じりに会場を後にしようとした。
その背中に、一人の男が声をかける。
「待たれよ」
会場の隅、影に潜むように立っていた大柄な男が歩み出た。
全身を黒い鎧で包み、顔の半分を不気味な火傷の痕が覆っている。
辺境伯ゼノス・フォン・ドラグーン。
『呪われた騎士』と恐れられ、魔獣の住処である北部国境を守護する男だ。
「リリアーナ嬢。貴殿が赴く『絶望の森』は、私の領地の隣接区域だ。道中の護衛は、我が隊が引き受けよう」
「あら、ゼノス辺境伯。助かりますわ」
ゼノスはリリアーナの前に立つと、彼女が懐に隠した芋虫を一瞥した。
普通の人間なら顔をしかめるはずのその視線は、どこか鋭く、何かを見極めようとしている。
「……嬢ちゃん。その虫、腹が減っているようだが」
「えっ? ……まあ! わかるのですか? そうなのですよ、この子は三時間おきに新鮮な朝露を含んだ若葉を与えないといけないのですが、このパーティーのせいで食事が遅れてしまって」
「私の馬車に、北部の霊峰で採れた薬草の苗がある。移動中に使え」
「まあ、なんて素敵な方! あなた、虫の心がわかる方なんですのね!?」
リリアーナが瞳をキラキラさせて詰め寄ると、鋼の心臓を持つと言われるゼノスが、わずかにたじろいだ。
「いや、私はただ、飢えた獣の目は知っているというだけだ」
「いいえ! 分かりますとも、あなたのその『呪われた腕』……ふふ、中からとても活きのいい寄生魔虫の気配がしますわ。素敵……そんな希少な子を宿しているなんて、あなたは歩く標本箱ですわね!」
「……寄生魔虫だと? これは教会の呪いだと聞かされていたが」
「教会の診断なんて当てになりませんわ。その子、今は暴れていますけど、私が適切に『お世話』して差し上げれば、あなたの腕は以前よりもずっと強靭な武器になりますわよ? ねえ、移動中に少しだけ、中を見せてもらってもいいかしら?」
「……。好きにしろ。ただし、私の命があるうちに頼む」
二人の奇妙な会話を、エドワードとシャーロットは呆然と見送るしかなかった。
「……行っちまったな。狂人同士、お似合いだ」
エドワードは吐き捨てるように言った。
しかし、彼はまだ気づいていなかった。
リリアーナがその掌で愛でていた『銀月芋虫』が、実はこの国の結界を維持する世界樹の幼生であり、彼女の『虫呼び』の力がなければ、数日後には王都が巨大な害虫の群れに飲み込まれる運命にあることを。
一方、馬車に乗り込んだリリアーナは、ゼノスの隣で幸せそうに芋虫を撫で回していた。
「さあ、ゼノス様。まずはその腕の子に挨拶をさせてくださいな。ふふ、嫌がらないで……お姉さんが、たっぷり可愛がってあげますからね」
「……リリアーナ嬢、顔が怖いぞ」
リリアーナの指が、ゼノスの不気味に脈打つ腕に触れる。
その瞬間、ゼノスの体中を走っていた激痛が、嘘のように消え去った。
彼女の指先から、虫たちにしか聞こえない『慈愛の旋律』が奏でられていたからだ。
宝石の姫は、泥を捨て、真の楽園へと旅立つ。
後に残される者たちが、自分たちのしでかしたことの重大さに気づき、絶望の悲鳴を上げるまで、あと三日。
リリアーナの「いきものがかり」としての無双ライフは、今、幕を開けたのである。
「ああっ、見てくださいゼノス様! 馬車の窓に、とっても珍しい毒蛾が……! 捕まえてもいいですか? いいですよね!?」
「……ほどほどにしろよ、リリアーナ」
絶望の森へと向かう馬車の中には、悲壮感など欠片もなかった。
ただ、新種の虫への期待に胸を膨らませる少女の、艶めかしい吐息だけが響いていた。




