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名もなき戦士の選択

彼は右手に剣を握っていた。

乾いた血がこびりつく革の手袋を通して、柄の冷たさが手に伝わる。


戦場の空は黒く煤けていた。

血と鉄の匂いが鼻を突く。

戦場の空気は重く、乾いていた。

風が敵軍の旗を煽るたび、彼の前髪を乱暴に揺らした。



戦いが始まる前、彼は誓いを立てた。

「最後まで戦い抜く」と。

「必ず勝つ。生き残る」と。


だが、その誓いが、今ではどこか遠いものに思える。


「勝つことが正義なのか?」

「生き延びることは罪なのか?」


いつのころからか、そんなことを考えるようになっていった。



盾の隙間から、迫りくるひとりの敵の姿が見えた。

敵もまた、剣を握っている。


互いに迷いなく刃を交える。

そうするのであると……そうするしかないのだと、教えられてきた。

彼も。おそらく敵も。


だが、ほんの一瞬、彼は躊躇した。


その一瞬が、すべてを変えた。


敵の刃は彼の鎧をかすめ、その衝撃に耐えきれず彼は後ろへ倒れ込んだ。

鎧越しに、土の冷たさが染み込んでくる。


視界がぶれる。

戦場の音が遠ざかる。

どこかで誰かが叫んでいる。だが、その声はもう彼の耳には届かない。

ただ、風だけが聞こえた。


剣を握りしめていた彼の右手から、力が抜けた。



敵は目を見開いて、体の動きを止めた。

倒れた彼の視線と、自らの視線が交錯する。


その目の奥には、戦場にはそぐわぬ感情が宿っていた。


敵の剣先がわずかに揺れた。

敵はなおも彼の瞳を見つめる。


それはまるで問いかけのようだった。


しばしの沈黙の後、敵はただ静かに剣を下げ、背を向けて歩み去った。




彼は生きていた。

だが、それは勝者の証ではなかった。


立ち上がろうともせず、彼は倒れ込んだままただ空を見上げる。


そのとき、彼は気付いた。


「戦いに意味はあるのか?」



戦場の風は変わらず冷たい。

しかし、春の匂いがかすかに混じっている。


彼は剣を拾わなかった。

指先を開いたまま、ただじっとその匂いを感じていた。



――もう、剣を握る理由はどこにもなかった――



いつの間にか、剣戟の響きが聞こえなくなっていた。

さっきまで剣戟の真っただ中にいたはずなのに。


彼はひとり、戦場を後にした。

「裏切り者」と言われることもあるだろう。

「臆病者」と罵られることもあるだろう。


それでも彼は歩き続けた。




剣を捨てた戦士に、戦場はもはや意味を成さなかった。


おひつじ座は孤高の戦士

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