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三 ノートの行方

 サーシャが辺境の城にやってきて、三ヶ月が経った。

 トラセアとエルダが手伝ってくれたおかげで、治療室はサーシャの使いやすいように整ってきた。サーシャが働く場所として、とても居心地が良くなったのだ。

 治療室の隣には仮眠室があり、こちらも少しずつ充実してきている。仮眠室は、寝台と机、小さな本棚だけの簡素な部屋だ。もしも予断を許さない症状の患者が現れたとき、患者から離れずに休息を取るためのものである。幸い、今のところ仮眠室を使う機会はない。いつかその日に備えて、常に清潔に保たれていた。

 反対側の隣には倉庫があった。倉庫では止血用の布が大量に埃を被っていて、エルダがまとめて洗濯部屋に運び込んだ。今は洗って畳まれた状態で、清潔な棚に並べられている。

 倉庫には、新品の植物油の瓶や、丁寧に臭みを取った馬の油の瓶、そして作り置きの蒸留水の瓶などもあった。油は長持ちするので、瓶の埃を拭ってそのまま使うことにした。蒸留水は傷んでいそうだったので中身を廃棄した。改めて、蒸留水を用意しなければならない。

 蒸留水は、鍋で大量のお湯を沸かしてできた湯気を集めて作る。かまどの傍で長時間火を使う、大変な作業だ。厨房を使わせてもらえる日がないか、サーシャは料理長コスタルに相談した。

「蒸留水か、そういや一回だけ作ったことがあるな。……よし、俺が作るぜ。その方が早い。たくさん作ってやるから、今夜の分の下ごしらえ、全部任せてもいいか?」

 料理長はにやりと笑って作業交代を申し出てくれた。サーシャにはありがたい話である。喜んで野菜の皮むきに取りかかると、料理長コスタルは大量に蒸留水を用意してくれた。用意した大きな瓶が全て蒸留水で満たされる。料理長は火の魔術の使い手で、普通にサーシャがかまどを使うよりもずっと作業が早かった。

「残り少なくなったら、また声をかけてくれよ。下ごしらえと交代で準備してやる」

 料理長は笑って、卵やジンガーの根を分けてくれた。その手はごつごつとして温かかったが、たくさんのあかぎれと切り傷があった。

 お礼に、手荒れに効く軟膏を作って贈ったところ、翌日の料理長がその効果に感動していた。瞬く間にメイドたちの間で話題になり、サーシャが大量に軟膏を作ることになったのはまた別の話である。

 閑話休題。

 この日以来、サーシャは定期的に野菜の下ごしらえを手伝うようになった。作業のかたわら、料理長に乞われるまま食あたりについて知ることを話した。

 食あたりを診断すると病素のもやが見える。アルテリオ老師は、病素になるものは身のまわりに当たり前に存在していて、これが食材や薬を傷ませたり、食あたりを引き起こしたり、怪我の時の発熱を引き起こしたりすると考えていた。サーシャはアルテリオ老師に、作業や診断の前には手や作業の場を清潔にすること、特に傷口に触れるものは熱湯や蒸留水で洗浄することを徹底させられている。

 その話を聞いた料理長は、厨房でも頻繁に手を洗い、熱湯で調理器具や調理台を清めるようにしたらしかった。

「大昔、城中を食あたりにしちまったことがあってな。もう二度とあんな所を見たくねぇんだ」

 料理長コスタルは、恥ずかしそうに頭をかいた。


 治療室には、新しい薬草が揃うようにもなった。

 城の裏手の森に前任の治療魔術師が整えた薬草園があって、庭師が世話を続けていた。おかげで満足な量の薬草が生い茂っている。その質も非常に良く、サーシャは感動した。

 庭師のシグムは気難しそうな老爺だったが、サーシャが何度も薬草園で採取する様子を眺め、そのうちに採取を代わってくれるようになった。忙しいときには見習いに治療室まで届けさせる、と請け負ってくれている。

 サーシャは三ヶ月をかけて少しずつ、城で仕える人の名前と顔を覚え、治療室で診断魔術を使い応急処置を行った。メイドたちや庭師のシグムなど、良くしてくれる人も増えてきた。アルテリオ老師もマスマロウの街で治療院を開いた直後は、こんな感じの手探りだったのだろうか、と想像すると興味深いような、同じことが自分に起きている事実が信じられず面はゆいような、不思議な気分だった。

 ちなみに三ヶ月の間にもっとも治療室を利用したのはカーディオで、相変わらず部下を庇って自分がささやかな怪我を負う悪癖は直らないようだった。ただ、怪我や出血の程度は大したことがなく、怪我による発熱も起こらなかった。ちょっとした打ち身や切り傷も多かったが、カーディオに頼られていることをサーシャは嬉しく思う。

「坊ちゃまに生傷が絶えないのは昔からですよ、それでも、こんなに早く診断や手当を受けているだけ十分です。くれぐれも宜しく頼みますよ」

 傷を負ったカーディオがサーシャの元ですぐに手当を受けられることを、トラセアは感謝しているらしかった。

 でもサーシャの方こそ、感謝でトラセアには頭が上がらない。トラセアが城のあちこちでサーシャを紹介してくれるおかげで、サーシャは城の面々から好意的に受け止められている気がするのだ。ありがたいことである。


 仮眠室の本棚には、前任の治療魔術師が残した治療記録があった。アルテリオ老師以外の手による治療記録を読むのは、サーシャには初めてのことである。アルテリオ老師とは異なる考え方や治療方法を知ることは、とても新鮮で興味深い。専門書とは異なる魅力にサーシャは惹きつけられ、空き時間を見つけては治療室で少しずつ読み進めていた。

 今読んでいる記録は五年前のもの、砦の防衛に従軍した際の治療記録だった。患者の人数も多く治療も大変だっただろう。治療内容が細かく書き記されていて、前任者はとてもまめな人だったようだ。

「ええと、右肩後方に矢傷あり、貫通せず。被毒はなし。ほか、全身に軽度の打撲と擦過傷……重傷じゃないけど、とにかく怪我が多い人だなぁ。患者年齢十七才、指揮官の為最優先で治療魔術を行う。これ、もしかしてカーディオ様?」

 怪我の多い、年若い指揮官。カーディオの特徴に一致する。五年前も兵士たちを庇っていたのだろうか。現在との共通点を見つけて、サーシャはふふふと笑った。

「やあ、呼んだ?」

「!」

 今ちょうど考えていた人の声が聞こえて、慌ててサーシャは戸口を振り返る。カーディオがひらひらと手を振っていた。勉強のためとはいえ、こっそりカーディオの治療記録を見ていたことが少しだけ疾しい気がして、サーシャは慌てて治療記録を閉じた。

「お怪我ですか?」

「今日は元気だよ。遊びに来ただけ」

 カーディオの歩きぶりにも身体のバランスにも確かに違和感はなく、今日は本当に健康体で治療室に現れたようだった。

「治療室、かなりできあがってきたね」

「カーディオ様のおかげですよ」

 応急処置や調薬に使う備品や消耗品は、決して安いものではない。

 先日は、万が一の大怪我に備えて、スチュート蜘蛛の糸を購入させてもらった。傷口を縫い合わせるのに使うもので、糸の表面が滑らかなため皮膚を傷つけにくいのである。店頭で見たときはあまりに高額で手が震えてしまった。

 一緒に買いに行ってくれたトラセアも、金額を聞いたカーディオも、「必要なのだから揃えるのは当然」と言ってくれた。人手も予算もぎりぎりのところ、本当にありがたいことだ。

「こちらこそ。いつも手当てしてくれて、助かってるよ、専任診断魔術師どの」

 いたずらっぽく微笑まれて、サーシャも思わず笑ってしまった。

「誰かの専任になれるとは思ってなかったので、うれしいです」

「ここは辺境だけに小競り合いばかり多くて、兵士たちの消耗がちょっと多くてね。でも予算も心許ないから、彼らにまともな装備を配りきることもできない。せめて、ぼろくない装備をもらってる僕が頑張らないといけないんだけど……怪我もなく誰かを守り切るって、難しいね」

 領主がまともな装備をまとって守られているのは普通ではないのだろうか。サーシャには戦のことは分からないけれど、領主が倒れたら味方は崩れてしまうのではないのだろうか、と思ってしまった。

「だからね、後のことを気にしなくていい、って言えるように都度治してもらえるのは、本当に助かってるんだ。ありがとう」

 そうやって庇ってくれる領主だから、きっと兵士たちも頑張るのだろうな、とサーシャは思った。やさしいひとだ、と思った。重篤な怪我はサーシャには治せないのだけれど、きっと部下を守ろうとすることは彼はやめないだろう。

「専任として、任されました。でも、ほどほどでお願いしますよ」

「心掛けよう」

 ふふふ、と笑みがこぼれた。

「ここは、いいところですね」

「そう言ってもらえると、城主としても誇らしいね。僕も含め、肉親の縁が薄いひとたちが多いから、なんか大家族みたいに身を寄せ合って暮らしてるけど。居心地はどうかな?」

「すごく良いですよ。わたしも両親がいなくて、アルテリオ老師が親代わりだったので、家族みたいなつながりに憧れがありましたから。……カーディオ様も、ご家族が少ないんですか?」

「むしろ本当は人数が多いよ。それぞれ、王都で難しい仕事をしているんだ。人が居すぎると厄介ごとが増えるから、僕は本家から距離を置いている……ようなものかな。基本的に家族に心配はないんだけど、僕を育ててくれた祖母がずっと病で療養してるから、それだけはいつも気になってる」

「ご病気、長いんですか?」

 家族の事情はそれぞれで、まして貴族の家族事情ともなれば、サーシャに伺い知れることではない。けれど病気で療養中の家族を案じているとなれば、話は別だ。

「結構ね。難しい病気みたいだよ」

「そうでしたか。心配ですね……」

 難病と言われる病名のいくつかがサーシャの頭をかすめる。王都で貴族につく治療魔術師はたくさんいるから、きっと領主のお祖母様にも優秀な治療魔術師がついているだろう。

「もしかしたら、うちの優秀な専任診断魔術師どのを派遣して、一度お願いしてみるかもしれないよ?」

 場の空気を和ますかのように、カーディオが微笑んだが、申し訳ないな、とサーシャは首を横に振った。

「わたしに診断魔術と応急処置が出来たとしても、治療魔術には遠く及びません。難病ならなおさら、私にできることはなさそうです」

「ええと……うん、そっか。そうなんだ」

 難しいね、とカーディオが苦笑する。せっかく空気を変えようとしてくれたのにな、とサーシャは申し訳なく思い、やがてにやりと笑った。

「ここでは領主様のお怪我も多いので、王都まで派遣されるほどのお時間が空かないかと」

 カーディオはぽかんとして、やがてはじけるように笑った。


 翌日、サーシャはリガメントと一緒に城下町にいた。予備の少ない消耗品や備品を買い出しに来ている。荷馬車を出して運ぶのをリガメントに手伝ってもらう代わりに、サーシャは屋外で行軍時にできる応急処置をリガメントに教えることになっている。何かと怪我の多いカーディオに対して取れる対策を増やしておきたい、とのリガメントの希望だった。

「包帯、目の粗いペクラ布、保存用の大瓶、……全部買えたようだな」

「ですね。ありがとうございます」

「気にするな。明日の昼食後から、応急処置をよろしく頼む」

「任されました。カーディオ様、怪我の後に発熱することがかなり多いみたいなので、発熱を軽く出来る処置を中心に内容を厳選しておきますね」

 リガメントは騎士団長である。騎士団と言っても名ばかりで、常任の騎士や兵士は少ないそうだ。有事の際は領民から義勇兵を募る、まるで自警団のような組織に過ぎないという。それでも隣国との小競り合いや、国境付近に出没する盗賊退治など、定期的に参加してくれる領民は少なくないのでどうにかはなっている、と聞いた。

 なお、リガメントは王都出身の貴族だそうだ。カーディオの右腕として、ときに貴族としての職務を肩代わりし、ときに名代として領外に赴いたりすることもあるようだ。

 強面と迫力から当初サーシャは彼をかなり恐ろしく思っていたが、言葉や仕草が朴訥としているだけで、実際はかなり気さくで優しい人物だった。サーシャのことも、平民だ新参だと見下すこともなく、カーディオの怪我に応急処置を行える人間として尊重してくれていた。

 買い出しの帰りは荷馬車に乗って城に向かう。リガメントは御者台、サーシャは荷台に座っている。サーシャも御者台にどうかと誘われたが、なんとなく目線が高いのが怖くて遠慮しておいた。荷台も十分高いが、幌で覆われるだけ安心感がある。それから、幌の中空を通りぬける夕方の風も心地よくて気に入った。

「そういえば、そよ風病について、何か他に分かったことはないか?」

「すみません、今のところは何も」

 サーシャは最近、自分がどんどん我が儘になったような気がする。ついこの前までは、身の安全をはかれて、治療に関わって生きていければそれだけで十分だと思っていた。

 でも今は、治療魔術師の身分も欲しいし、治療魔術を堂々と使う権利も欲しい。どんな怪我でも病気でも問題なく治せる能力が欲しい。いっそ、アルテリオ老師のような最高位の治療魔術を使いこなせるようになりたかった。

「……そうか」

「すみません」

「気にするな。また、わかったときで構わない」

「……昔、そよ風病の治療法を討論するために、たくさんの治療魔術師がアルテリオ老師の元を訪ねていらっしゃいました。きっとみなさん、今も研究を続けていらっしゃると思うんです」

 だから、二年が経つ今、きっと何か進展があるはずだ、とサーシャは信じたい。

 思い返せば、来客たちはみなアルテリオ老師と似た年代の人々だった。きっと、かつてアルテリオ老師が就いていたような立派な身分の治療魔術師ではないだろうか。アルテリオ老師が親しく接していた彼らは、きっと諦めることなくそよ風病治療法の研究を続けているような気がする。

「残念ながら、画期的な治療法が見つかったという情報は掴んでいない。……だが、少しでも進展があるといいな」

「ええ」

 リガメントの言葉に少しだけ励まされながら、サーシャはふと疑問を覚えた。リガメントがこれほどにそよ風病を気に掛けるのはなぜだろう。

「……もしかして、カーディオ様のお祖母様が、そよ風病なんでしょうか?」

 問うた途端、リガメントは御者台から一度だけちらとサーシャを振り返った。

「君は勘がいいな。その通りだ。……カーディオ様から、なにか聞いたのか?」

「お祖母様が難病で長年療養なさっている、と昨日お聞きしました。カーディオ様がしばらくお祖母様の元で育てられていたことも」

 事実が繋がってしまえば、カーディオが祖母を心配していることは想像に難くない。

「そうだったか。カーディオ様のお祖母様なんだが、この数ヶ月全身の痛みがひどく、寝たきりに近い状況と聞いている」

 そよ風病の終末期、患者は激しい痛みのあまり寝たきりになり、そのまま衰弱死に至る。カーディオの祖母が寝たきりに近いのであれば、非常に病状が重いと言えた。

「なんとか、治してさしあげたいですね。カーディオ様もご心配でしょう」

「ああ。治療魔術師が数人がかりでずっと付いているが、身体を起こせる程度にお痛みを緩和するので精一杯だそうだ」

「そうだったんですか……」

 だから辺境城に治療魔術師がいないのか、とサーシャは理解できた。

 カーディオの家族は王都にいると聞いた。であれば家でお抱えの治療魔術師が居るだろう。しかしカーディオの祖母の治療のため治療魔術師を動かすことができない。まして、カーディオは祖母に育てられた。祖母の快復を願い、治療魔術師なしで辺境城を運営しているのだろう。

(ああ、だからカーディオ様は自分の怪我がいちばん重くなるように、いつも誰かを庇おうとしているんだ)

 領主としてのカーディオは、辺境城に治療魔術師を置き、城の者や領民を健康に保ちたいと思っているのだろう、だからサーシャの診断魔術が歓迎された。しかし祖母の快復を願うカーディオの我が儘で、辺境城に治療魔術師を連れてくることができない。だからせめて、領主自身が代わりに怪我を負うことで、領民だけでも守ろうとしているのではないか。

 サーシャはカーディオの有り様が心配になった。彼のやりたいことをサーシャの手当てで手伝うだけでなく、そもそもそんな怪我をしなくてもいいようにしてあげたい、カーディオの力になりたい、と強く思った。

 荷馬車の前方に辺境城が大きく見えた。もうすぐ城に着くだろう。あの城の中で、カーディオは今日も朗らかに振る舞っている。笑顔の裏に多くの覚悟を隠して生きているのだ。


 なにか、サーシャにできることはないだろうか。カーディオの心配や負担を少しでも軽くできないだろうか。買った荷物をリガメントと治療室に運びながら、サーシャはずっと考えていた。

 治療室の簡易寝台にはカーディオが所在なげに座っていて、「おかえり」と手をひらひらさせて笑った。

「……びっくりしました。本日のお怪我はどちらを?」

「今日は健康体だよ。夕食までちょっと暇になったから遊びに来たんだ。最初は厨房に遊びに行ったんだけど、夕食前の厨房はほんとに戦場だね。邪魔だって追い出されちゃった」

 へらっと笑うカーディオの笑顔が少しだけ、サーシャには痛々しく見えた。

 サーシャには何ができるだろう。どんな役に立てるだろう。

 今こそ師匠の全ての教えがこの手にあればいいのに。もし師匠に良い案がなくても、師匠なら何を考えてどのように行動するのか、聞いてみたかった。

 師匠。そうだ、ノートがあった。サーシャはリガメントを振り向く。

「リガメントさん、そよ風病についてまだありました。思い出しました」

「どうした」

「ノートです、アルテリオ老師が残したノートがありました」

「落ち着け。真面目に聞くから、ゆっくりと話せ」

 いつにない勢いのサーシャに、リガメントが困惑する。ゆっくり、と言われてサーシャは深呼吸をした。ゆっくりを心掛けて、あらためて話し始めた。

「アルテリオ老師は長年そよ風病について研究しておられました。その研究内容を綴り、まとめたノートがあるんです。私は中身を読んだことがないので、詳細は分かりません。でも、それがあればカーディオ様のお祖母様を助けられるかもしれない。二年前まで、たくさんの治療魔術師たちが、そよ風病についてアルテリオ老師のもとを訪れていました。それはつまり、アルテリオ老師の元にそよ風病について英知が結集していたと思うんです。師匠が遺したノートの中に、きっと治療法に繋がるヒントがあるはずなんです。わたしはノートを探したい。カーディオ様、リガメントさん、手伝ってもらえませんか」

 リガメントが「いいだろう」と頷く。その横でカーディオは、答えることもできずぽかんと呆けていた。

「現在、ノートはどこにある?」

 リガメントの問いに、サーシャは不安げに答えた。

「師匠の実子であるバームフォー・アルテリオ様が継がれました。もし廃棄されていなければ、まだ彼のもとにあるかもしれません。……マスマロウの街にいたころ彼がノートを開く様子はなかったので、ノートの存在にそもそも気付いていない可能性もあります。ただ、……三ヶ月前から、どなたか貴族の方に雇われているようなので、現在の状況は分かりません」

「君が行き倒れていた、あの頃か」

「はい」

 リガメントは腕を組んで眉間に皺を寄せた。

「この国の王太后陛下も、長年そよ風病を患っておられる。一年ほど前から病状の悪化が始まった。これを知った一部の貴族が治療魔術師をかき集め、そよ風病の治療法を探させている。最近は形振(なりふ)り構わず市井からも治療魔術師を集めているようだ。バームフォー治療魔術師も、おそらくこの流れで雇われたと考えられる」

 それは、サーシャの全く知り得ない貴族の事情だった。バームフォーがそこまで詳しく知っていたかは分からない。けれど、マスマロウの街の治療院を急に閉じた理由は納得できた。

「知りませんでした……」

「きな臭い貴族にはいくつか心当たりがある。ブリューズ侯爵、アブレイス伯爵、コロンテスティン伯爵……あたりがそうか。そよ風病の治療法を探し出して王太后陛下を治療し、王族に恩を売りたい奴らだ。君の言うノートも、そういった貴族の城にある可能性が高そうだ」

 リガメントは眉間に皺を深くした。

「せめて、バームフォー治療魔術師がどの貴族に雇われたか、分かればいいのだが」

 いつにない真剣な顔でずっと話を聞いていたカーディオが、おもむろにサーシャに尋ねた。

「どんな些細なことでもいいんだ。サーシャ、何か、覚えてることはないかい?」

 サーシャには貴族を特定する方法は分からない。でも、バームフォーが貴族に雇われるきっかけなら覚えている。

「治療院に、貴族から手紙が届きました。すごく豪華な手紙だったのを覚えています。綺麗な緑青色の封蝋がされていて」

「緑青色?」

「それは、こんな封蝋じゃなかった?」

 カーディオが右手を開いて掌を上に向ける。口元で短く呪文を詠唱し、何かの魔術を行使した。やがて、どこかから集まった白い煙が寄り集まって、緑青色の封蝋の形を取った。中央には、貴族の紋章らしき型押しが再現されている。馬のシルエットを摸した紋章だった。

「それ!そんな色と紋章でした」

 サーシャが目を見開いて同意した。説明が拙くて伝えきれず申し訳ないとサーシャは思っていたので、カーディオの魔術ではっきり状況がわかり、非常にありがたかった。リガメントが満足そうに頷く。

「コロンテスティン伯爵か。条件に合致するな」

「マスマロウの街、サーシャが逃げてきた足取り、だいたい方角も合ってるね」

 サーシャに地理は全くわからないが、カーディオとリガメントは納得した様子だった。カーディオは右手を今度は下に向ける。緑青色の封蝋が白い煙に戻って消え、続いてカーディオの手の下に白い煙で地図が作られる。

「この赤い建物が辺境城。今僕らがいる場所だね。この太い線が国境線で、ここまでがメルクリア王国の領土にあたる。辺境領はメルクリアの北の端にあるんだ。それで、こっちの黄色い点が君のいたマスマロウの街。マスマロウの街は辺境領の隣、フラクテアス子爵領の中にある。マスマロウは街道沿いの少し大きな街だ。街道はここの黄色い線。王都に向かって西に延びているね」

 サーシャは目を丸くする。地図魔術なんて魔術があるかも知らないけれど、どうやらカーディオはそんな便利な魔術を使いこなすらしい。見た目に分かりやすく示されて、初めて地図を見たサーシャでもどうにか理解はできそうだった。

「ここにある黒い点が、サーシャが行き倒れたあたりの場所だよ。きっと街道の途中から道を外れて、ここまで逃げてきたんだね」

 それでカーディオに拾われたサーシャは、辺境城に来た。あの時は道も分からず必死で逃げたけれど、その足取りをいま地図魔術で見ると奇跡のようだとサーシャは思った。

「バームフォー治療魔術師は、そのまま街道を進んだだろうね。ここから西が、コロンテスティン伯爵領だ。街道沿いの緑青色の点、フェルブスの街に伯爵が住む城がある。ここまでをまとめると、君の探しているノートは、たぶんフェルブス城にある可能性が高そうだ」

「ここに……」

 サーシャは息をのんで、魔術でつくられた緑青色の点をじっと見つめた。緑青色の点が乗った領地は灰色をしていて、それが理由もないのにとても不吉に見えた。辺境領も、マスマロウの街があるあたりも、白く見えている。

「サーシャにはあまり思い出したくない話でごめんね。でも、レクトゥムに売り渡される話がついていたなら当然の流れだから、もっと早い段階で確信してもよかったな」

「レクトゥムだと?あんなところに行かされるところだったのか」

 リガメントが額に手を当て嘆息する。

「レクトゥムはコロンテスティン伯爵の弟だ。気まぐれに平民女性を攫って好き放題していることで有名なんだ。伯爵が庇っていて証拠がなく、罪を追及できていない」

「たまに辺境領の領民も被害に遭うから警戒してたんだ。サーシャは危ないところだったね。本当に、助けられてよかった」

 カーディオの笑顔にサーシャも少しだけ笑う。でも、そんな危険な城に師匠のノートがあるのだ。そよ風病の病人を助けられて、カーディオも救うことができる大切なノートが。

(どうやって手に入れたらいいのかな)

「僕たちで何とかできないか考えてみよう。サーシャは辺境城で待っていて」

「でも」

「危険な城にわざわざ足を踏み入れることもないだろう」

 たしかに、ノートを手に入れることにおいてサーシャは足手まといだった。

(また、役立たずだ、わたし)

 サーシャは肩を落とした。


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