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第98話 停戦交渉

 その男の声が聞こえたのは――それは、真正面から聞こえた。いるはずのないところからのそれにシャルルが振り向けば、暗がりの中にその男はいた。


 ボロボロの外套に顔を覆うマスク。


 正体不明の亡霊にすら見えるその風貌は、そうであるからこそ誰なのかはっきりさせる。


「ダイモン・オブ・ソクラテス……!」


 警備団長たちが銃を構えた、その動きを、シャルルは手で制した。


「⁉ しかし、」


「よく見ろ、彼は丸腰。戦いに来たわけではないし、もしそうならとっくに私たちは死んでいる――そうだろう?」


「……ああ」ダイモンは、低い声で言った。「そうだ」


 ……どこか、その様子が変だとシャルルは思った。かつてホテルで会ったときの彼は、もっと自信というか、ある種の全能感、あるいはカリスマ性に満ちていた。だが今目の前にいる人間はどこか傷ついているように力がない、そんな気がした。


「単刀直入に言う」その感覚は、彼の次の言葉に吹き飛ばされてしまう程度の弱いものなのだが。「降伏したまえ、シャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツ。君たちに勝ち目はない」


「戯けたことを」警備団長が吠えた。「どのような勝算を有しているのか知らないが、ここを落とすことなどできはしない。第一、銃声はまだ遠くだ。君は井の中の蛙、そして袋の鼠だ」


「どうかな? 確かに私個人は丸腰の男に過ぎない。だがそんな人間がどうやってここまで辿り着いたと思う? 何の妨害も受けずに?」


「それは……まさか」


「そのまさかだ――内通者を用意していたのだ。それも単独ではなく、複数まとまって、だ。こうなることを見越して布石を打っておいてよかった」


「馬鹿な、思想調査は万全だったはずだ。誰が裏切るものかッ?」


「あんなもの単なるペーパーテストに過ぎない。正答が分かっていれば嘘を吐くのはそう難しいことではない」ダイモンは余裕たっぷりといった様子であった。「さて警備団長殿? そんなアナタでもこれが致命的な状況なのは理解できたでしょう。私が一つ合図をすれば抜け道から我が方の手勢が流れ込んでここを陥落させることができる。それを防ぐことのできる戦力は最早アナタ方の側にはない」


「馬鹿を言え、どこかの事務所が必ず反撃に出て貴様らを撃退する! 時間は我々の味方だ!」


「一つ付け加えておけば、我々は既にスガモを陥落させた。そしてそこにあった我々の同志を解放した――それこそ、時間の問題だ。いつになるか分からない君たちといつになるか分かっている我々の競争、一体どちらが勝つのだろうな?」


 警備団長は、隠そうとしてはいたが、顔を青くしていた。部下たちも銃を構えたまま狼狽している。構えは知っていても撃つという動作を暫時忘れてしまったようだ。撃ったところで勝てるわけではない。総指揮者であろう彼がここにいて問題ないような事態になってしまっているということは、殺したところで事態は改善せず、むしろ悪くなる。その中で、シャルルだけがダイモンに視線を向けていた。


「ダイモン」鋭く。「君は脅しなどという手段を用いないと思っていた。このような方向での革命も起こさないと思っていたよ。思い違いだったのかな?」


「結果的には……そうだな。君が一方的に僕のことを分かった気になっていただけだ」


「どうしてだ? 少なくとも僕は君の理想を、立場こそ違っても分かっていたつもりだった。それなのに君は……」


「裏切ったのはそちらが先だ。」エーコを奪わなければ。「戒厳令を出さなければ、シンジュク事変を起こさなければこのような行為に出る必要はなかった」


「アレは! ……アレは、不幸な事故だった。戒厳令だって、形だけでもやってみせなければ、誰も安心できないから」


「なら君は、シンジュクで死んだ人々にも事故だったというのか。逮捕され抑留された人たちにも仕方ないことだったと言ってみせるのかッ?」そして僕に、エーコは自分のものだと見せつけるのか?「……いつからそんな傲慢な人間になった、ええッ?」


 そこまで言って、ナルシスは幾分か冷静さを取り戻した。それとも自分が思わず吐き出したものが、あまりにもどす黒いことに驚いたというべきか。しかもそれは片鱗でしかなくて、本当に思っていることをどうにか飲み込んでその醜悪ぶりなのだ。その事実にゾッとしたのである。


 だが、そんなことを言っている場合ではない。現にスガモは、正門を破っただけでまだ落ちたとは言えない――全てはハッタリである。抜け道があるなどというのも嘘。当然「異能」を使ったに過ぎない。情報を遮断し、そうだと誤認させ、降伏を迫り、戦術的ではなく戦略的な勝利を得る。それが唯一の勝ち筋である。


 頭では分かっている。


 だが、そうできない。


 シャルルのそのときの表情を見てしまえば――。


「――――」


 それは、ほとんど泣きそうであった。


 それは、全く論破された双眸だった。


 それは、ただただ崩れ落ちていった。


 自分の罪を自覚してしまった顔。そしてそうだと今の今まで見て見ぬふりをしてきた罪悪感に押し潰される顔。更にはそれどころかそうであるのを無意識に踏みにじってしまったという後悔に苛まれる顔。


 それに直面して、ナルシスは自分の感情というものが、単なる嫉妬から来たそれを毒でできた正当性のオブラートに包んだだけに過ぎないと理解した。真っ当なことを言っているつもりになることで、自分の本当の醜さから目を背けたのだ。そう分かってしまった一方で、それは事実だと思う心は消えてくれなかった。理性から来ている癖に、妙に粘り強く抵抗した。


「ダイモン――」震える声。どうにか吐き出すようにシャルルは言う。「そうだね、僕は、罪人だ。だから君たちは革命で僕を打ち倒そうというのだろう。それは――正しいことだ」


 そんなことはない。君にだって正しさはあった。


 その言葉は出てこない。自分の中にある論理的な正しさが邪魔をする。折角相手が条件を飲みそうなのに、それを邪魔するようなことを言ってどうする?


「…………」


「一つだけ確認したい。降参したならば、僕の部下の――ひいては国民団結局で戦っている全ての職員の安全は確保してくれるのだろうね? 確かに君は武力革命を起こした。しかしこうして交渉に来たということは、君の中には以前のような平和的解決を望む心も同居しているに違いない。どうか、聞き入れてほしい」


 シャルルは、ゆっくりと膝を折った。それは、多くの命を救おうとする優しさには違いない。だがそれは以前とは違う。今の彼の根底にあるのは卑屈さだとナルシスには感じられた。ほら、君の勝ちだ。君は僕を言い負かした。以上だ――そう言われたような気がした。


「ああ」これ以上は、きっともう、何を言っても無駄なのだ。「保証する。僕の、ダイモンの名に懸けて」


 ナルシスは相手の発したありがとうという言葉も聞きはしなかった。いつもより強く引っ張ったらほつれていた縫い目が解けてしまったぬいぐるみをそうするみたいに、彼は動揺のままにくるりと踵を返して、シャルルを目の届かないところに追いやった。頭を床に擦り付けて感謝の言葉を繰り返すシャルルに、周りの人間が心配するように押しかけるのも、見たくなかった。そこにエーコもいるから。


(だが、これでいいんだ)ナルシスは、そのまま歩き出す。(目的は果たした。そこから先のことは革命には関係ない私情だ。切り捨てなければならない――)


 と同時に、足を止める。今、自分は、私情は切り捨てるべきと思ったのか?


 私情から始まった革命を、か?


 そのとき、ナルシスは自分の覚悟というものが、いかに卑怯なものかようやく悟った。そして、それからも逃げるように、足早に立ち去った。


 そうしなければ今度は自分が壊れてしまうような気がした、というのは、それこそ卑劣な言い訳なのだが。

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