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第97話 くちづけ

 シャルルが目覚めたそのとき違和感を覚えたのは、その天井が久方ぶりに無機質な庁舎の仮眠室のそれではなかったからというだけではない。


 それでは彼を目覚めさせた出来事についての説明がつかない――彼はようやく帰り着いたオブ・プレジデント邸のベッドに入って数時間もしない内にけたたましい足音を聞いたのだ。何か、火急の用件が起きたに違いない。


「シャルル様!」それを裏付けるように、ドアは音を立てて開いた。「お眠りのところ失礼いたします!」


 シャルルは、そうなると予期できていただろうに自分が激しく苛立ったのに内心驚いていた。かつての自分なら、決してそうはならなかっただろう。苛立つ、という行為そのものに彼は慣れていなかった。


「…………」胸の中で揺らめくそれをどうにかなだめてから、彼は言った。「どうかしたのですか?」


「暴動です! 至急、庁舎へご移動願いたい! 緊急なのです!」


 その伝令はベッドの上から動けないでいるシャルルの下へほとんど飛び跳ねてきた。その振動はシャルルの頭の中で暴れる頭痛の虫を鋭く刺激して彼の顔を顰めさせたが、シャルルはどうにか平静を装うことには成功した。


「落ち着いてください。暴動なら、最近はしょっちゅうでしょう……アナタ方の望んだ戒厳令のせいでね。焦っても何も得られないとまだ気づかないのですか?」


 一方で、彼はつい口を衝いた当て擦りというものを酷く醜く感じていた――それを言った自分自身も、恐ろしく堕落した存在に思えた。このようなことを言ってはならぬという内面化された規範が、彼の内側から彼を刺した。


「それは……失礼いたしました。」そんな痛みもこの目の前の男は知らないのだろう、と疑ってしまってはならないのに。「しかしシャルル様。今回は規模が異なります。自由恋愛主義者はカントウ一円で一斉蜂起に打って出たものと思われます」


「思われます、というのは?」


「既に多くの国民団結局事務所と連絡が取れていません。原因はまだ分かっていませんが……」


 そこで、シャルルは飛び降りるようにしてベッドから立ち上がった。そうしながら、昨日何とか着替えたばかりに思える寝間着を床に脱ぎ捨てていく。伝令に来たこの部下はその様子に慌てたようだったが、迷った末にその零れ落ちていく服たちを拾い上げることにした。「そんなことを、しなくてもいい!」とシャルルは苛立ってしまって、それがそのまま語気に出てしまって、その覆水が盆に戻らないことに苦しめられた。


「……ということは、近隣の国民団結局事務所とも連絡が取れていないということですね?」片手に持った国民携帯端末が圏外表示になっていることを確かめながら、シャルルはその苦しみから逃れようとした。「伝令は出したのですか?」


「出しましたが、まだ帰りません。途中で渋滞か何かに――」


 ――そのとき、シャルルはぴくと動きを止めた。何かが、耳朶を打った。そんな感覚に暫時は着かけたブラウスのボタンを留める動作を止めて、窓の方をゆっくり向いた。


「……この音は?」


「は?」


「聞こえないわけがないでしょう。この破裂音が!」シャルルは今度は弾かれたように反転して、ベッドを乗り越えてまで窓際へ行った。「見なさい、あの煙を!」


 男は困惑しているようだった。「は、はあ、」などと返事はしていたが、それが何故なのかまでは分かりかねるようだった。場合によっては、煙であるかどうかすら判然としない様子ですらある。とにかく目の前の光景があるはずはないという考えが先行して、現実を受け入れようとはしなかった。


「これが暴動なものか!」シャルルは、窓を開けて男の眼前にそれを突きつけた。「銃声が聞こえているのですよ⁉ ここまで――これは革命だ。単なる反動程度のものではない……!」


「シャルル様、そのような大それたことを仰るものではありません。革命という言葉はもっと慎重に使われるべきで……」


「この期に及んで、まだ言葉の使い方などを問うか⁉ 伝令が帰ってこないのも、通信が途絶したのも、全ては自由恋愛主義者がこの行政区を――ひいては『共和国』そのものを転覆しようとしているから起きていることです! 原因不明などと言ってみせるのは呑気に過ぎる!」


 シャルルはそう言いながら、窓から離れる。そうしながらブラウスの前を閉め、クローゼットから手近なズボンをひったくった。男はまだ脱ぎ捨てた服を抱えたままおろおろと立ち尽くしている。それが尚更シャルルを苛立たせた。


「何をしているのです? そんなものは置いて、自分の職責を果たしたらどうなんです⁉」


「は、はあ、しかし……」


「なら命令します。今すぐ警備団長に連絡を取ってください。ここを守備する者と伝令に行く者とで人員を二分し、周辺の国民団結局事務所との連絡を回復させなさい。まずここの守備を固め、それから事態を収拾します」


「シャルル様、庁舎の方が安全です! 移動するべきです!」


「この外の状況のどこが安全だと? ……移動すれば彼らに捕まることになる。アナタが放った伝令のように。たとえ多少の護衛がいたとしても、多少余命が長くなるだけです!」


「し、しかし……!」


「いいから早くなさい! これ以上私の邪魔をするならッ……!」


 最後には、シャルルは怒鳴りつけていた。男は完全に萎縮したようで、ほとんど悲鳴を上げて部屋から出て行った。それを見てシャルルは自分が何をしでかしたのか再び理解することができた――あるいは、してしまった。着替える手を止め、深く沈み込む。


(かつて存在したキリスト教という思想では憤怒というのは罪だとされていたそうだ)シャルルは、浅く息をした。(それなら、自分はこれ以上ない大罪人だ――怒りに身を任せたのみならず、自分の立場を笠に着て怒鳴りつけるなんて)


 最近、自分の感情が少しも制御できない瞬間が訪れるようになっていた。昔なら、たとえどのような無礼なことを言われようとあるいは不躾な行いをされようと、精々眉を顰める程度で済ませることができたというのに、今やそれがどうにも腹持ちならない行いに思えてならない。激情が巻き起こるようになってしまったし、それに慣れていないから制御する術も知らないのだ。


(大体、こんなことに、一体何の意味がある? 自由恋愛主義者を苛め抜いて、何の結果が得られるというのだ?)


 この主席行政官という何一つ自由でない地位に着いて、分かったことが一つある。


 それは、思想というものを根絶することは本質的に不可能であり、弾圧することは決してその役には立たないということである。


 理論上は、思想を持つ全ての人間を処罰することでそれを根絶することができるだろうが、それはある特定の生物を世界中から一瞬で全て駆除するというようなもので、まるで現実的でない。そして生き残ったその生物はより強化されて勢力を盛り返すこともある。


 それに、思想は再生産される。


 生物と違い、独りでに生まれ出でることもあるのだ――気づくのだ。目覚めると言ってもいい。ちょっとした出来事、ある出会い。そういったもので自分は自由恋愛主義者だったということになる。


 あるいは――それは感染する。


 「市民」に――それから国民団結局職員に。


 そうして水面下に入った自由恋愛主義という見えない生命体は、決して見ることも駆除することもできない。いつの間にか身につけられた鋭い爪が、首筋に突き付けられるまで、誰も存在に気づかないことだってある。


 シャルルの父、ルイのように。


(――――)


 何故、彼は死なねばならなかったのか。思えば、政策はともかく彼個人は自由恋愛主義に同情的であった。「大反動」では自らも危険に晒されたというのに、それでも一定の理解は示していた。無論、それが政策に出ることはなかった、というのもシャルルが味わったような苦難と困難に見舞われたに違いないのだ。それに、民意がそれを許すまい。


 多くの血が流されている。


 自由の名の下に。


(分かっている)シャルルはゆっくり立ち上がる。(事実、このような騒擾が許されていいはずもない。現に、今この瞬間にも誰かが死んでいるのだ。この銃声一つ一つに、誰かの生命がかかっている。そんなことがあっていいはずはない)


 それから、深く息を吸った――自分は、この極東列島行政区の主席行政官だ。どのような考えがあれ、その職責を放棄することはできない。その義務を果たさなければ、自由恋愛主義者の唱える主張――即ち現政権の腐敗というそれ――に説得力を与えてしまう。


 それだけではない。


 それだけでは、ないのだ。


 だからシャルルはブラウスのボタンを閉め終わると、ズボンを履きジャケットに袖を通した。もう一度だけ深呼吸。それからドアを開けた。


「シャルル様!」


「状況は?」すぐそこにいた警備団長と目を合わせてから歩き出す。「思わしくはないのでしょう?」


「は。流れ着いた敗残職員からの情報では、少なくとも近隣事務所四か所の内一か所が陥落したものと思われます。残りにしても斥候が伝えることには既に事務所内部へ突入されている模様。脱出してこちらを救援できるかは不透明です」


「救援、ということは既に私たちは包囲されているということでしょうか?」


「残念ながら」


 斥候が行き帰りできるということはその輪は完全に閉じたものではないのだろうが――だがそれは硬化した動脈と同じだ。早晩、塞がれてしまうだろう。そうして出口をなくした自分たちは、塀の中に押し込められ、最後には邸宅を枕に討ち死にだ――そんな妄想が頭を過って、シャルルは震えた。


「……シャルル様?」


 それを押し殺そうとした顔が不自然だったのだろう、警備団長は首を心配そうに傾げた。が、シャルルはそれに笑ってみせた、つもりではあった。


「いえ、大丈夫――それより、ここでの籠城はどうでしょう? ここが落ちたとなれば、いよいよ指揮が取り辛くなります。それに、各地の事務所にその報が伝われば彼らは勝負がついたと勘違いするかもしれない――可能ですか?」


「恐れながら、脱出より難しいかと思われます。数が多いから分かりにくいですがこれが自由恋愛主義勢力の全力とは思えない。あくまでこの状況は奥の手を隠すためのカモフラージュであると感じます」


「奥の手――例えば?」


「私なら、国民団結局が動けなくなっている隙にここを主力で直撃します。それでカタがつく」


「…………」


 シャルルは、顎に手をやって立ち止まった。脱出するべきかどうか、考えねばならない。もし警備団長の推測が正しかった場合、ここに留まれば待ち受けるのは死のみだろう。歴史上、救援の見込みのない籠城戦が成立した試しはない。仮に成立し得るとすれば、それは相手方に何らかのミスがあった場合か、状況が改善し味方が助けに来る場合だ――どちらも、望み薄であろう。


 一方でここを捨てることは、単なる個人的理由以外の忌避感がある――先述の通り、それは統制にも士気にも関わる話だ。逃げるは恥だが役に立つとはいうが、恥は恥でありそれは後ろ指を指されることに繋がる。仮にここを切り抜けてもその先が続かない。


 しかし、だ。


「――シャルル様!」その声に、彼は意識を引き戻される。「これは、一体ッ?」


 見ると、正面に金色の髪が揺れていた。それと青い瞳は消された照明の中でも目立つ。エーコが、侍女と共に彼の下へ飛び出してきたのだ。それを、シャルルは抱き留めた。しかしその胸の内には、感じるべき愛しさを打ち消すほどの怒りがあった。


「……何故、連れて来たのか⁉」それが、口を衝いて侍女を責めた。「安全な場所にお連れしろ、今すぐに!」


「し、しかし安全な場所などどこにも――!」


「そんなものは……!」


 自分で探せ、と言いそうになって、シャルルはエーコが怯えたように「痛い」と微かに言ったことに気がついた。あるいは、「怖い」と言ったのかもしれない。それはあまりに小さい声だったから、判然としなかった。いずれにしても、思わず力を込めすぎたのだ。また、怒りに身を任せるところだった――しかもその結果愛する人を傷つけるところだった。


「……何故、ここに来たんだ?」シャルルは、腕の力を緩めながら、言った。「部屋でじっとしていてほしい。僕はしばらく手が空かなくなる」


「シャルル様。でも、私は心配で……」


「確かに厳しい状況だ。でもどうにかしてみせる」


「そうではなくて、」エーコは首を横に振る。「私が心配なのは、アナタです」


 シャルルはその意図を理解できていなかった。瞬きを数回して――エーコはその隙間に言葉を差し挟んだ。


「私には、シャルル様が消えてしまうように感じられるんです。傍にいてほしくて堪らないんですよ。一人になってほしくない……」


「それは――寂しい思いをさせてしまって、」


「だから、そういうことではなく! ……私にアナタが必要なだけではなくて、アナタに私が必要だと感じるんです」


「必要……?」


「確かに、この状況では寝る余裕がないのも分かります。ちゃんと食べられないのも知っています。学校だって……でも、それをアナタは一人で抱え込んでしまっている。そうして背負ったものに押し潰されようとしている、そう見えるんです」


「でも、これは僕の責務だ。君に背負わせる訳にはいかない」


「なら、ここで死ぬこともですかッ?」


 死ぬ?


 シャルルは、その単語がナイフのように煌めいたことに驚いていた。それは彼の中に心当たりがあったということだ、少なからず。だがそんなこと、思いもよらぬことだった。


「何を根拠に」だから彼は狼狽した。「そんなこと、」


「私には分かります。」なのに、エーコは断言した。「アナタはきっとありとあらゆる理屈をつけて認めようとしないでしょうけれど、ここに残ろうというのはそういうことでしょう」


「……! どこでそれを」


「やっぱり……籠城なんて、できるはずがない。このお屋敷はそう作られていないでしょう?」


 エーコがそう言ったということは、彼女の方が上手だったということだ。あるいは、予想ができるほどシャルルのそれは分かりやすいものだったということだ。そしてそれは真実であった、のだろう――心のどこかで、華々しい死という解放を願ってしまっていたに違いない。そこに政治的理由や現実的口実を付け加えてどうにかそれらしく繕ってみせたのだ。


 ――自分は、死にたかったのかもしれない。


 ――しかも、エーコを巻き込んでまで。


 そう理解すると、彼にはもう、言葉を作ることなどできなかった。


「…………」


「確かに、シャルル様の言う理屈も理解できます。今全てを投げ出すなんて、できるはずはない。それはいくら何でも無責任でしょう。それは分かっています」


 ――分かった上で、私は言うのです。


 ――無責任なお願いを、します。


「どうか、私と一緒に逃げてはくれませんか? ――私と共に、生きてはくれないのですか? 私の人生をアナタのために使ってはくれませんか? ……お願いです、はいと一言だけ言ってください……」


 それから、エーコは彼の胸に顔を埋めた……シャルルは、それを再び抱き寄せる、だけでは足らないと感じていた。その程度のことでは、彼女の感じた憂いを追いやるには軽い。もっと確実で、決定的なことをしなければならない。それに力は要らない。腕も足も体さえ必要ない。


「エーコさん、」シャルルは、優しい声で言った。「顔を上げて」


「? はい……」


 その戸惑うように動く唇に、シャルルはそっと自分の唇を添えてみせた。閉じた瞼、その向こうでエーコは一度だけ目を見開くと、シャルルと同じように優しくそれに幕を下ろした。外ではパンパンと銃声が鳴っていたし内にも侍女や警備団長、それとその部下がいた。だけれどここに本当にいたのは男と女が一対だけだった。何の音も聞こえず、誰もいない。


 シャルルはずっとそうしていたかった。だが、次第に現実が彼の耳朶に波のように寄せては引いた。彼はそっとエーコとの一体化をどうにか諦めると、エーコの瞳を一度だけ見て、言った。


「――団長」腹を括った。「脱出します。車両の準備を――」


「その必要は」そのときだった。「ない」

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