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第96話 余ったハンガー

「…………」


 イカロスは壊れたドアから自宅の中に入る。やはり事件当日の状態から捜査上必要なものを押収された状態で残されているそこは、しかしだからといって片付けがされているわけでもなかった。全てが無秩序のままにあって、かつての様子など想像もつかない。


 イカロスは土足のまま廊下に足を踏み入れた。いずれにしても、しばらくはここの片づけをして過ごさねばならないようだった。


『……自宅謹慎⁉』イカロスは、そのとき新しい上司に食って掛かった。『何故です⁉』


 「共和国前衛隊」の事務所に戻って早々、彼は上司から呼び出された。無論、彼としてもそのつもりだった。ヒライズミ家は革命に関与している――そしてその邸宅に自分の弟がいる可能性は高い。これはやはり自発的な失踪ではなく誘拐だ、何らかの目的を持った。


『黙れポンペイア二中職!』だが、そう主張しても、聞く耳を持たれなかった。『貴様の言っていることは推測に過ぎん。第一この戒厳令下で任地を離れるなど、職責放棄というものだろう!』


『しかし、これは正当な捜査です! 証拠だってあります! この通り、写真に収めているというのに、何が不満だというのです⁉』


『この証拠が違法に撮られたものだという可能性がある。現に君の話には不自然な空白がある。しかもミヤギで起きた()()()()()()――貴様と思しき人間がそこで目撃されている! 一体何をしたらそのようなことになる⁉』


『それはヒライズミ家の陰謀です! 実際には自分は暗殺者に襲われ、しかも追い回されたのです! それが暴走事件になっているというのは不思議ですが、兎に角ヒライズミ家による隠蔽と策謀が動いていることは確かです!』


『国民団結局が一私企業の手先になるはずはないだろう! ……それに、仮に君の言う通りだったとして、その状態でイワテまで行けたはずはない。何らかの組織、それも違法なそれの援助があったに決まっている。それについてはどう抗弁するつもりか⁉』


 イカロスは「ヨリトモ」については何も言うわけにはいかなかった。彼らは確かに非合法に武装していた。それへの関与が発覚すればイカロスは懲戒の対象になるだろう。少なくとも、何らかの組織に支援されていたことは明かすべきなのだろうが……。


『仮にそうだったとして、何の問題があるのでしょうか? この証拠については公有地から撮影されたものであり、合法であると自分は判断します』


『……否定はしないのか?』


『肯定は致しません。私はある現地組織からの支援は受けました。認められるのはそれだけです』


『それでは調書も作れんだろう……! 第一、たったこれだけの写真で、しかも遠巻きな画像だけで、どうやって関与を証明するというんだ?』


『偶然通りかかったわけではないというのは事実でしょう。これを元に更なる捜査をすることで分かる事実もあるはずです。まずは令状を発行し、家宅捜索をするべきです!』


『そんなものは現地の国民団結局に任せておけばいいだろう!』


『それが信頼できないからこう言っているんです!』


『冗談じゃない』上司は立ち上がった。『もう通達した。貴様は謹慎処分だ。少し頭を冷やしてこい――それに、もう一度現場に行くことで見えてくるものもあるだろう』


『一中職……!』


『さっさと下がれ! 追って沙汰を伝える! ミヤギの国民団結局に引き渡すことも考えねばならないからな!』


 イカロスは、自分が情けなくて仕方なかった。あの後、グレッグも戦死したのだ――結局、潜入したチームはイカロスを残して全滅したのである。


 その死を以て、たった少しの譲歩も引き出せなかったということが、何より悔しい。


 イカロスは、その煮えたぎるような胸の内を引きずって、現場たる自宅の中を歩いて行った。自然と、と言うべきか、その足はナルシスの部屋に向かった。惨憺たる有様なのは相変わらずで、イカロスは現場保全という言葉の便利さに溜息を吐いた。


(だが、そのおかげで当時どのようなことが起きたのか推測を立てることができる)


 イカロスはそこら中に散らばったガラスや鏡の破片を丁寧に見ていった。ガラスはともかく、鏡まで割る必要はなかったのではないか? ……いや、イカロス説ならこれは誘拐事件なのだ、物取り強盗に見せかけた。ありとあらゆるものを破壊していってもおかしくはない……あるいはイカロス自身の必死の抵抗か。いずれにしても不審というほどのことはない。


(そもそも、誘拐だというのに未だに連絡一つないというのはどういうわけだ?)


 連絡手段になりそうな国民携帯端末は破棄されていた――と考えるのが妥当だろう、あそこで通信が途絶えるというのは――とすれば、イカロスへの人質という線は消える。それならばもう一方の説であるところの洗脳のための誘拐という可能性……であろうか?


(それなら確かに、ヒライズミ邸まで行った理由は理解できる。彼らは自由恋愛主義者と関係していた)


 だが、それだけであった。


 それ以上の進展はない。推論と推測だけが虚しく空回りして、カラカラと音を立てている。あるいはキイキイと、またあるいはギシギシと――それが耳障りで、イカロスは不快げに眉を顰めた。「事件は現場で起きている」とはよく言うが、だからといって現場だけを見たのでは何ら進展はない。今やそこから得られた情報から、その先に手を伸ばさなければそれは得られないはずなのだ。


(…………無力だな、これでは)


 イカロスは部屋の中心に立ち尽くす。正面にある壊れたままの窓から風が吹き込む。そのとき、パサリと何かが落ちる音が後ろからした。彼が振り返ったその視線の先には、滑り落ちた余韻で少し揺れている弟の制服があった。元々ハンガーに辛うじて引っかかっていたものが風で今度こそ落っこちたのだろう。イカロスは不意に近づいてそれを手に取る気になった。ナルシスからのメッセージのように感じられた。自分は無事だと言っているような――そんな感傷に浸った。


「…………?」


 しかしその感傷も、そう長くは続かなかった。制服を手に取ってどかす、そのとき彼はクローゼットの中に違和感を覚えたのだ。その奇妙な直感に、イカロスは戸惑いながらも従ってみた――具体的には、散らばった服を一つ一つハンガーに戻していったのだ。畳んでしまったのでは好きな服を好きなときに取れない、とナルシスは拘っていたから、絶対にそうしたはずなのである。


 そして彼の過剰なまでの美意識からすれば、そこに余りは出ないはずだ。余剰などという一種の贅肉を彼は許容しない。服を捨てるかハンガーを捨てるかのいずれかを選択するのが彼の美学だ。そうに違いない。


「……これは」違いない、のだが。「どういうことだ?」


 ハンガーは、余った。


 数にして上下三着分ほど。


 記憶ベースでも、いくつかの見覚えのある服がない――忽然と姿を消している。


 本人と同じくして。


(持ち去ったのか――犯人が? 着替えを見繕って?)


 いや、そんな配慮をするだろうか?


 確かに、犯人グループの目的が協力要請目的の拉致なら、ある程度身の回りの世話は必要になろう。しかしだからといって普段着ている服をそのまま持っていくのは不自然だ。そんなものはどこででも調達できる。これが例のスズナ・ルーヴェスシュタットだったらその図体から買った服のサイズで足がつくことはあろうが、ナルシスは普通のMサイズで事足りる体格である。


(しかし現にここには服がない。誰かが持ち去ったのは間違いないことだ)


 だとすれば、それは誰か――当然、その人物はただの服では嫌だったわけだ。そこら辺の市販品で取り敢えずよしとする考えは持ち合わせなかった。だがサイズに困る体格ということもない。それこそMサイズで問題ないのである。


 そして何より、この場でナルシスの着た服である必要があった――そんな者。


 そんな人間。


 ナルシス・ポンペイアその人以外にあり得るか?


「…………」


 イカロスは、頭の中でパズルのピースが勝手に組み上がっていくのを止められなかった。あの捜査担当職員の言う通り、ナルシスが犯人なら説明はつく。血痕が一つもなく、抵抗の跡も薄い。それは初めからナルシスの狂言であるからだ。恐らくは服が持ち去られていることに気づかせないため、そうしたのだろう。この場合スズナは共犯で、何らかの未知の方法でカメラから逃れたのだ。


「だがナルシスは少なくともサイタマまで行った。そこで携帯端末を捨てている。更にはイワテまで……これはスズナ単独でできる協力行為ではない。それをどう説明する?」


 イカロスは逃れるようにその反論を口にした。しかしそれも彼が答えを握っている。簡単だ。ヒライズミ家の援護があったのだ。彼らが車を用意し、それを乗り継いでいったに違いない。その際に足がつくからと携帯端末を捨てたのだ。そのタイミングがサイタマ着時である必然性は説明できないが、恐らくは検問対策だろう。


「だがしかし」問題は残る。「いつ、どこで、ヒライズミ家などという存在とナルシスは知り合った? ただの一般『市民』でしかないナルシスと上流層のヒライズミ家が、どうしてコネクションを確立できる? 何の繋がりがあろうか?」


 この推理の最大の課題はそこにあった。そもそもただの人間は、ヒライズミ家とコンタクトを取れない。縦しんば取れたところでただの家出に手を貸してくれるほどヒライズミ家も暇ではないだろう。この大きなギャップを、何が埋めるのだろう?


 答えは一つだ。


「ナルシスが、自由恋愛主義者だったとしたら……?」


 思えば、ずっと怪しい行動は取っていた。


 例の同時演説辺りではせわしなく出掛けたり連絡を取っている様子はあったし、現に好意対象者のスズナは逮捕されている。そこにナルシスも関与していたとしたら、その後の動揺や無茶な行動にも説明がつく。


 次にホテルジャックの一件。ナルシスが巻き込まれたのは偶然だと言い切ることもできようが、そこにダイモンが現れたというのもまた偶然だろうか? ……少々出来すぎというものだろう。宿泊客の誰かがダイモンだったに違いないのだ。


 そして、選挙の立候補――それそのものが自由恋愛主義的であるだけでなく、オブ・プレジデント家の令息に手を上げようとしたということもある。更には彼がダイモンではないかというミージュの推測……。


 これら一つ一つは、それ単体では無視し得るほどの小さな偶然やきっかけ。


 しかしそれらが集まり、そして今という時に至れば――


「――あり得ない!」イカロスは立ち上がった。「アイツが自由恋愛主義者だと? 馬鹿も休み休み言え!」


 誰もいない部屋で、イカロスはハンガーにかけ直した服を引きずり降ろして言った。だが実際に、そこには状況証拠が積み重なっている。手に持った服に引っ付いているものの他にハンガーがレールに乗っているのがその一つだ。だが認め難い。この世でただ一人の肉親となってしまった男に、どうしてこのようなことができるというのだ?


 だって、ナルシスだって――自由恋愛主義者に親を殺されているのだぞ?


(だから――あり得ない、これは何かの間違いだ)


 イカロスは、握り締めたままの服をぱさりと床に落とした。それから元あった通りに直していく――乱していく。あっという間に、そこには何の推理も働かなくなった。


「――――」


 だが、イカロスという人間までが、消え去ることはない。


 そして、真実も。

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