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第95話 ポイント・オブ・ノーリターン

「アレは」ガンイチロウは、何事もないかのように言った。「爆竹だと思う」


 その言葉に、ナルシスは少しも怪訝そうな顔を見せないよう努める必要があった。それと同時に、斜め後ろに座るスズナが腰を浮かそうとするのを、視線で制することも必要だった。大方、彼女の言いたいことは分かるのである。だってナルシスも同じことを思っているからだ、ガンイチロウが嘘を吐いていると。


 昨日の音は、そんなものではない。


 銃声を一番聞き慣れているオウカが、そう確信している。


 それ以上の反証がいるだろうか?


「爆竹、」だから彼は、にこやかに言った。「でありますか?」


「ああ、あの山には熊がかなり住んでいてな。たまに明かりか匂いに引き寄せられてここまで降りてくることがある。それを防ぐために爆竹を仕込んでいるんだ。ブービートラップだよ」


「それにしても、随分な数が鳴ったようですが」


「じゃあそれだけ間抜けな熊だったんだろう。運よく近くまで入り込むことはできたが、一個反応したのに釣られて逃げ出したらその先に二個三個とあった――ということだ。実際音が遠ざかっていったはずだ」


「……聞いたのですか?」ナルシスは疑うように視線を向けた。「夜遅くでしたのに」


「警備担当者から聞いた話だ。だから言っただろう、『思う』と。寧ろ君たちがそんな時間に何をしていたのか聞きたいぐらいだ。オウカ・アキツシマは確か、部屋を出たのだったな?」


「ええ。ダイモン様のお部屋にお邪魔しておりました」


 ナルシスは、ちら、とオウカへ視線を向ける。相手がカードを明かさないならそれがどんな小さなことでもこちらも同様にするべきだ、と言いたかったのだが、彼は彼でいたずらな視線をナルシスに向けた。腹案があるということなのだろうか?


「ほう、」ガンイチロウが目線を細める。「何をしに?」


「若い男同士が二人ですることといえば、一つしかないでしょう? 聞くのも野暮と思いますが?」


「…………」ナルシスは待ったをかけるべきか迷った。「…………」


「な、まさか――」


「ええ、そのまさか。であります」


 …………。


 まさか、と言いたいのは、ナルシスの方だった。何か、嫌な予感がする。


 まさか、コイツ?


「そうか、いや、噂には聞いていたが、そうか本当にその心得があったとは……ダイモン、君は男だな。器量に優れた豪傑と呼ぶべきか?」


「それでいてお優しいのです、ダイモン様は。あの細いながらも力強い腕に支えられたとき、私は、もう――」自分自身を抱きかかえるようにしていたオウカは、唐突に立ち上がった。そして自分の尻をぱんとひっぱたいた。「ああ、もう堪りません! 今すぐにでも執り行いましょう!」


「いや、何を⁉」


 ナルシスは、そのときようやく声に出した。まさかこのオウカという人間は、単にあることないこと――ないことないこと言って、どうにか外堀を埋めるどころかそこに城砦を建築しようというのではないだろうか? 砂上の楼閣もいいところだが、しかし夜の闇に紛れて起きたことが礎になっているのならば、それは上手く覆い隠されることだろう――!


「ちょっと待てオウカ・アキツシマ!」思わず飛び退るように、ナルシスも立ち上がった。「君ちょっとおかしいぞ! 僕と君には昨日何もなかった。そうだろう⁉」


「あの寒空の下で起きたアツい出来事をお忘れになったと⁉ それとも私とは一夜の間柄に過ぎなかったというのですか⁉」


「それはいくら何でも酷いんじゃないか、ダイモン? 彼はこんなにも君を求めているんだぞ?」


「ガンイチロウ様には黙っていただく。これは真っ赤な捏造で……!」


「いいえ、真っ白な真実です!」


「噓八百だろうが⁉ いいから今すぐやめろ!」


「やめません、だって私とアナタは――」オウカは、そのときずばりと言った。「スモウを取っていたんですから!」


 ……。


 …………。


 ………………。


「……………………」ナルシスは、言った。「は?」


「もうお忘れになったのですか? 高ぶりが抑えられなくなった私は、アナタ様のところに真っ直ぐ行って、そこで激しくぶつかり合ったではないですか……。布団の上で幾度となく、汗と汗が飛び散って……ああ、そう、ギョウジはそこの女で。覚えていますわよね?」


「ああ、そうだったな」


 スズナがあまりにも真面目な顔で言うのには、ナルシスも閉口した。


「ス、スズナ君……? 君まで悪乗りするのか……?」


「ダイモン。君も素直じゃないな。確かに他人の邸宅ではしゃぎすぎるのもよくはないが、かといって楽しかった思い出を否定する必要はないだろう。まだ若いのだから……」


「これそういう話でしたかねガンイチロウ様⁉ いや確かにガンイチロウ様としてはそういうことを仰るでしょうけど⁉」


「それについてはもう言ったはずだぞ。君は革命に関わるべきでないとな」


 ぴり、と空気がひりついた。


 ナルシスは、視線をガンイチロウから離せなくなっていた。その場にいた誰もがそうだっただろう。そこには、部屋には、世界には、そのとき彼とそれ以外のそれぞれだけが独立して縛り付けられていた。


 一瞬にして、だ。


「もう問うまい、とは言ったがな――だが心まで変わったわけではない。実際、今の君を見て尚更確信したよ。君のような若人が革命などに命を懸けるべきではない。明るく、笑ってさえいれば、それでいいのだ――そうあれるようにするのが、我々大人の仕事であろうと」


 それは、あの庭での会合。


 それは、あの池の縁での出来事。


 ならばそれは――あの月の下での一大決心。


「なるほど、そうでありましたな――」だからナルシスは、そこで向き直る。「しかしガンイチロウ様。私も申し上げたはずです。最早心を決めたと」


「だが、心だけでは革命は成せまい――とも言った覚えがあるがな。して、それについては何か考えが浮かんだのか?」


「ええ、もちろん」


 ほう、とガンイチロウは息を吐いた。そして立ち上がる。巨体が持ち上がり、目線の高さが揃――わずに、彼の方が少し高くなる。


 見下ろされている。


「聞こうじゃないか――聞かせてもらおうじゃないか。ヒライズミグループの支援なしにどのようにして政府転覆を成し遂げるというのか。並の手段ではなかろうが?」


「ええ。」ナルシスは頷いた。「ですが常道ではあります」


「というと?」


「戦いというのは、畢竟、頭を潰すものだと――それが一番手っ取り早く済む」


「それはそうだ。どんな大男でも、脳天を撃ち抜かれれば昏倒する。しかしそれは可能なら、だ。銃の射程に入れなければ、撃てなければ――そもそも銃を持っていなければ成立しない仮定だ」


 そのときガンイチロウは指をナルシスへ一本向けた。それが銃であるかのように――それが放たれたかのように上に跳ね上げて、それで道筋を書いた。行政区北方からトウキョウへ向かう道。そこを革命の車列は踏破していくに違いない。


「君の考えというのはこうだろう。道中の拠点は拘束するだけに留めて本隊はトウキョウへ侵入。シャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツをはじめとした行政区指導部の身柄を抑える……しかしここからトウキョウまでは平時の最も理想的な条件でも六時間以上はかかる。その間に相手は態勢を整えてしまうぞ? ……それに、目的を達成できるほどの大規模な車列は奇襲効果を減じるはずだ。それはどうする?」


「検問は党員を使って破壊します――それで敵は情報の入手が遅れるはずです。車列も、最初は分散させて現地付近で合流させればいい。そうすれば途中まで相手はただの暴動だと思うはず」


「そして小規模になればそれだけ速度も上がる、か……分進合撃というやつだな」


「狙うはオブ・プレジデント邸及び主要政庁……そしてスガモのみ」


 ガンイチロウはナルシスのその言葉に首を傾げた。


「何故スガモを? 戦力の分散はともかくとして、目的が分散しては意味がないだろう」


「現在スガモ収容所には多数の政治犯が捕らえられております。そしてそれを抑えるために武器も多数……ここが落ちれば戦力強化になりますし、敵の士気も落ちます」


 実際、収容所職員内にいる党員の情報によれば、反乱に備えて多数の車両などもあるとのことだった。これを押さえておけば――そうでなくてもその行動を抑止できれば、敵が救援に来るのを防ぐことはできる。


「……なるほど」ガンイチロウはにやりと笑って言った。「しかしこれは面白くないな。我々には何もするなということか? 随分冷たいではないか?」


「いえ、」しかし、ナルシスもまた笑ったのだ。「ガンイチロウ様にもやっていただくことがあります」


「何?」


「もし我々が失敗したとき――そのときは我々を収容してほしいのです。安全な後方として存在していただきたい」


「後方?」


「それが難しければ、少なくとも告発はしないでいただきたい。あくまで今まで通りに平静にしていただきたい。そうすれば、アナタ様に迷惑はかかりますまい」


 そうナルシスは言い切った。事実上、それはヒライズミグループを蚊帳の外に置く行為であったのだが、一方で彼らに少しでも保身という考えがあるのなら、成立する取引だと思った。誰だって、失敗した場合のことを考えずにはいられまい。組織の長ならば尚更――


「……つまり我々はあくまで後方待機で、」そして、ガンイチロウは言った。「しかし同時に失敗した場合の責任は全て君にある。私にはない――そういうことなのだろう?」


「全ては私の力にかかっています。ご安心を」


 ナルシスはそのとき恭しく一礼をしてみせた。演技がかった動作の方が必要だと思った。するとガンイチロウは大声で笑った。


「よかろう――君に託してみることにする。成功した暁には我々も動くがそれでいいな?」


「無論です。全ては革命のため。それが成ることが何より優先されます」


「結構結構。それでこそダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスだ」


 そう言うと、ガンイチロウは段から降りてきた。そして手を差し出す。握手を求めている――。


「…………」


 ナルシスは一瞬戸惑った。無論それは、それ自体が嫌だったからではない。


 信頼していないわけではない。


 それと同じぐらい、この男が信用ならないだけだ。


 この男が初恋革命党を我が物としようとしていたことが頭を過った――それは革命の成功を確実にするためだろうか? 自らの掌の上に置いておくことで……そうであるならもっと他の方法があるはずだ。だとすればそれは、その真の目的は――


 何だ?


「…………」


 それは悪魔との契約だった。


 一度結んでしまえばもう後戻りはできない。


 そして、そうする他にない。


 ナルシスは、ガンイチロウと手を握った。


「契約成立」にやり、と笑うその顔が怖かった。「だな」


 だが、これで前に進める。


 その先に、未来がある――はずだ。

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