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第90話 「月が綺麗ですね」

 ふと目を覚ましても、まだ夜中だった。


 ということを、ハナレの窓から覗く月明りでナルシスは知った。煌々と照っているそれはこの世を自分のもののように捉えているように大きく映ったが、しかし実際にはそこに星々はあって、月とてその光の中の一風景に過ぎないのだった。


 しかし――ナルシスはふとフスマを開けた。薄く聞こえていた虫の音が一際大きくなり、冷たい風に乗って彼の耳朶を打つ。着ていた寝間着では少し外の気温は辛かったので、彼は一度エモンカケのところまで戻って羽織れるものをひったくると、今度こそ外に出た。


 そこに合理的な理由はなかった。単なる気分の問題である。何となしに外に出て、空気を吸いたかった。肺の中身がそのままどろどろとした胸の中身の正体であるという証拠は何一つなかったが、そして恐らくはそんな単純なことではないのだが、だとしてそうしないではいられなかった。


 結局、話し合いは平行線のまま数日が過ぎている――というより、あの朝の協議以来、話し合いは持たれていない。ガンイチロウから渡されたボールを持ったまま、それの重みに耐えかねるように沈黙しているのが、今のナルシス、もとい初恋革命党の状況であった。


 それに関してスズナに相談する気には、なれなかった。彼女の態度がそうさせた。何も言わずに、ただ不機嫌であり会話をする気はないという姿勢を崩さない相手に、一体どう話を持ち掛ければいいというのだろう? ……ただの世間話すら、きっとできまい。まして党の方針を決めるという重大事項など、できるはずもない。


 かくして同盟は暗礁に乗り上げ。


 革命は分解の瀬戸際に立たされる。


「…………」


 ナルシスはどこまでも続くように思われる庭を歩きながら、そのときまるで、自分がこの夜闇の中に消えていくような錯覚さえした。あるいは、そうなった方がいいような気さえした。結局、自分には覚悟がないのだ。失ったり失わせたりする覚悟がないから、こうして苦慮することになるのである。


 ならば誰か別の、決断力のある何者かが革命の最先端を走るべきだというのは、そう不思議な考えではあるまい。ガンイチロウが主張するのは、自分がそれになろうということなのである。先導者になろうということなのである。


 そんな大それたものに、自分はなれない。


 扇動者が精々である。


 人を散々振り回して、事態をかき乱すだけ――何と無責任だろう? しかしそれが彼の実情なのだ。


 真実と言い換えてもいい。


 ダイモンという偶像が、それを被ったナルシス・ポンペイアがしてきたことというのは、常にそういうことなのだから。


 他人に訴えかけ、他人を動かし、他人が決する。


 その他人がどうなろうと、どうだっていい。


 その背後で考えているのは、自分の恋路だけ。


「…………」


 するとナルシスには、自分が随分罪深い存在に思えた。夜は彼に語り掛ける。このまま、どこかへ行ってしまおうか。そのための力は持っている。そうすれば、覚悟あるガンイチロウはヒライズミグループ単独でも革命を成し遂げるだろう。そこには夥しい量の血が大河を成すに違いないが、それは革命から離れる自分には関係のないことだ――


「……ダイモン。」そこに、声がした。「こんな夜更けに散歩かな?」


 視線を上げる。いつの間にか、池の前に辿り着いていたナルシスの前には、静かにガンイチロウが佇んでいた。同じように寝間着に一枚羽織った姿で、しかしもっと大きく、重く、存在感を以て。それがナルシスにはどうにも耐え難かったが、視線を逸らすことは許されなかった。


「…………ガンイチロウ様こそ。」逡巡は、言葉に籠ったが。「夜風はお体に染みるのでは?」


「まだそんな歳でもなければそんなに病弱でもないよ。君こそ、その細身では耐えかねるのではないかね」


「それこそ、そう心配される歳ではありません」


 それもそうか、とガンイチロウは笑った。それからふと天を見上げ、先ほどまでの呵呵大笑は何だったのかというほど静まり返った。どこかその表情は泣きそうでもあり、一方で深い思案に支配されているようでもあった。


「……ガンイチロウ様?」


「ン、いやな。よくよく考えれば君はまだ十五、六といったところだったなと思ってな。この間好意対象者を割り当てられたばかりだろう?」


「それは」何が言いたいのだろう?「そうですが」


「君はあまりに当然のように考えているようだが、しかし世界を変えるなんてことは、本来子供が考えるべきことではない。それは大人の仕事――否、義務だと言える」


「義務――」


「正確には、世界を変える必要のないよう維持するのが、だな。整備し、更新し、次の世代へ繋ぐ。それが大人を大人たらしめる行為だ。それを放棄するような人間は、たとえ聖人していようが子供とさして変わらない」


 尤も、そういう人間が増えてしまって行政区の上層を乗っ取っていることは不徳の致すところだが――とガンイチロウはバツが悪そうに視線を逸らして、それからもう一度ナルシスを見た。


「しかし、だからといってその役目を子供が負う必要はないのだ――それでは本末転倒だ。子供のための新世界を子供が作るというのは、そうだな、言ってしまえばグロテスクだ。子供が子育てするようなものだよ」


「……ガンイチロウ様」


「ダイモン。私は先の会合での自分の態度を謝罪したいと思っている。君には君の考えがあって、どうしても踏み込めない領域が存在しているのだろう。だが、それなら私には私の考えがある。それを撤回するつもりはない」


 そのとき、ガンイチロウはきっぱりとした言葉を使った。それでいて拒絶をするわけでもなかった。ただ大人が子供を叱るように、言ったのだ。


「君は、革命に関わるべきではない」


 と。


「…………!」


「もちろん、今すぐに身を引くことは難しいだろう。現実的でない。だから、革命がある程度進展したところで徐々に消えていくという形にはなるが――ダイモンという成果と初恋革命党という組織を残して、君は革命から離れることができる」


 その提案には、きっと、下心がないではないのだろう。


 かねてから、ガンイチロウは初恋革命党を支配せんと動いていた。革命の主導権を奪うように策謀していた。それを成し遂げる絶好のチャンスとして、さらに揺さぶりをかけてきた、というのはまるで的外れな推測ではないはずだ。


 だがそれよりずっと――大人としての責任感から発せられた声だった。そのように思えた。


 ナルシス・ポンペイアは、その年齢というのは、その本人が思っているよりずっと子供だ。


 成長期ではあっても、過渡期ではないのだろう。


 ならば、背伸びして大人のやるようなことをしてみせるのは、危険な行為だ。


 バランスを崩して転ぶだけならまだいい。


 だがその転んだ先が安全とは、必ずしも言い切れない。


 だって、今も綱渡りしている最中なのだから。


「…………」


 ナルシスは、ふと視線を落とした。音もなく水面が揺れている。風が吹いている。それは服の隙間から体に突き刺さって、心にまで差し込まれる。あるいは、その僅かな勢いのままに流されていくかもしれない。実際そこに落ちている赤い葉は、きっとどこかの樹木から飛ばされてきたに違いないのだ。


「ガンイチロウ様、」不意に、ナルシスは声に出した。「私は――」


 あるいは、出そうとした。何が起きたかと言えば、何も起きなかったのだ。起きなくなった。風が止んでしまったのだ。すると月がもう一つ彼を見つめていた。水面だ。凪いだそこにそれは浮かんでいた。星々では反射できないその領域。ただ一つだけの宝石。


 それは、綺麗だった。


 月が綺麗で――それは、愛の言葉を思い起こさせた。


 月が綺麗ですね、と()()は言う。


 いつかどこか、もっと遠く離れた時空で。


 今日ではない明日で。


「私は、」ナルシスは、顔を上げた。「身を引くつもりはありません――私の恋路は、誰にも邪魔させない。たとえ、アナタが相手でも」


 そうだ――始めから、これは自分のための革命だ。


 全てはエーコの愛を得るために。


 その自由を得るために、始めた戦いだ。


 ならば、それがエゴであろうと、我欲であろうと、無責任であろうと――その目的のために進み続ける。


 その信念が――信条がある。


 故に、ナルシスは、キッとガンイチロウへ鋭い視線を送った。どのようなことがあろうとも、自分はこの革命を手放すことなどあり得ない。


 手段は選り好みするだろう。


 それでいて結果も追い求めるだろう。


 だが結末は自分で決めたい。決めねばならない。


 これは初恋から始まった革命なのだから。


「……そうか」ガンイチロウは目を閉じながらふと笑った。「ならばもう問うまい。君には君の信条があるということなのだろう。強情だと私は思うがね」


「しかしガンイチロウ様。私は子供であります――子供はワガママを言う生き物ですから」


 ナルシスはにやりと笑ってそう言った。するとガンイチロウは最初目をぱちぱちとさせていたが、最後には堪え切れないように大声で笑った。


「いいだろう――君には負けた。数日時間をやる。それまでに作戦を練っておくといい。情報が欲しければ、部下に好きなように聞け。君なら、きっと何かいい方法を思いつくだろう」


「は――ありがとうございます」


 ナルシスは深く腰を折って礼をした。ガンイチロウはそれに軽く手を振って、オモヤの方へ歩き出す。その姿が見えなくなるまで、ナルシスは姿勢を崩さなかった。

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