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第89話 新規契約

「ン……」


 イカロスが目を開けると、病院然とした無機質な天井がその着色具合とか脱色具合とかでどうにか個性を示しているところだった。すると体の上にかかっている布団も大体似たような具合で、それが何となく嫌になったのでイカロスは上体を起こして、全身に何故か走る激痛を跳ねのけて、どうにかそれとの接触を断とうとした。


「起きたか」その視界に、一人の男が入ってきた。いや、そこにいたのにイカロスが気づいた。「怪我の具合はどうだ? あのホテルほどはいい寝床じゃあないだろう、許してもらいたいんだがね」


 その男は、顔に大きな傷があった。左頬に火傷のような引き攣りが見られる。その上にある視線はその辺のナイフより物を切れそうではあるのだが、その体格を見れば、そもそもナイフなど必要ない。その上腕二頭筋とかを使えば鉄板だって引き裂いてしまえるだろう。


 その特徴からすれば彼が只者ではないことぐらい、一瞬で分かろうというものだ。


 しかし、イカロスがそれに気づいたのは、一般人がそうするであろうタイミングより少し後だった。


 もっと目を引くものがあった。


 傍らに抱えているライフル銃とか。


「……アナタ、」それを視認してから視線を男の方へ移すイカロス。「何者ですか」


「ああ、そうだな。自己紹介がまだだった。君のことを一方的に知っているのは実によくない状況だと言える。全く失礼して申し訳ない、イカロス・ポンペイア二中職」


 そう言って、彼はイカロスの「共和国前衛隊」隊員としてのIDカードを手元で弄んで見せた。どういうバランスによってなのかそれをクルルと回すと、マジシャンがそうするみたいに投げるようにしてイカロスへ渡した。顔目掛けて飛んでくるそれをイカロスは二本の指で挟むようにして受け止める――そのとき自分が拘束されていないことに彼は気づいた。


「この通り、こちらに敵意はない。少なくとも取って食おうというつもりはない。だからカードも返してやった。携帯端末はまだ預かっているがな」


「……随分な自己紹介ですね。まだ俺はアナタの名前も知らない」


「ジェームズだ。ここじゃそれで通っている。もちろん偽名だが、呼べれば何だって構うまい? 名前などというものは結局そういうものだ」


「そんな哲学的な話はどうだっていいんだ、ジェームズさん」イカロスは苛立って布団を今度こそベッドの下に追いやった。「俺が知りたいのはここがどこで、アナタが何者かということだ。偽名を使うなんて、どうせろくな人間じゃあないんだろうが」


「酷いことを言うな君は。確かに我々は世間一般からすれば日陰者どころかお尋ね者だが、だからといって命の恩人に随分食って掛かるじゃないか」


「命の恩人?」


「昨日のことを覚えていないのか? 派手にカーチェイスをやったんだよ君は。そうして追手をどうにか振り切ったはいいものの、君は数発の銃創を負って気を失った。そこを我々に拾われた……まあ覚えていないのも無理ない話だが、ありがとうぐらいは言ってほしいものだな」


 イカロスは、そのとき酷い頭痛に襲われた。そうして体を屈めさせる、と、そこにも激痛。その痛みは、彼の脳裏に記憶を呼び出させる。そうだ、ホテルで刺客に襲われて、銃撃戦をしながらタクシーを奪って逃げ出してきたはいいものの、何発か食らってしまったのだ――その先の記憶はないが、この闇医者(だと思う、少なくとも国民団結局病院ではない)に連れてこられている以上は、ジェームズなる男の言うことは嘘ではないのだろう。


「ちなみにあまり動かない方がいい。骨は折れていないようだが、頭にも一発掠めた痕があった。しばらくは安静だ――起き上がるのは危険だよ。脳出血のリスクがある」


「そうも言っていられない」イカロスはどうにかベッドの端に体を寄せて床に立とうとした。「自分は弟の行方を追っているんです。休んでなんていられない……ッ」


「……弟?」


「そうです。それを追って、ここまで来た。お世話にはなりましたが、邪魔はしないで頂きたい」


 そう言って、イカロスはとうとうベッドから身を離した――がとてもではないが直立などできなかった。すぐに激痛から体勢が崩れ、床に這いつくばることになる。ジェームズは溜息を吐いて、しかし助け起こすことはしなかった。


「まだ動くなと言ったんだ」


「嫌だ」


「一応言っておくが、何も我々は君を慈善の精神で助けたわけじゃない。敵の敵は味方、とは言わないまでも敵ではないと思ったから助けただけだ。邪魔をするなら今からでも放り出す」


「そりゃ、アナタ方にはアナタ方の事情がおありでしょうがッ」


「実のところ既にこちらは君を放り出そうか非常に迷っている。君が我々と同じ目的のために動いていたわけではなさそうだということは今のやり取りで分かってしまったしな」


「……目的?」


「部外者に教えられるとでも?」


 男は上から見下ろすばかりで、イカロスに手を差し伸べもしなければ、さりとて踏みつけもしなかった。じっとそこに座っているだけ。敵意はない、という言葉の通りだったが、味方でもないのだろう。イカロスは何とか身を起こしそれをベッドに預けながら、言った。


「部外者も何も、自分は『共和国前衛隊』の隊員だ。これほど強大な治安上の脅威には立ち向かう義務がある。その脅威の中には、アナタ方も含まれている」


「勇ましいことだ。その体で何かができるというのなら是非ともやってもらいたいがね」ジェームズは今度こそ足でイカロスを小突いた。彼はそれだけのことで再び崩れ落ちそうになる。「しかし敵と味方とは勘違いしないでもらいたい。さっきも言った通り、どちらかと言えば我々は君寄り、君たち寄りだ。少々非合法に武装しているだけでね」


「……信用できないな」


「我々も、君がトウキョウから来たのでなければ信用などできなかったがね。まして彼らに襲われているのでなければ」


「彼らというのは……ヒライズミグループのことか?」


「……」ジェームズは目を見開いたようだった。「どこでそれを?」


「暗殺者から直接聞き出しました。最初はまだ余裕があったから……」


 イカロスのその言葉に、ジェームズはやはり驚きを隠せない様子だった。視線を不意に逸らし、口元に手をやってブツブツと何かを呟いている。それを一頻りやったあと、急に立ち上がって言った。


「ならば何故ヒライズミグループが君を消そうとしたのか……その見当はついているのか?」

「それは――」まさか、とは思うのだが。「弟、でしょう。彼はトウキョウから北上したはずだ。何者かに拉致されて……それを探しに来ただけの自分を、妨害や監視では飽き足らず殺しに来た。そこには何か関連性があるはずです」


「で、あろうな……だとすれば君を部外者としたのは誤りだったようだ。我々の目的はヒライズミグループの闇を暴くことにある。君は立派にその関係者になっている」


「ヒライズミグループ……」イカロスはどうにかこうにか、ベッドの上に体を戻した。「彼らは何者なのです? あれだけの数の傭兵や銃を持っているなんて……何故、誰も通報しないのです?」


 ジェームズはその質問に苦い顔をした。あるいは苦々しそうな、忌々しそうな顔をした。


「簡単な話だ。連中は国民団結局職員一人一人の情報を全て知っている。名前、顔、生年月日、住所から家族構成に至るまで……後は分かるだろう? それらから脅しに使えそうな情報をちらつかせてしまうのさ」


「しかし、何故そのような情報が?」


「大方、スパイでもいるか誰かが買収されたか……それもかなり上層の方だな。それこそ脅されているのかもしれない。ちょっとした不正の証拠を握られてそこからずるずると……確かめる手段はないが」


「……誰も、止めることはできないのですか? 中にはやる気のある人間がいるのでは?」


「いないことはない。だがさっきも言ったように情報戦で負けてしまっている。あくまで噂だが、量子通信が傍受されたなんて話もある。理論上解析は不可能なはずだが、恐らくは同型の量子通信機を同調させているに違いない」


「そして、その同調には国民団結局からの情報が使われている……」


「そういうことだ。これに対抗するには国民団結局にいたのでは不可能だ。それをスケープゴートに、縁者のいないOBをベースに外部から動いてやる必要がある……それが我々レジスタンス『ヨリトモ』だ」


「…………」


 レジスタンス。


 それは非合法の組織ではある――本来なら、国民団結局に通報されるべき存在だ。銃器の不正所持はもちろん、組織犯罪の準備をしている疑いがある。一応、ヒライズミグループは一企業だ。それに対する攻撃は、即ちテロである。


「さて、ここまで話したからには、」ジェームズはその思考を見透かしたように言った。「当然こちらもそれ相応の対価が欲しいからだ。そのために単に関係者というだけでは教えられないところまで教えてみせた。我々自身の知り得る手口とかな」


「……でしょうね」


「結論から言おう。君には我々と行動を共にしてもらう。丁度、イワテのヒライズミ邸周辺の動きがきな臭くなってきたところでな……偵察に行くつもりだったのだ。弟君が北上したというのなら、目的地は恐らくそこだろう」


 その言葉には、言外に、逃げ出せると思うなという脅しが含まれていた。現に携帯端末も取り上げられている。外に助けを求めることも報告を飛ばすこともできないようになっていた。無論、彼に敵対するという覚悟があれば、それは全くの不可能ではないのだろうが。


 だがしかし。


 かといって告発することはできない――できるはずがない。


 無論、そこには自分が世話になってしまった以上関与を疑われる、という保身的な意味もある。銃撃戦もその一環だったのだと勘違いされるのは面白くない。


 しかし一番には。


 それ以上の巨悪があるとイカロスは感じ取ったからだ。


 そして、彼の弟はそれに絡め取られたに違いない。


 スズナ・ルーヴェスシュタットの手によって。


 助け出すには――単独では最早不可能である。


「無論です」だから、イカロスは手を差し出した。「弟のためなら、いくらでも協力しましょう」


 ジェームズは、その決断ににやりと笑った。それはまるで悪魔との契約を想起させたけど、しかしその手はちゃんと暖かかった。

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