第87話 ボン・ボヤージュ
イカロスはパーテーションで区切られた狭い部屋で一人貧乏ゆすりを止められなかった。乗り換えた車の足取りを追い、ミヤギまで彼は辿り着いた。そこで同地の国民団結局にカメラの映像を出してもらうよう協力要請をしに来たのである。
が、そのために最寄りの事務所にまで来たのはいいのだが、まあ手続きに時間のかかること。今まで訪れた事務所ではそのような煩雑なことなどは起きなかったのに、書類を何枚も書かされ、それを何度も訂正させられ、その上でもう何十分も待たされていた。しかもこの狭い部屋というのは、普通、一般の人が手続きなどで来たときに通すようなところだ。少なくとも仕事をしに来た二中職を待たせるようなところではない。
何がどうなっているのか分からない。
トチギやフクシマ辺りから怪しくなり、そこからミヤギに入ると特に状況が変わったようだった。
最早行政区が変わったのかと思えるほどだ。
「お待たせしました」更に待つこと五分。一人の五中職がやってきた。「ポンペイア二中職」
「……五中職?」階級が低すぎる。「失礼だが、アナタが本件の担当だと?」
「ええ、まあ……そうなっていますね」
その五中職は頭をぼりぼり掻いてそう言った。眼鏡にぼさぼさ頭の男。制服も着崩している――この手の職員は大抵能力的に問題があるとイカロスの経験は言っていた。ごく稀にそういったことを煩雑だと切り捨てて他にそのリソースを割り振る職員もいることはいるが、へらへらとした内心を隠そうともしないこの男はそういう類の人間には見えなかった。
「結論から申し上げますと、」彼は座ると、実際開口一番こう言った。「本件に関して我々は何ら協力ができません。どうかお引き取りを」
イカロスは、あくまで紳士的な態度を取るつもりでいたが、そう取り繕うのを止めてしまおうか迷った。
「……協力できない?」眉間を揉んで、それから何とか言葉を作る。「一体どういうことかな?」
「言葉通りの意味です。我々は協力しない」
「失礼ながら私はただ旅行しに来たわけではない。『共和国前衛隊』の捜査官としてここにいる。その権限を以てしても、協力ができないと?」
「上長からはそう聞かされています」
――上長判断か。恐らくはここにいる一中職辺りの判断だろう。だとするとそれを自分の権限で乗り越えるのは不可能だと言える。
「しかし、その理由は? 何の根拠もなしにただ突っぱねるというのは、端的に言えば規律違反だ。国民団結局にしろ『共和国前衛隊』にしろ、その職分は犯罪者を捕まえることだ。そうだろう」
「とはいえ、自分も上長からそう言われたのみですので。忙しいとか何かでしょう」
「君がいるだろう。君の職分でどうにか協力できないものか?」
「ですから上長の命令です。それを覆すのは、それこそ規律違反でありましょうが?」
――埒が明かないな。
今度はイカロスが頭を掻く番だった。どうにもはぐらかされている感じがする。書類は提出され受理されているし、上長に話がいっている以上、この目の前の五中職の怠慢ではないのだろうが――だとすれば組織そのもののそれだろうか? 全員にやる気がないとすれば?
(――いや)イカロスは首を横に振った。(考えすぎというものかな?)
実際、彼らからしてみれば余所者がやってきて、自分の追っている案件のためにリソースを割けと言いに来ているようなものだ。トウキョウで起きた事件まで面倒を見る余裕がないのかもしれない。上長の判断は、そういったところだろう。
「ならば結構。」とはいえ、無駄な時間ではあるのだった。「これ以上時間を掛けていられない。これで失礼させてもらう」
「失礼、と言いますがどちらに?」
「アナタに伝える必要が?」
「一応、状況が変わったら連絡をと思いましたが。私の方から上長に掛け合ってみます」
「…………」イカロスは少しだけこの五中職を見直した。「ヒライズミホテルの五〇一号室。センダイ駅前の」
「ありがとうございます」
ありがとうございます?
何か変な応答のような気がしたが、イカロスは思い過ごしということにして、ホテルへ向かった。センダイ中心部。その道中で国民団結局事務所を見つけては交渉をしたが、取り合ってもらえなかった。あと可能性があるとすれば、管区を統括する本事務所に掛け合って開示の命令書をもらってくるぐらいだが、いずれにしてももう遅い時間ではあった。
もちろん、時間などは国民団結局職員に関係のないことだし、イカロスにしてみても心が逸るところはあったのだが――徹夜続きで捜索してきたイカロスは、いい加減限界が来ていた。最後に寝たのは二日前だ。そろそろ、休む必要があった。
「――ふう」
だからイカロスはホテルの部屋で荷物を下すと、ベッドに飛び込んだ。久々の羽毛の感触。柔らかいそれが全身を――正確にはその前半分を――包む。三大欲求の一角を酷く損ねている身体は今すぐにでもその誘いに乗ってどこまでも重力任せに沈んでいきたいところだった。
「……いけないな」イカロスは、どうにかその誘惑を断って、体を起こした。「シャワーも浴びずにでは、折角の綺麗なベッドが台無しになるところだった」
そう言って、彼はシャワールームへ向かうと、脱衣所で手慣れた動きで制服に手をかけた。大浴場に行くという手もあったが、どうせビジネスホテルのそれだ。大したものではあるまい。それよりはすぐに汗を流して、さっさと寝てしまいたかった。
が、そのときだった。
電話が鳴り響いたのは。
「……何だよ、タイミングの悪い」
昼間の五中職からだろうか? そう思いながら、イカロスは服を脱ぐのを中止して、備え付けのそれがある方へ歩いて行った。ディスプレイのないシンプルなデザインのそれを取り上げると、最初にフロントが出た。その係員は、やはりというべきか、イカロスが訪れた事務所から電話があるがどうするかというものだった。イカロスはもちろん繋いでほしいと言い、しばらく間があってから、回線が切り替わった。
「はい、ポンペイアです」
真っ先に名乗った――それから数秒。しかし、どういうわけか返答はなかった。一瞬、受話器が壊れたかと思ったが、さっきまで会話で来ていたのだから、そういうことがあるはずはない。だとすれば、向こうの故障か?
「すみませんが、そちらの声はこちらに聞こえていません。別の電話でかけ直してもらってもいいですか?」
一応、相手が今度は上長かもしれないから、敬語で言ってはみたが、やはり返事は聞こえない。こうなるとイカロスは首を傾げるばかりだった。静かすぎて、廊下の外の足音すら聞こえる有様だ――いや、そう考えるとこのホテルの防音は心配になるが。
「失礼ですが、一度切らせてもらいます。こっちから掛け直しますから――」
――何だ?
イカロスは、そのときドアの方へ視線を向けた。それは電話機のある棚からは一直線上にある。そこの前で足音が止まった、ような気がした。だが、何故? この部屋は廊下の一番端。用もなければ、そこに留まる必要もないはず――
「…………」
イカロスは、何となしに嫌な予感がした。非協力的な国民団結局。上から下まで同じ態度。それは、ただの怠慢のはずだ。しかし視線をそこから外さずに、イカロスはゆっくりと受話器を置いた。それから音を立てないようにしてベッド脇へ行くと、スイッチを押して電気を消す。それからドアから見て陰になるよう、風呂場のある一角の裏に隠れる。
と同時に、ドアから電子音がした。ロックが外された――というのは、その次の瞬間にそれが開かれた音がしたから。影が伸びて、それは最早肉体を待たずに単独でイカロスを捕まえようとしたようですらあった。
だが、実際には足音が近づいてくる――ゆっくりと、着実に、迫ってくる。そこに、不要な言葉はない。ならばそれはポーターが何かの用で来たのではないということを確実にさせる。その他の者でもあるまい。だとすればそれは何者か? イカロスには呼吸音すら躊躇われた。
が、それはついに角から姿を現した。それは一応ポーターの格好をしているようだった。ベージュの服に帽子。しかしそれが偽装であることはその手に持ったものとその持ち方から分かる。
拳銃を持っていた。
手を組んで顔の前に置くような構え。一部でしか使われない特殊なそれで。
銃口は、くるりとイカロスの方を――向いていない。
「!」
微妙に、それはズレていた。
具体的には縦軸がである――彼が立ち姿勢から水平に銃を向けたのに対し、イカロスはその下に潜り込むようにしゃがんでいた。それは、銃を構えるという動作が、どうしても下方向へ死角を作る行為である――そして、手を顔に近づける相手の構えはそれを助長する――ことを利用した戦い方であった。
そうして生じた、一瞬の隙。
そこに、イカロスは飛び込んだ。
文字通り――相手の胴体目掛けて。
「うぉっ⁉」
くぐもった銃声はイカロスの頭上をすり抜けて遠のいていく。そのとき彼らは無重力に晒されていた、が、それは永遠には続かない。すぐさま重力が彼らを捉えて、絡み合ったそのまま叩きつけられる。
「死ねッ」
故に刺客には二人分の体重がかかったはずだが、彼はそれに怯むことも呻くこともしなかった。イカロスが彼の胴体から身を起こそうとするその側頭部に向かって彼は銃口を向ける。サイレンサーつきのオートマチック。小口径特有の細身がじろりと睨みを利かせた。次の瞬間に、それは火を噴くだろう。携行性重視で威力に劣るとはいえ人間の頭蓋はそれを弾き返せるほど頑丈ではない。
ないのだが、イカロスが次にしたことというのは、それを知らないかのようなものだった。
自分の頭部を、銃口に押し当てたのだ。
ぐいと、スライドが後ろへ沈み込むように。
「チィっ⁉」
だが、オートマチック拳銃というのは、それでは撃てなくなる。銃の構造をよく理解していたイカロスは咄嗟にその性質を利用したのだ。そうしてできた一瞬の隙を使って彼は、今度は勢いをつけて銃へ頭突きを放った。
元々無理な手首の姿勢で構えられていたそれは、一回目の時点で緩んでいたのだが、とどめを刺された。持ち主の手から離れ、ホテルのふかふかした床の上を滑る。イカロスは身を起こした刺客をすぐさまそれと反対の方向に突き飛ばすと、反作用で転がるようにして銃を手にした。
「――!」
床に寝そべった姿勢のまま、一瞬で射撃。ナイフを手にしていた相手は、その場で電撃でも浴びたかのように強く震えると、勢いのままイカロスに向かって倒れ込む。最期の足掻き――が、そのナイフはイカロスの頭部すれすれを掠めただけで、床に深々と突き刺さった。これでもう、男には何もできない。ただ呻き声をあげて血を流すだけ。
それを、イカロスは格闘技の寝技の応用で蹴り飛ばした。男は悲鳴を上げながら床上を一回転する。そうして露わになった背中に乗りながらナイフを取り上げると、イカロスは銃を彼の後頭部へ突き付けた。
「さて、」もちろん、密着はさせない。「そろそろ答えてもらおうか。君たちが何者なのか」
男は何も言わない。組み伏せられた状態、額に脂汗を浮かべながらぎろりとイカロスを睨むばかりだ。
「だんまりか。賢い選択とは言えないな。その傷ではそう長くないと思っているのかもしれないが、俺がこうして上に乗ることで圧迫止血になってはいる。それに君は小口径のこのピストルを選んだ。実のところ傷そのものは大した深さじゃないはずだ」
「…………」
「……その分だと仲間が来るまで耐えるつもりか? いい心がけだ。仲間は大事にしなくちゃな?」イカロスはナイフを手に握った。「だが現に彼らは助けに来ていない。恐らく彼らは君を見捨てるつもりだ。奇襲効果は失われたので、脱出を図ったところを待ち伏せする気になったのだろう。実に賢い選択だ」
「……見捨てられる覚悟はできている。お前の思い通りにはならないぞ」
「そうかい。でもそれも無駄な覚悟だ。既に俺は君の正体について大体察しがついている。ヒライズミ家の者だろう?」
「……⁉」
「図星か。」イカロスは、相手の表情が変わったのを見てにやりと笑った。「この布地はかなり上等だ。偽装ではないはず。かといって本物を入手する手間を考えれば宿泊客に化けた方が早い。そして君が従業員でないとすれば、ホテルがグルということになる。このホテルはヒライズミグループの傘下。大方、お抱えの暗殺者ってところだろう。どうかな?」
「…………ならば、どうする」
「こうする」
イカロスはすっと立ち上がった。
「さっきも言ったように君の傷は止血しないと命に係わる程度には深い。その止血役であった僕が退いたことによって君はじわじわ失血していく。どうせ立ち上がれもしないだろうから、君は段々苦しみながら死ぬことになる」
「ま、待て」
「悪いけど俺はそれほど慈悲深くはない。『共和国前衛隊』の隊員に襲い掛かるということは自由恋愛主義者だ。優しくしてやれない――もう行かなくちゃ。それじゃあよい旅を」
イカロスはそう言って、部屋の出口の方へ歩みを進めた。それから、ドア陰からそっと身を乗り出して廊下の様子を伺う――と同時に銃声。ドア枠を弾いて風切り音が彼の頬を撫でる。咄嗟に姿勢を低くして、イカロスは撃ち返しつつ相手をその一撃の下に倒した。
高評価、レビュー、お待ちしております。




