第86話 策謀の胎動
「ガンイチロウ様」黒いスーツを着た男は、ドアを開け彼の私室に入った。「お呼びでしょうか」
ああ忙しいのにすまないな、とガンイチロウは、回転式の椅子でくるりと彼の方を見て言った。少し乱れたユカタの襟を軽く正して、目の前の机の上で両肘を突くと指を組んだ。
「君に頼みたいのは他でもない。ナルシス・ポンペイア――彼の監視と調査だ。片時も目を離すな。不審な動きがあればすぐ報告しろ」
「は――ご命令とあらば」男はガンイチロウに礼をしつつ、その一方で視線をちらと向けた。「しかし失礼ながら申し上げます。彼についてはスズナ様から充分な量の情報を入手しておりましょう。これ以上調べたところで、それほど有意な情報を引き出せるとは思えませぬが」
「君の言いたいことは分かる。だがあの女は最早信用できない。盗聴器やカメラを破壊したのは知っているだろう――だとすれば、私に上がってくる情報もどこまで正しいのか分からない。それにのみ基づいて行動することはできないから、その裏付けが欲しい」
確かに、スズナはガンイチロウに逐一あの男の情報を流してくれはした――が、盗聴器の件がなくとも、それ以前の問題として彼女の情報は信用できない。
何故ならスズナはガンイチロウを恨んでいるから。
彼らは、一般的な祖父と孫娘の間柄ではない。
だから――偽の情報ぐらいは平然と寄越すだろう。しかも他の諜報員はナルシスという正体を隠すため体よく排除している徹底っぷり。一応、キーンとアリグザンダーというお付きの護衛からも情報は入るが、ゴロツキ上がりの彼らが彼女に心酔していることからして、信用度はそれほど変わらない。
「それに、」だから、マークを外すわけにはいかない。「君にお願いしたいのはそれだけではない」
「というと?」
「奴をいつでも消せる準備をしろ」
「…………」直接的な言いように、男は冷や汗を掻いた。「なるほど」
「何、昔の言葉に言うだろう。『死者だけが英雄だ』と。彼に革命の主役は譲るさ。だが悲劇的な主人公ほど人気が出るものだよ。どこかで退場してもらう必要がある、華々しく、それでいて寒々しく」
舞台上で、ナルシスは後ろからナイフを刺される。きっとそれは「内閣」家のシンパの残党か、あるいはより過激な自由恋愛主義者なのかもしれない。そのどちらにせよ、暗殺者は他人が納得できる程度の背後関係を少し明かしたあと自害……することになっている。
後に残るのは、革命の果実と集合的無関心だけ。
そのとき男は得心いったようににやりと笑った。
「なるほど――しかし驚きました。昼のご様子では本当に同盟を組まれるものかと」
「おいおい勘違いするなよ? 同盟は組む。あの男の――正確にはダイモンの――ネームバリューは一級品だ。それを使わない手はない。多少労力を要しても、利用する価値はある。だがそれは永遠には続かない、ということだよ。誰も、使い終えた割り箸を後生大事に持っておくことはしないだろう?」
「割り箸ですか」
「買い被りすぎかな?」
「かもしれませぬな」
ふ、とガンイチロウはそのとき笑った。存外、この付き合いの長い部下が言った軽口が面白かったのだ。
「かもしれないな。あの男は人を信条で信頼すると言ったがな」それからガンイチロウはふと言った。「信条などというものは、結局脆いものだ。それを破ったところで誰も罰を受けることはない。何故ならそれには相手がいないからだ。精々、自分に対してのみ効力を発揮する。その効力とやらであるところの多少の罪悪感を踏み倒すだけの厚かましささえあれば、無力化は容易だ」
――だが、その点利害関係というものは違う。
――約束を破れば、その代償を支払うことになる。
――報復を受けることだって。
「つまり、人を動かすには利益がなくてはならない。貸し借りがなくてはならない。そもそも信用、信頼、信条、これらは全て嘘っぱちだ。お人よしの幻想に過ぎない。それが分かっていない者は、畢竟破滅する」
「至言であります、ガンイチロウ様」
「まして組織のトップだなどとは、寒気がする。尤も、その方が大衆受けはいいのだろうよ。だから利用価値はある――客寄せのマスコットとしてのな」
「先ほどは」男はそこでクスリと笑った。「主人公と仰ってましたのに」
「言うなよ、少しはおべっかを使ってみせねばな」
そう言って、ガンイチロウも声に出して笑った。そして片手をくるりと振る。それは解散の合図だった。それを機に、男はまた一礼して、その場を辞す。それからしばらく経ってもガンイチロウはそうしていたが、足音が遠ざかったのを聞き取ってから、机の上、積み上げられた書類の陰になっている写真立てを手に取った。
「ナデシコ――」そして呟く。「もうすぐだ。もうすぐお前とお前の愛した人を殺したあのクズ共を倒すことができる。だから、もう少し待っていてくれ……」
そこには、一組の男女。
名を、ルーシオン・ルーヴェスシュタットとナデシコ・ルーヴェスシュタットと言ったということを、彼ともう一人しか知らない。
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