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第80話 ソンベン・ヴィンコーマン

「古池や」スズナが不意に言った。「蛙飛び込む 水の音」


「何だそれは?」


「大昔の……詩、でいいのかな、アレは。とにかくお前もさっさとしろよ。ここから先検問がない以上、もうこれは無用の長物だ。寧ろ持っているだけで疫病神になる」


「ああ」


 ナルシスはそう返事をしながら、国民携帯端末の背面カバーを開けると、そこからバッテリーを抜き取り、本体の方は目の前の溜め池へ投げた。遠くへそれは回転しながら落ちていき――ぼちゃん。


「こんな音なのか?」


「俺が知るかよ。蛙じゃねーし違うんじゃねーのか?」


「風情のないやつだな。君が言い出したことだろう」


「水音に風情を感じる奴の方が異常だよ」


「人はそれを才能と言うんだよ」


「さよか」


 スズナはそれから自分の鞄の中に手を突っ込んだ。しばらくそうして何かを探し、それをついに見つけ出したようだった。


「ほれ、ナルシス。」板状のそれを、彼に渡す。「お前の分の新しい端末だ。偽装身分証機能もある。読み取りされたら流石に誤魔化せないが、職質されたときに見せるだけならどうにかなる。偽身分は頭に叩きこんどけ。間違っても本名を出すなよ」


「誰に言っているつもりなんだ? 君じゃあるまいし、僕がそんなマヌケなヘマをするとでも?」


 ナルシスはそう言いながら、端末を受け取った。スズナは一瞬それを取り上げてやろうかという気分にもなったが、ナルシスはそれを瞬時に察知してくるりと身を翻して間合いから逃れた。それから一通り目を通す。名前はソンベン・ヴィンコーマン。サイタマ某所在住の高等部一年生。出身はグンマだが最近引っ越してきたという遍歴が書かれている。父はタンタン・ヴィンコーマンで、母はマンム・ヴィンコーマン。それぞれの住所が違うところに何か複雑さを感じさせるものがある。


「それにしても君は偽名のセンスがないな。」ナルシスはその上で首を傾げた。「どこの言葉がベースなんだこれは?」


「ああ、それならドイツ地方にあった言葉だ。何でも、『人がやらないことを敢えてする者』という意味だとか。父親と母親のもそれはそれは由緒正しい名前だったかな」


 もちろん大嘘だ。極東列島行政区の古い言葉で、小便と大便である。そこにする者という意味でマンをつけてやった。父親の方は、アルファベットをそのまま読んだときには男性器という意味だし、母親の方については――言うまでもあるまい?


「そうか。」しかしナルシスは気づかなかった。「なら珍しく君のセンスが僕のそれより美しかったということにしておこう。ソンベン・ヴィンコーマン。いい名前だ」


 スズナはそのとき吹き出すのをどうにか堪えることができた。どうせ後で変えれるからと適当な名前を打ち込んでやったのだが、存外に彼はその辺が鈍かった。内心ざまーみろと思いながら、ナルシスの背後で口元を押さえていた。


「さて――」くるりと彼が振り返ったとき、それは限界に達しそうであった。「? どうした? そんなに震えて?」


 しまった、と思ったのはそのときである。あまりの愉快さをどうにか抑えようと内心悶えた結果、それは身体的な振動となって表面化した――要は笑いを堪えるのに必死で自分の体がそれで震えているのに気づいていなかったのだ。


「……心配するな。」それを隠すのには時間が必要だった。ソンベンのことを忘れるだけのそれが。「大したことじゃない。気温が下がったからな」


「君の心配はしていない。初恋革命党の副党首に風邪を引かれたのでは僕が困るということを言っている。ここからの行き先も君が知っているのだろう?」


「どこまでも自分本位な奴だな」


「今は僕は革命の中心人物となってしまったんだ。そうもなろう……尤も、今はただのソンベン・ヴィンコーマンだが」


「ンふっ」


 何でこの男は今名乗ったんだ?


 名乗らなければ耐えれたのに。


「……くしゃみか、」ナルシスは、しかし、何とか都合よく解釈してくれたようだった。「重症だな」


「……そ、それよりナルシス。そろそろ次の行動に移ろう」


 一刻も早くソンベンなどという馬鹿げた名前から話題を逸らさなければならない。今は何とかなったがそうしなければいつまでも耐えきれるものではない。その必死の内心など知らないナルシスは、「ああそうだな」と返事をしつつ、ここで車を処分するために残る運転手と握手をした。


「さて、車はこうして乗り捨てるとして――まさかここから歩きということはあるまいな? この寒空の中そんなことをすれば凍死しかねん。哀れソンベン少年は行き倒れ、正体が白日の下に……スズナ君? どうした?」


「い、いや、続けてくれ。何でもない」


「いや、続けてくれも何も君に聞いているんだ。可哀そうなソンベン君を凍死させないプランを考えているんだな?」


「ンふ……お前分かってて言ってるだろ本当は?」


「何がだ? ……だからこの先については何も知らないんだってば。勿体ぶっていないで」


「あ、ああ。分かっている。この先のプランだったよな。替えの車を用意してある。少し歩くがそのぐらいはいいよな?」


「ン? ああ」


 スズナはようやく笑いの波を超えると、近くの山に向けて歩き出した。ナルシスもそれについていく。しばらく上り坂をぐるぐると進むと、その途中に乗用車が一台現れた。しかも黒光りするそのボディは、自らが高級なそれであることを示していた。間違ってもこんな寂れた山中に放置されていていい車種ではない。その脇に一人の男が立っている。スキンヘッドにサングラス。黒いスーツは折り目正しい。彼はこちらに気づくと、深く一礼をして、


「お待ちしておりました」


 と言い、ナルシスたちに向けてドアを開けた。


「……スズナ君?」どう見ても、只者ではない。「説明してもらえるんだろうな?」


 というより、ヤクザやマフィアの類だ。少なくとも堅気の人間ではない。微妙に左脇を庇うような動き、あのジャケットの内側のそこには拳銃が隠されているのだろう。彼女の平生の暮らしぶりは、彼らとの繋がりがあるから?


「無論だ」


 しかし彼女はそう言って彼の誘導に従って、車に乗り込む。どうにも手慣れた動きだ。ますます怪しい――ナルシスは、とはいえ、置いて行かれるわけにもいかなかった。それに続いて、彼も乗り込む。するとドアが閉じられ、男も乗り込み、車は走り出す。


 そうして十分ほど、彼らは言葉を交わさなかった。スズナの方はずっと車窓を見て我関せずと言わんばかりの態度を取って、ナルシスはその態度に苛立って何も言いたくなかった。ちら、と運転席の方をバックミラー越しに伺うが、それは男がやはり一般人でないことを再確認するだけの無意味な行為である。


「……スズナ君」ナルシスはそれに飽きて、あるいは耐えきれず口を開いた。「そろそろいいだろう」


「……何がだ?」


「君は説明すると言った」


「ああ。だがいつとは言ってない」


「それは……」確かにそうだ。しかしそんな言い方をするのか?「ならば要請する。今するべきだ」


「したところでお前は信じようとしないだろう。なら論より証拠だ。それが見えるときになったらする」


「見える?」


「見えたら分かる」


 何のことか分からない。ナルシスは尚も抗弁しようとしたが、スズナはそこに鋭く視線を向けた。その程度は日常茶飯事ではあったのだが、今日のそれは平生のものよりもそこに含まれる意味合いが強いように感じられた。ナルシスはそのせいで、言葉を発するタイミングを捉え損ねたのだ。


 そして、不意に車窓から入ってきたパトランプの赤色に脅かされたというのもある。


「検問だ」


 既に車は山中を抜け、再び幹線道路を走っていた。間もなくハイウェイに入ろうというところである――彼らの存在がバレたとは思えないし、戒厳令の範囲が拡張されたとも考えられない(そういう発表はなかった)。ただの偶然か? ……そう切り捨てるには、少々タイミングが良すぎる、気がする。


「どうする、スズナ君。偽装身分証を見せて逆に怪しまれるわけにもいかないぞ。ソンベンとかいう……」


 スズナは、そのとき全く反応を見せなかった。車に乗る前の彼女はソンベンという単語を出せば笑っていたのだが――どうせこの女のことだ、本来の言語では変な名前なんだろう本当は――今度ばかりは眉をピクリと動かすことすらしなかった。しかし、対応をしなければならない。相手は国民団結局だ。


「スズナ君、ならば『異能』を使う。後部座席に集中させれば、僕らはいないことになる。ここで見つかるわけにはいかないのだろう?」


 尚も、彼女は反応しない。前に並ぶ車はあと三台。すぐに順番が来てしまう。彼女は何が気に入らなくてその態度を取っているのだ? ……自分の身を危険に晒してまでそうするほどの確執は二人の間にはなかったはずだ、平生の言い合いは別とすれば。だがそれだって互いの信頼関係を破壊するものではないだろうに。


「スズナッ」


 ナルシスは、ついに痺れを切らした。彼女の、椅子の上に置き去りになっている左手を素早く手にしようとする。そうして「異能」の作用範囲の中に彼女を置こうとしたのだ。彼女が何を考えているのかは分からないが、今はとにかく隠れるのが最優先だった。


 の、だが。


 彼女はその手が触れたのに気づくと――瞬間、視線がようやく彼を見るが、そこには敵意すらあった――素早くそれを振り払ってしまった。


「必要ない」


 と言って。


「な……」


 ナルシスのその絶句に彼女は答えない。その間に車は微速前進し、検問の中に置かれる。ナルシスは一瞬自分だけでも隠れるか迷ったが、ナンバーツーとして多くのことを取り仕切っていたスズナなしではこの先の運営はできない――結局のところ遅かれ早かれ捕まってしまう。そうした迷いは、彼から時間を奪った。窓の外から、職員が中を見る。目線が合う。


「あ……」


 次の瞬間、きっとあの職員はドアを開けるだろう。そして彼らに身分証の提出を迫る。問題はその後で、それが偽造かどうかはデータベースとの照合で明らかになってしまうだろう。そうなれば終わりだ。職員はナルシスたちを連行し、その取り調べの中で彼らの正体は明らかになる――破滅が待っている。


「……!」


 しかし、ナルシスの予想にないことが起きた。職員は窓の中を見て、どういうことか目を見開いたのだ。そこには驚きがあった。


 どういうことか――しかも、視線の先にナルシスはいない。スズナの方を見てそうしていた。一瞬、彼女が一度逮捕されていることをナルシスは思い出した。そのときの情報が職員の頭にはあったのか? ……いや、だとすれば驚く必要はない。ただ粛々とやはり身分証を回収して、それが偽物であることを確認すればいいだけのこと。しかし彼はそれすらしなかったのだ。


「――失礼しました。」それから、運転席の方へ行って、言った。「どうぞ、お通りください」


 運転手はそれに無反応のまま窓を閉めると、それと同時に車は走り出す。そしてハイウェイの方向へハンドルを切る。


「……スズナ君?」何が、起きた?「一体、どういうことなんだ?」


 その問いにも、やはり、彼女は答えなかった。

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