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第76話 シャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツ主席行政官

「それで――」シャルルは不満を隠そうともしなかった。「この戒厳令はいつまで続けるつもりなのですか?」


 三日ほど過ごした本庁舎執務室には、淀んだ空気が充満していた。窓を開けることは許されず、カーテンも閉め切っている。何故ならそんなことをすれば彼が狙撃される危険性がある――からだそうだ。


 それを強硬に主張したのが、目の前の彼だ。初老の一上職。細身の胸にはいくつもの勲章がある。鋭い目つきはそれだけで犯罪者たちを震え上がらせたことだろう。


「は。今般の暴動に際し、臨場した一中職が一名死亡。他死傷者多数が発生しています。それを引き起こした首謀者たちを特定し逮捕するまでは継続されるべきだと思われますが」


 しかし、シャルルには長い間欲しかったおもちゃをようやく買ってもらった子供のように思えた。彼らは表情に出さない術を身に着けているから見た目には分からないだけで、言外にはしゃいでいるようだった。


「しかし、未だに書類一つ回ってこないというのはどういうことなのです? 現状のこれは、法律違反の状態だと言える。私はサインした覚えがない」


 戒厳令には、いくつもの前例がある。中でも「大反動」の際に発布されたものが最も直近のものである。そのときですら、主席行政官たるルイが襲撃から生き残り、書類にサインして初めて発動した。しかし今回はそれを待たずして各国民団結局事務所へ命令が下っている。これは法治主義の観点から言えばあってはならない事態だった。


「スピードが必要でした。さもなければ首謀者たちはどこかへ潜伏しかねませんでしたので。必要書類については目下用意させています」


「……まだ完成していないと? 正気ですか?」


 日曜に発生してその日の内に発動した戒厳令の書類が、まだ用意されていないと?


 もう三日も経ったのに?


「お恥ずかしながら、あまり作成されない書類ですので作成に時間がかかっています。今週中には完了するものと現場からは聞いています」


「どうかな? 前回のものを見させてもらいましたが、実際に書類を作るとなると失効期限を定めなければならない。それが困るから言っているのではないかな?」


「穿ったものの見方をされる。我々は最善を尽くしております」


「期限がなければ自由恋愛主義者を根こそぎにできると思っているようですが、それは大間違いだ。過度な弾圧は共感を呼んでしまう。一方で彼らをより過激な手段に駆り立てる」


「それによる被害を未然に防ぐための戒厳令です。『市民』も支持しましょう」


「しかしです、一上職。」シャルルは言った。「現に、戒厳令は『市民』の自由を奪っている。買い物にも一々前日までに申請を出す必要があるのでは、経済活動は大きく制限される。いつまでも続けることはできません」


「で、ありましょうな。ですから申し上げています通り、できる限り早く今回の首謀者を見つけ出す必要があります」


「…………」そういうことでは、ない。「それは当然のことです。私が言いたいのはそういうことではなく、より政治的なアプローチも視野に入れるべきだと考えます」


「? というと?」


「彼ら自由恋愛主義者に譲歩する、ということです――彼らの全てが過激派ということではないでしょう。ならば、彼らの要求を一部受け入れることでその勢力を容認派と否定派に分断できるはず。我々が相対すべきは後者ということで――」


「……失礼ながら申し上げます、シャルル様!」流石に一上職も機嫌を損ねたようだった。眉根に皺が寄る。「アナタ様が自由恋愛主義者に寛容なのはもちろん存じ上げております。しかし、その態度は今度限りは改められるべきかと。先に剣を抜いたのは彼らだ。彼らは決して平和的な集団ではなく、ダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスなどという活動家も例外ではないと思われます」


「…………」


 シャルルは、それに反論しようと思った。が、できなかった。彼の言うことは事実だ。一見関係ないように思われるダイモンにしても、五年前に思想的には一度死にかけた自由恋愛主義を、ここに再興したのは実際彼である。彼がいなければ、このような事態にはなっていないというのは確かにその通りだった。


 しかし、彼はシャルルの命を救った。オウカ・アキツシマが彼を殺そうとしたのを、話し合いによって無血のまま治めてみせた。その精神は尊敬されるべきで――シャルルもまた、それに報いるべきなのではなかろうか?


「シャルル様」その迷ったところに、一上職はそっと寄り添うように言った。「我々の考えるべきことはまずこの事態を治めることです。後のことはどのようにでもなさるがいい。しかしこの度の反動は、『大反動』のときよりも強大になる可能性がある。アナタ様の命すら危ういかもしれない」


「……分かっています。あのとき、この行政区に一度戻ってきていた私は命を狙われた――」


 それは、そうなのだ。彼ら自由恋愛主義者の暴力的な側面もまた、彼は知っている。彼の乗る自動車を密造銃を片手に襲う彼らの形相は、まだ瞼の裏にある。ならば飛び交う銃声も悲鳴も、まだ耳朶の奥に巣食っている。それは明日にも彼を取り殺そうとするかもしれない。過去が襲ってくるなどというのが幻想だとしても、現実の自由恋愛主義者はそう考えているかもしれない。


「――けれど、」だとしても、だ。「私は、この状況を好ましいとは考えていない。言っている意味が分かりますね?」


「……は」


「できる限り早急に書類を作成し、この戒厳令に首輪をつけます。もし明日までに完成しなかった場合、アナタは更迭される可能性がある。理解しましたか?」


「は」


 一上職は、内心不愉快だったに違いない。自分が逆の立場なら、確かにこのようなことを年端もゆかぬ少年に言われるのは腹持ちならないかもしれない。だが、彼は仕事人間ではあった。命令系統には忠実に従う者だった。


「失礼します!」そこにドアを勢いよく開けて声が飛び込んできた。「シャルル様! ルイ様が――!」


「――!」


 その言葉にシャルルは立ち上がる。名前を聞けば、そしてそれを伝えに来た使者の表情を見れば、何が起きたのか分かろうというものだ。


「父上が」嫌な予感が真実かどうか、確かめる以外に選択肢はない。「どうしたのだ」


「亡くなられました。先ほど、病院で――」


「………馬鹿な!」シャルルは、思わず怒鳴った。自分がそのような暴力的な態度を取れることに誰より驚きながら。「何故、危篤であると伝えなかったのか⁉」


「そ、それは……!」


「答えなさい! 誰が当直にいた? 誰が責任者だったのか⁉ 遅れた原因は何だというのか⁉」


「シャルル様、シャルル様――落ち着いて聞いてください。そういうことではないのです」


 ――殺されたのです。


 ――自由恋愛主義者に。


「…………何?」


 シャルルは、急激に脳が冷えていくような錯覚に襲われた。そしてすぐに立っていられなくなって、崩れるように座った。そしてどうやら本当に現実らしいということを感じて、頭の中で思考が飛びかった。


 自由恋愛主義者が? 一体どうして?


 どうして――あの病院にいたというのだ?


 そこら中にいるというのか、彼らは? 社会の一部に溶け込んで、潜伏している。それが今、牙を剥いたということなのか?


 だとすれば、戒厳令は拡大すべきではないのか? 全国に拡大して、一斉に自由恋愛主義者を検挙するべきだ。彼らは人殺しを厭わない危険な生き物だ。今すぐ駆除されるべき代物だ――


「――シャルル様」使者はほとんど泣いていた。「お悔やみ申し上げます」


 それを見て、シャルルは幾分か冷静になれた。過激派と穏健派がいて、その内の前者が今回の行動を起こしたに違いないのだ。それに、報復的な戒厳令強化は正当性は確保できてもこの経済的麻痺状態を大きく広げることになる。そうなれば全国の国民団結局が疲弊する可能性すらある。


「分かっている――分かっているけれど」


 けれど、父の死は、彼の理性を幾分か弱めてしまった。今や、彼は規制強化について踏みとどまるだけの意志力を失ってしまっていた。彼に今誰かが入れ知恵すれば、それに従うかもしれない。そう感じた彼は、すぐさま人払いをかけた。一人で悲しむ時間を作ったことにして、一度現実から逃げた。彼が動き出したのは、一時間後のことであって、そのとき彼の肩書はもう主席行政官になっていた。

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