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第74話 その友達という言葉が、

 一台分の車窓が、トウキョウの街並みを映し出している。特徴的を通り越して象徴的とも言えるビル街はとうに背後へ消え、今は背の低い雑居ビルや商店街が挙って閉口している光景だけが見える。


 だが、その逆はあり得ない。


 その車を街並みたちが、正確にはそこに生きる人々が見ることは決してない。


 それは、半分透明だと言えた。否、透明というにはあまりに存在感があった――恐らく、視覚情報としては残ってしまうだろう――が、それは一陣の風を感じることはできても見ることはできないようなものである。認知はできても認識まではできない。


 それは、そういうものだった。


 そういう能力であった――「異能」であった。


 彼のそれは。


「…………」


 視界の非対称性を示し続ける窓を眺めながら、ナルシスは静かに、しかし眠ることはしなかった。夜明けはまだだというのに、彼の瞼に睡魔が来訪することはなかった。まんじりとしない。瞬きすら、しなかったかもしれない。


「…………」そのとき不意に、スズナが言った。「よかったのか?」


 彼女は隣の席に座って、同じく窓の外を眺めていた、ことにナルシスは彼女の方を向いて初めて気づいた。それから彼女の切れ長の視線だけが彼を見て、それに相対するより早くナルシスは車窓へ視線を戻してから言った。


「何がだ」


「エーコのことだよ――あんな別れ方でいいのか? 下手すれば今生の別れになるかもしれないっていうのに、随分淡白というか、冷淡だったんじゃないか?」


「ああ。アレが僕にできる精一杯だ。本当はノ・オオクラ邸に忍び込むだけで充分危険を冒している。僕の『異能』がいくら他者の認識に作用するものだったとしても、だ。第一、車で待機していた君たちはその間全くの無防備になる。戒厳令下でそれは避けたいところだろう」


「そういうことを言っているんじゃねーんだよ俺は。一応はトップってことになっているお前に心残りをされると、後から俺らが迷惑をするんじゃねーかって、そういうことを言ってんだ」


「そういうことなのだろう? ……だから言っている。心残りなんてない。僕は彼女を吹っ切った。彼女は『内閣』家の人間で、僕はその体制を壊そうという側にいる。この事実にどのような感情を抱いていたとしても、それは無駄なことだ。そして賽は投げられた」


 そのとき、車は検問を通過した。誰も彼らの存在に気づいていない。縦しんば気づいていても違和感を覚えることもなく目の前を素通りさせた。この橋を反対まで渡れば、サイタマだ。戒厳令がまだ発布されていない都市。彼らが当座目的地としていた都市だった。


「…………」スズナは、自分の内にある不満をどうにか飲み込んだ。「ま、覚悟をしているって主張するなら、それでいいがね――見るからに未練たらたらで上の空な状態よりは、まだマシだ」


「主張しているのではない、それは事実だ」


「へーへー」


 ナルシスはいかにも納得していないかのような声色のスズナに何か言ってやりたい気持ちになったが、彼女は窓の方を見て取り付く島もない。その態度に阻まれて、ナルシスは口をいくらか運動させた後、窓の外を見る作業に戻った。その先には、アラカワ・リバーが夜を映して黒々と見える巨体を横たえていた。


『とても大きな川ですね!』窓際に座るエーコが言った。『私の家何個分の幅があるのでしょう?』


 そのとき、彼らはまだ初等部の制服を着ていた。校外学習の工場見学へ向かうバスはクラスメイトで満杯で、確率論からすれば、彼らが隣り合わせに座っていたというのは奇跡的なものだった。ナルシスは歯が抜けたスペースを庇いながら発音した。


『幅は聞いたことがありませんが、長さは一七三キロメートルあるそうです。大人の男の人が一〇万人縦に並んでようやく同じ長さだそうですよ』


『へえ! ナルシスさんは物知りなんですね?』


 ――物知りなものか、事前に調べて来たんだ。


 そうは言わなかった。言えるはずはない。そんなことを言えば、自分が付け焼き刃なだけだということがバレてしまう。彼は咄嗟に得意げに鼻の下を擦ってみせた。そうすると抜けた前歯の付け根が押されて痛かった。


『紹介しますね、ナルシスさん』瞬きをすれば、彼女は中等部の制服を着ていた。『こちらはシャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツさん。北米大陸行政区に留学していたんですが、この度戻ってきまして』


 よろしくポンペイア君、と言うシャルルは掌を差し出してくる。握手を求めていることは誰にでも分かる。彼の柔和そうな顔を見れば、たとえ手を出されなくたって同じことを感じるだろう。だがそのときナルシスには胸騒ぎがしたのだ。頬の赤色のできものがどうやら慢性的なものになりそうだという予感がしたときと同じような。


『よろしく――』


 だが、そのときもそれ以外彼は何も言わなかった。そうして手を差し出して、お互いに握り合う。それから彼らはオブ・プレジデントさんとポンペイア君からシャルルとナルシスとなった。そして一位と二位となり、そして。


 そして、好意対象者とそうでない者になって。


 そして、心から愛する人と信頼できる友人になって。


 そして、体制派の若きホープと反体制派の首領になった。


 そして――彼は、今や、何も言わなかった。


 愛していると、そう言わなかった。


『その友達という言葉が、』その代わりに、言った。『僕にとって呪いなんだ』


 だが、それすら隠した。誰にも届かないよう打ち消して、その呪詛とも取れる言葉を彼女に向けぬよう胸の中に戻した。


 彼の言葉は嘘ばかりだ。


 自分の本当の部分を見せないよう取り繕って、そうやって他人に気に入られようとする。


 だが、それは上滑りするばかりなのだ。表面をなぞって、伝えた気になっている。その他人を傷つけることで自分が傷つくことを恐れているからだ。傷ついた気になるのを怖がっているからだ。


 だから、呼び名が変わろうがどれほどの時間を過ごそうが、彼という存在は彼女の心へ深く突き刺さることはなかった。突き刺していないものが、そうなることはないのだから。


 それが、あの夜の出来事ということであった。


 二人は、互いに川を挟んだ向こうにいる。ナルシスが行ってしまったのだ。自らの足で、遠ざかった。


 だが、最早、後戻りはできない。


 友人にさえ、戻れない。


 自分で言ったように、賽は投げられたのだ。


 通すしかない――自分の嘘を、そして意思を。


 たとえ、その先に彼の望む未来がなかったとしても。

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