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第73話 さようなら

 がちゃ、というドアの音でエーコは目が覚めた。もう朝か、と思ったのだが、レースのカーテンの向こうの景色はまだ世界が闇に包まれていることを示していた。少し腫れぼったい目――今日も泣いてしまったようだ――を擦って、彼女は身を起こす。


「…………?」


 すると、そこにはブレザーを着た一人の少年が立っていた。第十三学園の制服。その出で立ちには見覚えがある。ナルシスだ――しかし何故ここにいるのだろう? ここはエーコの自室。今日のことがあったから警備は倍増している。だとすれば――


「――いるはずがない」推定ナルシスはそう言った。暗闇でよく見えないが。「そうお考えでしょうね、アナタは」


「ええと、ナルシスさん、でいいのかしら?」


「そうですね。その認識で間違いはない。しかしこれは夢のようなものだと思ってください。現に、僕がここにいるはずはない。だとすればこれは幻の類だということになりましょう」


 そう言うと、ドアの辺りから、ナルシスは窓の方へ少し歩いた。そうして部屋の真ん中に来ると、そこで立ち止まり、その視線の向こう側を見る。確かに、その雰囲気はナルシスのようだけれど、どこか現実離れした様子も感じられる。足がしっかりあるかどうかエーコは確認したかった――極東列島行政区では、足がないのが幽霊の条件と言われていた――が、家具が邪魔になってできなかった。


「夢幻だというのなら、アナタは何をしに来たというのですか?」


「僕は、最後にアナタに会っておきたかった。会って話をしておきたかった。そして決別したいと思って、ここに来ました」


「最後? 何を言っているのですかナルシスさん? きっと、また、会える――」


 微笑むエーコに、ナルシスは首を横に振った。


「会うことはできませんよ。二度と会うことはできないです。会うことができたとして、アナタは僕のことを許すことはできないと思います。それだけのことが起きる」


 そう言い切るナルシスが、エーコはおかしかった。


「ナルシスさんったら。いつだって私たちは会うことができるはずですよ。こうして、夢の中で会えるのですから――」


「僕が起こすからです。エーコ・ノ・オオクラ=キャビネッツ。選挙と同じようにね」


「……同じ? アレは、シャルル様が――」


 そう言うとき、エーコは少し寂しさを感じた。彼とはしばらく会っていない。それこそ選挙の一件以来疎遠になってしまっている。彼が公務で忙しいのもそうだが、それ以上にどうにもぎくしゃくした感じがあった。彼は何かに思い詰めていたし、そのことをエーコには見せたがらなかった――それが尚更彼女には不可解だったのだった。


 ナルシスについてもそうだ。選挙以来、彼もどこか別の方角を向いたままで固まっているようだった。その方向の違いがエーコには引っかかって感じられて、受け入れられなかった。


「ええ、そうです」しかしそのナルシスはそのとき頷いたようだった。「でも僕は自分の意志でアレに出馬した。ではアナタはそのとき何を感じていた? ……少なくとも喜ばしい感情ではなかったでしょう」


「それは……ごめんなさい。どうしても、私にはアナタが立候補したことが理解できなかった。自由恋愛主義者のような考えに思えて、それはどうしても怖くて、だから護衛の人に伝えて遠ざけようとして――それは、アナタのことを考えない態度でした。どうか許してください」


「そのことは、」彼は、そこで言葉に詰まった。「理解しています。僕とアナタは違う生命なのだから、アナタにはアナタの感じ方というのがある。僕には僕のそれがあるようにね。だから、僕の感性には、それはアナタを遠く感じさせた。結局アナタは『内閣』家の人間でしかなくて、その出自は僕たちをどこまでも引き裂いて間に線を引くものなのだと」


 そして彼は、ふと歩き出す。窓辺の光の中へ入るといよいよ彼が現実の人間なのかどうか分からなくなる。本当に夢幻の世界へ入ってしまったようで、本当に彼が消えてしまいそうで、エーコには動悸さえした。


「その事実は、実のところ僕には分かり切ったことだった。了承してそれでもどうにかなるだろうと生きてきて、どうにもなりはしなかったんだ。その結果が、今の僕です。やりきれないままやり過ごして、やりようのないところまで追い込まれてしまった」


「……何の話か、よく分からないのですけれど……」


「そうですね。僕にも実のところよく分かってはいない。どういう話なのか分かってしまえば、それはただ辛いことだということだけは分かっているのですが」


 その態度は、彼にしては曖昧だった。いつだって明確に明瞭に明晰に話す彼にしては、随分哲学的な言い回しを好んでいるようだった。


「ところでエーコさん。」その彼は、今度は詩人だった。「アナタは世界で二番目に惨めなことが何か知っていますか?」


「二番目?」


「それは、陽だまりがあることを知りながら、それを眺めることしかできないことです。僕は長らくそれに甘んじてきた。そしてまだ陽だまりを知っているだけ幸せなのだと思ってきた――でもそれは間違いだ」


 何故なら一番惨めなのは。


 陽だまりがあると知りながら、そこへ一歩踏み出そうとすらしないことなのだから。


「つまるところ僕は、だからアナタに別れを告げるんです。自分を、世界さえも変えてしまうためにこの場から逃げる卑怯をやろうというのです。もちろん、それをアナタは笑ってくれていい。許さなくていい。それでアナタが笑顔でいてくれるというのなら、そうしてもらった方がいい。それが僕の望みです」


 彼は、そのとき胸に手をやって、じっとエーコの方を見た。彼女はそれを受け止めて、ただ何故かそこに離別を感じた。


 本当に、彼はいなくなってしまうかもしれない。


 どうにかして、ここにいてほしい。


 確かに彼は彼女と道を違えたけれど、だとしても自分の大切な――


「ナルシスさん。アナタの想いは分かりました」


「……エーコさん」


「でも、大丈夫です。私がナルシスさんを許せないことなんて、あり得ませんよ。確かに私は臆病でした。アナタのことが怖くて仕方なかったときがありました。でもそれは私が悪いのであって、アナタのせいじゃない。だから逃げる必要なんかないんです。たとえ何があろうとも、私たちは友達です。私はアナタを信じています」


 友達なのだから。


 彼はいつだって傍にいた。出会ってからずっと、自分に寄り添ってくれた。同性の友人にだってここまで頼りになる存在はいない。シャルルぐらいのものだ、自分を理解してくれる存在として彼を上回る者は。


「…………」


 しかし、その目一杯の肯定を前にして――ナルシスは顔を曇らせたようだった。どうして? ……その疑問に答えるより早く、彼は何かを呟いたようだった。だが、それはどうしてか静かな夜の街にすら消え入ってしまう。まるで彼がその言葉の存在を消してしまったかのようだった。


「――それでは」そして、ナルシスは言った。行った。「僕はもう行きます。どうかお元気で」


「……そうですか。ナルシスさん、御機嫌よう」


「ええ、エーコさん――さようなら」


 え、と聞き返すより早く、ナルシスの姿は本当に幻だったかのように消えてしまった。気づけば窓が開いていて、そこから風が吹き込んでいる。エーコは首を傾げながら近づいてみるが、開けた覚えはないし、いつの間にかそうなったとしか考えられない。


「……お嬢様」そのとき背後でドアが開いた。そこには彼女の侍女がいた。「どうかなさいましたか?」


「え? 何が?」


「ですから、わたくし共をお呼びだったのでは……? お声がしましたので馳せ参じましたが」


「……聞こえなかったの、彼の声が?」


「彼? 誰のことです?」


 侍女は本当に不思議そうに言った。彼女が嘘を吐く意味はないし、本当に知らないのだろう。第一、この厳戒態勢の中誰かが入ってきていたなんていえば、大事になる。それはエーコも嫌だった。


「……いいえ、何でもありません。多分、寝言でしょう。そういうことにしておいてください」


「はあ……? 左様でございますか。それでは」


 侍女は首を傾げながらも、すぐに仕事の本分を思い出したように一礼してその場を辞した。それを見届けてから、エーコは開いたままの窓に目をやる。それから、さようならと言った彼のことを思って、少し寂しくなった。

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