第70話 対談・対立・独立
「……シャルル」ナルシスは振り返る。「今日は……公務はいいのか?」
彼の周りには、やはり黒服の姿が目立った。すると彼らはナルシスの姿を認めるや否や、シャルルとナルシスとの間に割り込んで道を塞いだ。ナルシスはそれを見て静かに歯噛みをしたけれど、それを押しのけてシャルルは前に出た。彼は護衛に視線を送って下がらせたのだ。
「ン、ああ。」それから返事をする。「部下に任せてあるんだよ。気遣ってもらってありがとう」
「気遣ったわけじゃ……いや、何でもない。もういいか? 悪いが用があるんだ」
何にしても、今は彼と話したい気分ではなかった。護衛の視線が厳しいものだったのもそうだが、結局ナルシスは彼を傷つけようとしたのである。その原点は彼の妄言に対する怒りだったけれど、そこにエーコの愛に対する嫉妬がなかったかと問われればそれを否定することは今のナルシスには不可能だった。ナルシスは背を向けて去ろうとした。
「別にいいけれど」シャルルは、その背中を射貫いた。「君こそ、今日はいいのかい?」
「……」ナルシスはゆっくり振り返る。「いいって?」
「演説だよ。今日はお仲間はいないのかな?」
「…………」
あの事件以来、彼らとは連絡もつかない。人波の中に彼らの姿も見たけれど、声を掛けすらしない。視線を一瞬やって、そそくさと離れるばかりで、誰も近寄らない。それは、そう言うことだった。
「どうしたんだい、ナルシス?」
「ああ何でもないよ。気にしないでくれ。大したことじゃないんだ。」だって全部僕のせいなんだから。「君には関係ないことだしね」
「関係ないことはないさ。選挙のライバルなんだ。少なからず順調かどうか知っておきたいんだよ」
「順調も何も」ナルシスは自分でも分かるぐらい卑屈に笑った。「僕は、もう立候補を取り下げるんだ」
そう言った瞬間、ナルシスはほとんど泣き出しそうだった。爽快感があるかと思ったが、まるでなかった。まるで後生大事に抱えていた宝物がゴミクズだと分かってどぶ川に投げ捨てたかのような感覚だった。今までの苦労がぐしゃぐしゃに丸まって、胸の中に詰まって、ただただ苦しいばかりだった。
「……うん?」シャルルは首を傾げた。「……何だって?」
「だから、選挙に出るのを止めるんだ。こうなってはどうせ勝てやしないし、もしも勝ってしまえば、そこに不用意な文脈が乗ることになる。このご時世に『市民』が『内閣』家を打倒するようなことがあっちゃ、君だって困るだろう?」
「いや、それは……」
「大体、これは僕のせいだけれど、国民団結局に逮捕された立場だからね僕は。取り調べじゃ自由恋愛主義者なんじゃないかって疑われたよ。自分の兄にすら! ……あんなのはもう御免だ。よかったじゃないか。君の勝ちだ。いつものように」
――違う。
こんなことが言いたいんじゃあない。
だけれど、言葉は全てこういう形で発せられてしまう。どうしたって素直になんかなれない。だってそれは事実だ。少なくとも事実から生じた言葉であるからには、どうしたって止まらな――
「――ふざけるな!」
びく、とナルシスはいつの間にか俯いていた顔を上げて、シャルルの方を見た。彼はいつになく真剣に怒った顔でナルシスを睨んでいた。
「そういうことじゃあないだろう。いつもの君はどうしたというんだ? いつだって君は真っ直ぐに立ち向かってきた。何度だって……それを、諦めるっていうのか、他ならぬ君が!」
――何だ?
ナルシスは、その言動に違和感を覚えた。やはり、今日のシャルルは何かがおかしい。ナルシスの言葉が、シャルルの何かを刺激してしまったらしい。しかしそれは今まで存在していなかった地雷だ。彼が自分に向かって癇癪を起こすところなんていうのは、ナルシスは初めて見た。
「だって……」しかし、だからといって受け入れられるものではない。「仕方がないじゃないか。勉強とは訳が違う! ……努力すればある程度までどうにかなる世界とは違う。選挙というのはその身一つで戦えるものではないだろう? それは君も身に染みて分かっているはずだ。麗しき『内閣』家のご子息だ。いつだって強者の側でいられる身の上だろう」
「君という人間は……! 君はそうやって自分自身の決断を間違っていたと切り捨てるのか? 君に意志というものはないのか⁉ 根性は⁉ 強者とか弱者とか、そういうことじゃあないだろう⁉」
「そういうことなんだよ、選挙というのは! 君は『内閣』家で、僕は『市民』だ。君は生まれつき何でも持っていて、僕が持っているのはほんの少しだ。それを分からずに対等だって? 笑わせる!」
「何でも持っているわけじゃあない――何でもできるわけじゃあない! 君は何も分かっていない!」
「だが君の方が持っていることは否定しないんだな? 君はいつだってそうだ。いつだって他人を無意識の内に見下している!」
「見下している……⁉ だって⁉」
「そうだろうが⁉ そして自分が生まれながらに恵まれていることを無視して、自分一人で生きているかのように振舞うんだ。だがそれは僕のような『市民』からすれば嫌味だ。それが分からないから、君という人間は……⁉」
シャルルという人間は。
何だというのだろう?
結論は上手く言葉にならなかった。心にない心ない言葉は、形になる前に形なしになった。
こんなことが言いたいわけではない。
どうしてこんなことになってしまったのだ? ……答えをこの場で見つけるには、時間も余裕も足らない。
覚悟さえ、ない。
自分の放った言葉を受け入れるそれなど、あるはずはない。
「君は……」ナルシスは、歯を食いしばり、目線を逸らす。「君は、卑怯者だ」
「…………」
「もういいだろう。朝の貴重な時間を君のために捧げる趣味は僕にはもうない。悪いが行かせてもらう」
そう言って、ナルシスは逃げるように踵を返して校舎の方へ向かっていった。いつの間にかできていた人だかりを押しのけるようにして――大抵は、彼を恐れるように自発的に離れていったが――彼は進む。だがそれは逃げていたのだ。シャルルから、そして自分の犯した罪から。
(卑怯者は)ナルシスは、独り言ちる。(僕の方だ)
しかしそれを面と向かって謝るだけの勇気があったならば、そもそもそんな言葉を言う必要さえないのだ。そして言ってしまってからではそれは遅い。ナルシスはそう感じて、ほとんど泣き出しそうになりながら、教室へ急いだ。
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