第7話 拉致監禁は重大犯罪
「ルーヴェスシュタット君……?」
混乱の極致にあったナルシスは、薄暗い部屋を見回す。スズナ(と、見覚えのない男二名)の背後にあるドアの向こうには階段が見えていて、上の方からは光が漏れている。とすれば地下室にはいるのだろうが、何もかも大きくすればいいと思っているかのような学園の設計者がこんな小さな部屋を作るとは思えない。
だが、学園外に出た覚えはない――し、ナルシス自身、こんな十年単位で掃除のされた形跡のない部屋に自らの意志で入るとは到底思えなかった。
と、いうことは――
「……僕は拉致された、ということらしいな? それも君に」
「これは予想外だな。」スズナは目を少しだけ見開いた。「『ここはどこ、私は誰?』ぐらいは言うものだと思っていたが」
「君の手の中にあるバケツと状況証拠を組み合わせれば誰にでも分かることだ。大方、学園外に出たタイミングで何らかの方法で気絶させられたあと、ここに連れ込まれたというところだろう」
そこまでナルシスが言うと、ふん、とスズナは感心したのか呆れたのか分からないような鼻の鳴らし方をして、まだ水の滴っている青いバケツを適当に放った。それが口の方を下にして安定するまでのガラガラという音が、ナルシスの記憶を三倍速で復旧させていく――裏門へ行ったという情報をクラブ活動中の級友から耳にしたあと、確か、裏路地に出た彼女を見つけた。薄暗い方へと行くその背中を追っていくと、突然後ろから何かを被せられたのだ。視界を封じられて焦るナルシスの腕に鋭い痛み。針が刺さった、と思ったときには、その青い視界が暗くなって――今に至る。
「……できれば、もう少し優しい方法で誘拐してほしかったものだな。」反射的に腕の注射痕を確認しようとして、それができないことをナルシスは理解する。手足が拘束されていた。「布の袋と違って擦り傷はできないだろうが、しかしプラスチックのバケツでは鼻をぶつける。僕のそれは君のと違って特別高いのだから、配慮してほしかったものだが」
「何だ、テメェは?」ナルシスはスズナに言ったつもりだったが、その背後にいた男が剃られて存在しない眉を顰めた。「こっちはテメェがくたばるなら何だっていいんだ。その鼻を削いでからだって構わねーんだぞ」
それから、近づいてきた彼はこれ見よがしに折り畳み式のナイフを取り出した。暗闇の中でも光るほど鋭い刃先を、ナルシスの鼻先で揺らしてみせたのみならず彼はアイスキャンディーにそうするようにその鎬を舐めた。
それをナルシスはじっと眺める。否、見つめる、というのが正しいかもしれない。どちらにせよ男――スキンヘッドで、スズナほどではないが体格がいい――はその視線に気がついて眉根の角度を深くした。
「……何だァ?」
「美味いのか、それは?」
「あぁッ⁉」ふと沸いた素朴な疑問に激烈な反応が返ってくる。「舐めてんのかテメェッ!」
「いや、舐めていたのはそちらだろう。その行動に意味があるとは思えない。舌を切り落としたいなら君の自由にすればいいがそういうわけでもないのなら、僕の頬を一撫ででもすればよかったのではないか?」
「ならお望み通りにしてやろうか、今すぐ……!」
「よせ、アリグザンダー。」スズナはアリグザンダーの腕を掴みつつ、双方に呆れた目線を向けた。「こいつはいつもこんな調子だ。一々反応していたら脳卒中でこっちがくたばることになる」
「そうですよアリグザンダー。」もう一人の男が、かけていた眼鏡を外してハンカチで拭いながら言った。「お嬢の言う通りです。アナタがチンピラ上がりなのは重々承知ではありますが、だからといっていつまでもそのメンタリティでいられたのでは困ります。アナタのそういうところを見限って彼女もアナタをフッたのではないですか?」
その瞬間、アリグザンダーなる男の方からかちんと音がしたようだった。スズナを振り払いつつ文字通り矛先を変えて、スーツ姿のオールバック頭に眼鏡の男の方へ近づいていく。
「キーンよォ……」それが、その相手の名前らしい。「テメェ随分偉くなったみたいじゃねぇか。チンピラ上がりはテメェもだろうが。お高く留まりやがって。最近いいおべべ着てるからって中身まで上等になったと思ってんのか?」
「『上等になった』? ……勘違いしないでほしいですね。私は以前からアナタより上等でしょう。その証拠に、出会ってから今日まで繰り広げられた一万四千三十七戦の喧嘩の内八千百二十一戦を私が勝利しています。単なる確率の偏りと呼ぶには少々大きな差であると思いますが?」
「はん、そうやって数字でモノを見ているから、薔薇を九十何本だか買ってきたのか? その癖デートすっぽかされた上、本物の好意対象者に見つかって必死に誤魔化す羽目になったんだよな?」
「…………今考えれば彼女は国民団結局のスパイである可能性があった。彼女と連絡が取れなくなったのはむしろ好都合と言える。それと、薔薇は九十九本です。そこはお忘れなきよう」
「馬鹿だなお前。スパイが監視対象者と連絡しなくなるかよ。普通、デートの約束なんてしたらノリノリで捕まえに来るぜ。とすれば、お前はただ弄ばれただけだな。今頃お前みたいな上っ面だけのペラペラ男じゃなくて中身のある男をナカに入れているところだろうよ」
瞬間、キーンの方からもかちんと音が聞こえた。
「――アナタのように下品な男は」それは、視線の冷却スイッチに他ならなかった。「コンクリートの床を這いつくばってカタツムリのように表面のカルシウムを舐めとっていればそれでよいのですよ。やり方が分からないなら今から教えてあげましょうか?」
「おーいいねぇ。単純で分かりやすい。取り敢えずそこで実演してもらうとするか? あァッ?」
「上等です――アナタは下等ですが。だから実力差というものが理解できずにこうして無謀な挑戦をするのでしょうね。とはいえ躾というのは常に上位者の責務。全うしてみせましょう」
「ああそうだな、だから俺はお前を――」アリグザンダーはナイフを適当に放り投げると、拳を繰り出した!「躾けてやるよッ!」
ヒュッ、という風切り音。ほとんどノーモーションで繰り出されたそれは、実戦経験に裏打ちされた熟練の代物で、一般人ならば何をされたのか分からないままノックアウトされてしまうだろう。対するキーンもそれを読んでいたかのような僅かな手の動きでそれを逸らそうとしつつ、それでいて反対の手を使って見えにくい下方からカウンターを狙う。ナルシスの動体視力で捉えられたのは大体そのぐらいのことで、実際には無数の駆け引きが繰り広げられているのだろう。実戦経験が全くない――体育の授業で武道を習っている程度だ――彼では、攻防に対する解像度が違う。
しかし、いずれにせよナルシスが、その格闘戦の結末を見ることは終ぞなかった。
「――馬鹿か、テメーら」
拳と拳が交錯する瞬間、嵐が吹いたからだ。
あるいは、横合いから突然暴力が生えてきた――というのだろうか。
それは左右から繰り出される一撃たちを全て受け止めた上で、弾力のままにそれをそっくり発射地点に返送したようだった。
そうとしか表現できない。
何が起きたのか、ナルシスには視認できなかった――それほどのスピード。
だから、結果だけがその場に残される。
その「結果」から言えば、二人は吹き飛ばされ壁に激突していて。
その間には、台風の目――の正体である、スズナが立っていた。
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