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第69話 禁じられた言葉

 翌日、ナルシスはやはり早い時間に目覚めた。それは習慣になって久しいことだった。結局、あのまま寝てしまったらしい。ナルシスは流石に汗臭い制服を一度脱ぎ、体をデオドラントシートで拭ってから新しいものに着替えた。


 そして、下に降りる――既にそこには人の気配があった。それに一度足を止めてから、しかし他に行く宛てもなくて、ナルシスはリビングへ足を踏み入れた。


「…………」


 そこにイカロスはいた。無言でコーヒーを飲んでいる。その正面には食べ終えられた朝食。


 だがそれは一人前しかない。


 彼は一人きりで、リビングに他は誰もいないかのように振舞っていた。


「…………」


 ナルシスはそれに強く動揺した。したのだが、何も言うことはできなかった。自分が悪いのだ、と思うと、そこから先は相手を非難する言葉など何も思い浮かばないのだ。噓偽りでどうにか誤魔化そうとした自分が悪いのだ。明かすことができないまでも――いや、明かすことができない以上、どう取り繕ったところでそれは不誠実なのだ。


「…………」


 ナルシスはやはり何も言うことなく、冷蔵庫に向かって歩いた。その中にあるものを使って朝食を作ろうとしたのである。卵などそこに入っていたものを手に取って、ナルシスはコンロの方へ向かった。幸い、時間はある。目玉焼きでも作ればいいのだ。


「…………」


 イカロスはそのときコーヒーを飲み終えたのか、流し台へ歩いてマグカップを持っていった。そうして二人は一時的に並んで立っていた。そこにナルシスは少し視線をちらつかせたが、イカロスの方は全く彼の方を見ずに自分の用を済ませてリビングから出て行ってしまった。


「…………」


 ナルシスは一瞬その背中に何か言わんと口を開いたが、それが音声になる前に扉は閉ざされた。彼は少しの間そのせいで動けずにいたが、フライパンの方から焦げた匂いがしたことで現実に引き戻された。急いで火を止めると、茶色がかったそれを何とかフライパンから剥がし、皿に盛りつけた。


「……いただきます」


 それから席に就いて、パンと一緒にそれを食べる。何の味もしない。塩と胡椒を入れ忘れたことにそのとき気づいたが、恐らく原因はそれだけではないだろう。どちらにせよナルシスは冷蔵庫まで行ってソイソースを取った。それを目玉焼きかけて、もう一度一口。マシにはなったが焦げ臭い味だけは何ともならない。ナルシスは悲しくなった。


「……行ってきます」


 そのときドアの向こう側でそう声がした。そしてそれは返事を待たなかった。ドアの音にナルシスの迷ったような吐息はかき消された。少し上げた腰を再度椅子の上に戻し、ナルシスは残りの食事を何とか平らげることに成功した、食欲などなかったのだが。


「……行ってきます」


 それから準備を終えたナルシスは、誰もいない家に向かってそう言って、ドアに鍵をかけた。今日からしばらくは学園に直行だ。スズナとの接触はいくら好意対象者だからといってもできる限り減らした方がいいだろうという判断だった。第一、連絡なら学校で会ったときにでもできる。むしろその方が目立たず自然だ。


「…………」


 しかしそれは合理性の話でしかなくて、つまり彼の心理とか思いとかとはまるで無関係のことだった。今の彼は、平生の態度からすれば驚くべきことだったが、スズナですらいてほしかったのである。いや、彼女でなくたっていい。とにかく誰か知っている人が近くにいてくれるだけでよかったのだ。


「…………」


 それが叶わぬ以上、彼の足取りは重かった。しかし道のりは決まっている。それに従って彼は目的地に辿り着いてしまった。いつか水をかけられた坂を上り切ると、校門に多くの生徒が吸い込まれているのが見える。その流れに乗ればいいだけのことを、彼はのろのろと自分の足で進もうと努力していた。時折後ろからぶつかられて、舌打ちを食らう。


「…………!」


 それなのに、その足は突然止まる。流れていく人波の中に、彼はエーコの金色の髪を見つけたのだ。その直後には、彼は走り出していた。それは救いになるはずだった。彼女とは疎遠になって久しかったけれど、それでも優しい彼女は受け入れてくれるだろうという甘えもあった。だが彼は今他人に甘えたかったのだ。


「エーコさッ……!」


 しかし、そうして駆け寄ろうとした彼の行く先に、黒い幕が垂れ下がった。否、正確には黒服を着た護衛が立ち塞がったのである。彼らはそれだけでは飽き足らず、警棒すら取り出していた。それを突き付けられて、ナルシスの怒りは過熱した。咄嗟にそれを手で払って前へ進み――腕を掴まれて引き留められる。


「何をするんですか。僕は彼女と話が……」


「エーコ様は貴様とはお話にならない。分かったら離れろ」


「僕らは友人だ。アナタ方が知らないだけだ――エーコさん! 僕です、ナルシス・ポンペイアです!」


 そう叫んでみる。少し離れたところにいるエーコは、そのときようやくナルシスのことに気づいたようだった。視線が合って、何か言いたげに口元が動いている。それは迷いのようだった。だとすればそれは何分の一かの確率で彼に微笑んでくれるはずだった。


「…………!」


 しかし、ナルシスが絶望したのはそのときだった。彼女はそこからすぐ視線を逸らすと、護衛の指示に従って彼から離れていく。その動きはやけにスムーズだった。そうナルシスには感じられた。まるで彼女を狙った暴漢から離れる訓練のようだった。あるいは、その実践だったかもしれない。


「貴様ももう一度逮捕されたくはないだろう。」護衛が言った。「いいから離れろ。今までがおかしかったのだ」


「何を……!」


「分からないのか。貴様はシャルル様に暴行を働こうとした危険人物だ。そんな人間をあのお方に会わせるわけにはいかない。悪いがお引き取り願おう」


「それはッ……そうだが、しかし彼女にはそんなことをするつもりはない。だって僕はッ」


 彼女のことを愛しているのだから。


 ナルシスはそう言いかけて、口を噤んだ。


 それは禁じ手だった。


「ッ……」


「貴様が友人だったことは分かっている。近くにいるときはずっとマークしていたからな。しかしもうその友情も終わりだ。これはエーコ様のご指示なのだからな」


「エーコさんの……⁉ そんな馬鹿な、だって彼女は、」


 そう言った瞬間、ナルシスは護衛に胸を突かれて後ろに倒れ込んだ。石畳の上に制服が擦れて、ザリザリと音を立てる。どこかほつれたかもしれない。ナルシスは痛む体で護衛を睨むが、彼はそれを見下ろして平然と言った。


「お優しい方だ。こうして突き飛ばすだけで許してやれというのだからな」


「? それは、どういう意味だ?」


「聞いての通りだ。これはエーコ様が直々に下した命令だ。貴様を近づけるなとな」


 ――そんな馬鹿な?


 ナルシスは頭を殴られたような衝撃を受けた。あのエーコが、本当に言ったのか? あの、誰にでも優しい彼女が?


「いいか。あのお方はお優しい。だがそれは誰にでもそうなんだ。別に貴様が特別なわけじゃない。貴様はあくまで無数にいる友人の一人――そしてこの間の事件で見限られたということさ。分かったか? 二度と同じことをするんじゃないぞ」


 ナルシスの耳には、最早その言葉は半分ぐらいしか入ってこなかった。彼女に拒絶されたということが、彼の脳内を反響して彼を責めていたからだ。


(そうだ、本当に僕は彼女を愛していたと言えるのか?)ナルシスはその場に座り込んだまま立ち上がれなかった。(僕はただ、彼女の都合なんか考えていなかったんじゃあないか?)


 自分が好きというだけで、彼女の気持ちなんか考えずに突っ走っていたのではないか?


 彼女が愛している人物がいる事実を無視して都合のいいように世界を解釈していたのではないか?


 だとすれば――今がその極致だ。自分が甘えたかったばっかりに、彼女へ何も考えず近づいて、そして拒絶された。


 否定された、とすら感じるのは、それ自体がもう身勝手なのだ。


 だが彼は事実としてそういう感じ方をした。自分の全てを拒否されたような気がして、どうやって今まで生きてきたのかすら分からなくなった。


 だが、それが当然の報いだというのが、彼らなのである。


 自分のことしか考えない人間が、どうして他人の心を射止めることを許されるだろうか?


 ……護衛はいつの間にかいなくなっていた。それはつまりエーコへの手がかりを亡くしてしまったということだった。ナルシスは何とか立ち上がったけれど、ただ立ち尽くすばかりでしばらくは動けなかった。動きたくない。生きていくすら、ない。


 世界は彩をなくしてしまったのだ。今までの全ては彼女のためであった。いや正確には彼女が好きな自分のためであった。だとすればそれが完膚なきまでに叩きのめされてしまったならば、何をよりどころにして歩けばいいのだろう?


(分からない――どうしたらいいか)


 ナルシスは流れていく人波を眺める。彼らは目の前で何かが起きたことに気づいてそれを避けていたけれど、その中心にいたのがナルシス・ポンペイアだと分かると尚更大きく回避した。下手に近づいて関わり合いになりたくないのだ。


 何故ならナルシスは危険人物。


 公衆の面前でシャルルに殴りかかり、逮捕された人間。


 そんな人間にはもう誰も近寄りはしない。


「――やあ、ナルシス」その思考に、彼は水を差した。「どうしたんだい?」

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