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第67話 噓で偽りを隠す試み

 ナルシスとイカロスが自宅へと帰り着いても、二人の間に会話はなかった。無言で歩き、無言で鍵を開け、無言でそれぞれの部屋へ戻る。それはナルシスにとってありがたくもあったし、その反対でもあった。恐らく、ナルシスが吐いていた嘘――立候補しないという――はバレたに違いない。それを追及されないことはよかったが、だとして弁解の場をも与えられないということでもあった。


 ナルシスは自室のドアを閉め、鍵をかける。そうした後姿見の前を通ってベッドの上に横たわった。が、眠れるわけでもない。制服のまま寝ることは彼にはできない。きちんと風呂に入り着替えて初めて眠ることができる体質だった。今日ばかりはそれが恨めしいが。


(……あの手品は)だから、天井を見ることしか、彼にはできない。(上手くいったらしいが)


 手品、というのは、ナルシスたちの解放の決め手となったサン・マルクスの電話のことである。電話というのはアリバイとしては弱いが、少なくともないよりはマシであり、相手がいる以上録音や録画で済ませるのは難しいというメリットがある。


 だが、だとすればどうして電話を掛けることができたのだろうか?


 ナルシスは捕まっていたし、実際そういうわけで電話することはできなかったのだ。ならば電話口はサン・マルクスではないはずだが、その特徴的な波長は観測された。これはどういうわけか?


 答えは簡単である。


 録音を流しただけなのだから。


(情報収集であの庁舎の責任者への直通番号は割れていた。誰が出るか分かっていれば会話内容を推定することは不可能ではない。それにサン・マルクスからの電話となれば誰だって慌てる――主導権を握る余裕ができる)


 これがナルシスが党員に頼んだ保険であった。拘束されたことが学園に張り付いている監視員から報告された場合に録音を流すという手筈になっていた。


 残る謎は名前をどうやって正確に入れたか、ということだろうが――ナルシスは自分が拘束されるとしたらどの程度まで他のメンバーが巻き込まれるかということを正確に予想してある程度パターン化して収録していたのだ。合成が疑われないよう、それぞれのパターンで全部の尺を収録したのである。


 そしてその予感は当たった。


 国民団結局は支援者全員を逮捕したのである。


 ……訂正、一名を除いて。


(怪しいとは思っていた)ナルシスは瞬きをした。(が、まさか本当にスパイだったとは)


 最初に彼女を疑ったのは……出会った瞬間のことではあるのだが、では二度目はいつかといえば他の支援者と知り合ったあとのことだった。彼らの証言によれば、彼女がグループの創設者なのだが、彼女は他の学園からの転入生なのだという。ナルシスが調べるとそれはごく最近のことだった。


 ごく最近。


 より具体的に言えば、選挙戦が始まってからである。


 しかし、だとすればおかしな話である。その場合彼女は転入して早々選挙戦の話題を聞きつけ、それからグループを作り彼らを懐柔し、その後ナルシスと出会ったことになるのだ。その間僅か数日。少々スピーディーすぎる話であろう。


 あくまでもそれは直感の話であった。バージョン分けもしなかったし、投げ飛ばされたときには本当に驚いた。が、警戒していたおかげで不用意に情報を与えることもなかった、はずだ。そして情報を漏らす前に解放された。国民団結局からすればただ強引な手を使って政治力を消耗したに過ぎないだろう。


 故に、問題は別のところにある。


(立候補しないと伝えてしまっていたからな――)


 ナルシスは視線を窓の外に移した。問題は兄についてだ。彼の自由恋愛主義者への憎しみを鑑みれば、ナルシスのしたことは許せないことのはずだ。まして嘘を吐くなど――なおのこと、信用を失わせるものだっただろう。その根底に兄への遠慮があったとはいえ、それは結局失敗に終わったのだ。理由にできない。


 かといって、ナルシスはあの場で正直に言うこともできなかったのだ。言えば、却って彼を傷つけることになる。彼から恨まれることになる。それを許容できなかった。


(尤も、それ以上のことを自分はしているわけだけれど――)


 いずれは、彼とも戦わねばならないときが来るのだろう。だろう、ではない。絶対に来る。彼が「共和国前衛隊」二中職で、ナルシスが初恋革命党のサン・マルクスであるからには、彼らは対立する宿命にある。


「…………」


 ナルシスはふと暗澹たる気持ちになった。兄は敬愛すべき人間だ。この五年間一人で彼を養ってくれた。だが政治思想が違う。彼は自由恋愛主義を憎んでいる。その感情は理解できるし、むしろナルシスの感情より優先されるべきもののように思われた。何故ならそれは正しい、自然な感情の流れだ。失われた者への手向けとして憎むというのは。


 ならば、革命を止めてしまうか?


 ……それもできない。彼は彼の恋を諦めることなどできそうもなかった。たとえアレだけ拒絶されたとしても、まだ彼の中にある恋心は彼女を想って止まなかった。だが、正しさはイカロスの側にある。そう思われる。それは変わらない。


「――ナルシス」そこに足音、そしてイカロスの声。「少し、いいか」


 よくはなかった。今は彼と話したくなかった――誰とだって話したくはない。ナルシスはささくれ立って触れるものを全て傷つけようとする気分を何とか堪えようとしたが、どうにもそれは収まってくれそうもなかった。


 しかしいつまでも黙ってはいられない。ナルシスはどうにかこうにか起き上がるとドアの前まで行った。それからまだ一瞬迷って、ドアを開けた。顔は見れなかった。


「……何だい兄上」


「単刀直入に言う。どうして嘘を吐いた?」


 そうなるだろう、という予感があった。ナルシスはまだそれについて回答を用意していたわけではなかった。どう答えたところで、彼を怒らせるのも悲しませるのも分かり切ったことだった。


「別に……兄上に怒られたくなかった。それだけだよ」


「それだけで……! 人に嘘を吐いていいと誰が教えたっていうんだ。こうして嘘を吐けばなおさら僕は怒るんだぞ?」


「分かっていたよ。でも兄上は嫌だっただろう? ……僕だって兄上が嫌な思いをするのは嫌だった。それだけのことだよ」


「嫌さ。そりゃあ、自分の弟があんな自由恋愛主義的な行動を取るなんて、考えたくもなかった。でもお前がしたことというのは同じことだ。選挙に出たことは変わらないだろうに。どうしてそんなことをした?」


 どうして。


 そんなことは分かり切っている。シャルルを止めるためだった。シャルルの願いを叶えてやるためだった。シャルルと戦うためだった――だけではない。


 自由恋愛主義を焚きつけるため、そういう目的もあった。


 それは事実だ。


(結局、自分もシャルルと同じだ。私的な理由と公的な理由とのいいとこどりを狙ったんだ)


 だから、それは恥であった。自分の失敗をひけらかしたい人間がどこにいる? ……それに、後者は明かすわけにはいかない。


「……言いたくない。兄上には関係ないだろ」


 だからそう答えた。


 それはイカロスの忍耐を超えた。


「ふざけるな……!」彼は弾かれるようにナルシスの胸倉を掴んだ。「お前な、あとちょっとでお互い人生台無しになるところだったんだぞ! お前の軽率な行動が、将来を潰しかけたんだ! 分かっているのか?」


「……ああ。でも言いたくないものは言いたくないんだ」


「俺はあと少しで一中職に戻れるところだったんだッ! 時期が来ればそうなるはずだった。そうなれば大学にだって……だから教えてくれ、どうしてあんなことをしたんだ。」


 大学。


 それはかつて届かないとされた希望の象徴。かつて仕切られていたガラスの壁。かつて諦めた将来の夢。


 ナルシスはその先にもう一度幻覚を見た。大学で、エーコと学ぶ未来だ。彼女はその中で朗らかに笑っていて、それ以上は起こらないけれど、それでも幸せな世界が広がっていた。


 ――なら、全て止めてしまおうか?


「ッ……」


 一度、口が開きかかった。自分がサン・マルクスだと、告白しかけた。全てを明らかにすれば、まだその将来に辿り着けるかもしれないという希望に縋りかかった。


 でも、やめた。


 だって、あの陽だまりには入れないのだから。


 たとえガラスの壁がなかったとしても、それは閉ざされているのだから。


 そんな世界を変えると、ナルシスは決めたのだから。


「兄上は僕を悪者みたいに言う。それは許せない」


「許せない? それはこちらのセリフだ。お前にとってはただの遊びだったかもしれないが、それは火遊びだ。対処を間違えれば人を殺す……!」


「人は死なない。遊びでやったつもりもない」


「何ッ?」


 イカロスはぎろ、とナルシスを睨んだ。それは今までの彼にはないことだった。そしてナルシスの態度も、イカロスにとっては想定外だった。今まで、彼がこんな強気に出たことはなかった。


「兄上。兄上はおかしいと思ったことはないかい? あの学園は自由・平等・平和――『三原則』を謳っているのに、その実推薦枠がほとんどで一般枠での入学は数少ない。『市民』に門戸が開かれていないんだ」


「そんなことが何の関係があるッ」


「あるさ! 生徒会選挙はその典型だったんだから。誰かが決めるばっかりで、自分たちにはそれを認めるかどうかしか権利が与えられない。僕はそんな学園を変えたかった。シャルルと出会ったのもその理由の一つさ。彼は多くを背負いすぎている。あんなものは長続きしない。まるで、人身御供のような……」


「お前、『内閣』家のことをそんな言い方をするのか⁉ あの有難さを知っているのかッ?」


「なら! ……なら、兄上は彼に会ったことが一度でもあるのかい? 彼の考えに触れたことが一度でもあるのかい? ないだろう。でも僕は直接聞いたんだ。彼はこう言っていた。『僕らは対等であるべきだ』、と」


「…………」


「兄上。今回選挙制度を変えたのはシャルルだ。僕じゃない。ただ僕は彼の期待に応えたかっただけだ。ただ僕は彼の背負っているものに抗いたかっただけだ。」そして僕は、シャルルという存在を『市民』と同じ立場に追い落としてあげたかっただけだ。「だから僕は選挙に出た。これは、そういうことなんだよ」


 沈黙が、二人の間を走った。ただ時間だけが夜の室内を過ぎていった。イカロスの表情は、少しも動いていなかった。それはきっと演技だろうとナルシスは思ったが、しかし見破ってその中にあるものを垣間見ることはできなかった。


「……駄目だ」しかしそれは、結局演技などではなかったのだ。「お前、嘘を吐いているだろう」


「……! 兄上、何を……!」


「そうでなくてもお前は自分のしたことをよく考えるべきだ。いくらシャルル様が言い出したこととはいえ、それに乗っかったのは、ナルシス、お前だ。お前が自分のためにやったことだ。その責任は取るべきだ」


「……学園に行くな、というのか」


「いいや? 学園には通っていい。だが演説はするな。立候補も取り下げろ。もし明日そうしなかったら、俺は今度こそ学園へは行かせない。中退させる。いいな?」


 イカロスはそう言って、くるりとナルシスに背を向けた。そうして、自分の部屋へと戻っていく。それを思わずナルシスは追おうとしたけれど、去り際にイカロスはドアを強く閉めた。その音に脅かされたわけでもないのに、ナルシスの足は立ちどころに動かなくなった。


「兄上……」


 ナルシスは、ただそう呟くしかなかった。確かに隠していたことはあった。だとしても遊びでやったわけではないというのは事実だ。


 だが、嘘は嘘なのだ――そこに濁りがある限り、届かない。届くはずはないのだ。


 ナルシスは、最早取り返しがつかないことを悟って、一歩後ろへ下がって、ドアへ向けていた手を下した。そして振り返り、ベッドの上に飛び込んで、枕に向かって叫んだ。

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