第66話 ある嘘吐きの兄
「これは、一体どういうことなんだッ?」
イカロスは、後ろ手につけられた手錠をガチャガチャとやりながら目の前の尋問官に食って掛かった。
「自分は自由恋愛主義者じゃない。一度だって『共和国』を裏切ったことはない。第一、何の罪で拘束されているのか全く説明がないじゃないか。これは違法な拘束だ。弁護士を呼ばせてくれ!」
取調室には尋問官の彼女と二人きり。だが扉は固く閉ざされていて、それは彼女の心と相似形を成す。無口でミステリアスな印象を与える人物だと彼は知っていたが、だとしてこうまで不可解なことをするとは夢にも思わなかった。
「静かに。ポンペイア二中職」しかし冷然と、彼女は言った。「アナタは残念ながら信用できない立場になった。だから私が拘束を要請したのです」
「信用できない? 何を言っている? 何か証拠はあるのかッ?」
「証拠どころの話ではないのですがね」
彼女は眼鏡を外し、上着のポケットから柔らかそうな布を取り出してレンズを拭いた。それからそれを畳んで、机の上に置いた。
「……いつから眼鏡を? 確か君は裸眼だったはずだ」
「ええ。ですからこれは伊達です。変装の基本アイテムですね。私の場合目元が記憶されやすいのでそれを隠すためでもあります」
そう言いながら彼女は眉に手を伸ばしぺりぺりとつけ眉を剥がしていく。そうだ、彼女のそれはあまり太い方ではない。第一、彼女は学生服――第十三学園のもの――を着ていい年齢でもない。それも含めて、変装だということだろう。三つ編みも解いていく。
「変装?」それを、イカロスは知っている。「家族の世話に変装が必要だったのか――ミージュ・イハヤカヴァ三中職」
彼女は、さっきまで浮かべていた愛想のよさそうな笑顔を瞬時にいつも通りの無表情に戻した。そうだ、その顔で訓練のときイカロスを投げ飛ばした挙句、腹を踏みつけたのだった。
「君が密偵だというのは聞いていたがね。しかし生徒に成りすます必要はあったのかな? 教師や事務員という方法だってあっただろう」
「別に、制服が着てみたくなっただけです。案外行けるものですね」
「……それ、本当に言っているのか?」
「そんなわけないでしょう。正気ですか?」
…………。
イカロスは何も言わなかった。そうすることに努力がある程度必要だった。
「私が必要だったのは」その微妙な表情にミージュは何も言わない。「候補者の生の情報です。名前や住所は学校に協力してもらえば知ることはできますが、どういう為人なのか、どういう癖があるのか、どういう言葉遣いをする人物なのか――そういった情報は実際に会ってみないと分からないものです。まして、自由恋愛主義者である可能性があるというのなら、尚更表面的な情報では足らない」
「それとこれとが、一体どう関係してくるのか教えてもらいたいものだな。どうしてその理屈の結果自分が拘束されているのか」
「簡単な話です。アナタの弟は候補者で、かつ自由恋愛主義者である可能性がある。そしてアナタはその協力者だ。違いますか?」
イカロスは、その言葉をたっぷり一〇秒は反芻して、それでも理解できなかった。
「……は?」
「初期の初恋革命党によるゲリラ演説事件に時間を戻してみましょう。我々は神出鬼没な彼らを探知することはできてもそれを捕まえることはついぞできなかった。それは何故か、ということです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。どういうことなんだ」
「内通者がいて、それはアナタだったということです――ゲリラ演説事件はアナタが現場に出ていた時期に行われました。だからパトロールの日程や時間帯を知ることはできたわけです。一方で同時多発演説未遂事件では、アナタは現場ではなく司令室にいた。だから……」
「いや、自分が言いたいのはそういうことじゃない。」イカロスは首を横に振った。「どうしてナルシスが候補者なんだ」
「はい?」
「アイツは立候補しないと言ったんだ。するはずがない。第一、アイツにそんな度胸があるはずがない。自由恋愛主義者なんかじゃないんだから」
「アナタの弟が嘘を吐いたのでしょう。もし疑うなら、証拠を見せましょうか? それぐらいの権限は与えられています」
ナルシスが、嘘を?
イカロスは混乱した。そんな大それたことをしてまで立候補したかったとでもいうのだろうか? ……あり得ない。「大反動」で両親を失ったのは当然アイツにとっても同じことなのだ。それを、その憎しみを覆してまで自由恋愛主義者になるというのは、考えられない。
「……ナルシスに会わせてくれ。話をする必要がある」
「弁護士の次は弟ですか」
「たった一人の弟なんだ、どうか、話をさせてくれッ……」
「失礼ながら当然却下です。口裏を合わせられる可能性もありますし――第一、我々は今、彼とその仲間から何か証拠が出てこないか調べている最中です。とても許可できません」
「何か出ないか?」不思議な言い回しだった。「どういう意味だ」
「私が張り付いている間、彼らは見事なまでに自由恋愛主義組織との繋がりを示す証拠を出しませんでした。隙を見て荷物の中まで調べたのですがね。そういうわけなので、まず逮捕して、それから何か探すわけです。こうすれば時間はたっぷり取れる」
「それは順序が逆だろう! 普通、証拠があるから逮捕できるのだろうが! それを、」
「ああ、ちなみに逮捕理由は別件の暴行未遂です。愛しのナルシス君がシャルル様を殴ろうとしたので渡りに船と思いまして。私が仕向けたわけではないのでどうかご理解を」
「な……」
「安心してください。シャルル様は無事です。未遂ですし本人からは穏便に済ませてほしいとお言葉を頂いています。尤も、何か証拠が出た場合は別ですがね」
安心できるはずがない。
イカロスは自分の将来が完全に崩壊したことを悟った。弟が暴力事件を起こした挙句、その相手が「内閣」家の若きホープで、しかも自由恋愛主義者の疑いまでかけられている。そんな人間の兄を昇進させるなどあり得るだろうか? ……それどころか降格や解任まであり得る。ただでさえ疑いをかけられているのだから、保安上の理由でそうされる可能性はある。
「ちなみにこれは私の勘ですが」ミージュは更に付け加えた。「恐らく、彼が例のサン・マルクスではないかと」
「……そんなことがあるものか。君は大きな勘違いをしているんだ。でなければ……」
「もちろん証拠はありません。ですが演説のセンス・言葉選び・主張内容。どれをとっても彼に近いものを感じます。この辺りも録音していますから、後で専門家に分析を依頼するつもりです。決定的ではありませんが証拠にはなるでしょうし――時間も正体が学生だったとすれば納得がいきます」
「時間?」
「ええ。演説の時間――アレは大体午後六時ごろから午後八時ぐらいまで、仕事が終わり帰宅する時間に合わせて行われていました。逆に言えば普通に働いている人間にはそれは不可能なのですよ。各駅への移動時間を考えればどうしたって早めに上がる必要がある。ですが学生だとすれば授業終わりに一度帰って用意する時間があります。もちろん、そもそも仕事をしていない人間という可能性もありますが……」
……イカロスには思い当たる節があった。ナルシスが帰ってくるのが遅いときが一時期多かったのだ。大抵はナルシスが先に帰ってくる――行動時間を考えれば当然である――のだが、九時ぐらいにイカロスが帰ってきてもまだいないことがあった。いたとしても、何か慌てて準備をした形跡があった。
(だとしたら、本当にナルシスがサン・マルクスなのか……?)
演説帰りだったとしたら説明がつく、ついてしまう。それに、彼は時折誰よりも雄弁になることがあった。言葉遣いも独特で、どこか惹きつける才能があった。
そして――好意対象者割当のとき、酷く落ち込んでいる様子を見せたことがあった、思い返せば。スズナさんと上手くいっているということをナルシスは常々言っていたが、それが嘘である可能性もある。事実、彼の美的感覚と彼女とは合わないはずだ。そのとき好きな人が他にいれば? ……自由恋愛主義者に堕ちたとしても不思議はない。
(……駄目だ、そんなこと!)イカロスは首を横に振った。(それらは全て偶然だ。何の物的証拠もない。唯一の肉親を、俺自身が信じてやらないでどうする?)
だが、心は揺らいでいる。あと一押し、何かあれば――あっさり、倒れてしまいそうなほどに。
「――何にしても」ミージュはその様子を見て満足したようだった。「あくまで可能性の話です。アナタが本当に関与していたかはこれから調べることですし、彼が本当にサン・マルクスなのかもこれから。精々いい言い訳を考えておくことですね、弁護士はつけてあげられませんが」
そう言って彼女は立ちあがった。きっと、これからナルシスのところに行くのだろうとイカロスは思った。ついさっきまで友人として振舞っていた彼の下へ行って、自由恋愛主義者だという情報が掴めるまで取り調べるつもりなのだろう。どういう神経をしていたら、そんな残酷なことができるのだろう?
そうしてミージュはドアノブに手をかけ開いた、
「イハヤカヴァ三中職、」そこには、一人の職員がいた。「こちらにいらっしゃいましたか」
その息は上がっている。その職員が慌てていることが、ドアが陰になってよく見えないイカロスからでも分かった。
「……何かありましたか?」
「サン・マルクスが声明を発表しました。アイツらはシロです」
ちら、とミージュはイカロスの方を見た。それから無警戒に情報を口にしたその若い四下職を睨んで、ドアの外に押し出して後ろ手にそれを閉めた。
「アナタは二つのミスを犯しています。一つは被疑者の前で不用意に情報を流したこと。そしてその伝えに来た情報が無価値だったことです。誰が敵の言った情報をそのまま信じるというのです? マヌケなのは構いませんがそれで他人に迷惑をかけないでもらいたい」
「ですが、連中の名前も正確に言っていました。過不足なく……ポンペイア二中職についてすら」
「……⁉」
それは驚くに値する情報だった。ナルシスの支援者たちは公開されていないとはいえ第三者が知ろうと思えば知ることのできる情報ではある。というより、想像がつく話だ。学園に情報網があれば、誰が支援者なのかは分かるわけなのだから。
しかしイカロスについては違う。
彼が拘束されたのは庁舎の中。
そしてオープンソースにはなっていない。
彼ら初恋革命党がその事実を知るにはイカロス本人が通知するしかないが、そんなことをした様子はない。
(だとすれば、裏切り者は別にいる……? ポンペイア二中職はスケープゴートにされただけ……?)
その可能性は大いにある。時間は経っているから定時連絡が切れた者を拘束されたものと見做してリストに入れた可能性はあり得るが、だとすれば正確すぎる。過不足なく、なのだ。
そしてこの声明はナルシスたちの無罪をも証明し得る。この監視下において外部と連絡することは不可能。録音だってできないのに、どうして声明の映像を取ることができるだろうか?
(――いや)顎に手をやってミージュは首を横に振る。(まだ判断を下すには時期尚早すぎる。声明が初めから録音されたものだったとしたら? メンバーを絞っておいて、全パターンを録音しておけば、できない話ではない)
名前だけ録音しておいて、情報に基づいて合成すればいいわけだ。そこに事前に撮影した映像を合わせる。そうすれば偽造はできる。
だがそれを見破るにはまず観察が必要だった。ミージュは歩き出す。
「とにかく、情報を見る必要があります。それで、映像はどこに?」
「それが……ありません」
「…………」ミージュは立ち止まって目を丸くした。「はい?」
「ですから、ないんです。存在しない」
「馬鹿も休み休み言っていただく。声明が発表されたというのに、どうして映像がないんです」
「それが」四下職は恐る恐るという態度で言った。「電話だったんです」
「電話?」
「上層部曰くしっかりとした会話だったとのことです。間違いなく、サン・マルクスのもので……」
「どうしてそう言い切れるのです? アナタの印象では?」
「今、鑑識に回してますが、どうやら音声のパターンが一致しているという話です。ほら、あの男の声、特殊なパターンで他の誰とも一致しないって話だったでしょう? 逆に言えばそのパターンなら奴だって言えるわけじゃないですか」
音声を聞く必要はやはりあるが――余計にナルシスがサン・マルクスだという可能性は低くなる。電話は、言うまでもなくリアルタイムの会話だ。その行き先を読み切って録音しておくなど、余程心理学に精通していない限り不可能だ、それでだってできるかどうか。
「そういうわけで」四下職は焦ったように付け加えた。「上から圧力です。早くメンバーを解放するようにと……既に拘束されたって情報が出回っているらしく、表じゃ偉い騒ぎですよ」
ミージュは舌打ちをした。予想されてはいたことだった。選挙戦突入時点から、この話題は政治的な意味合いのあるものになっていた。
「市民」対「内閣」家。
その構図に当てはめられてしまった以上、その片方がもう片方によって弾圧されたということは、政治対立を大いに激化させて余りあるものだった。無論、それはある程度ナルシス・ポンペイアが狙っていたことだったと思われるが、だとして、確かめる術はない。
「……分かりました。」上層部の判断も音声を確認してのことだろう。ミージュは決心した。「全員解放してください。表向きには暴力事件のことを押し出して黙らせるように。ポンペイア二中職については内密に済ませること。どうせそこまでの情報はまだ出ていないはずですし、大事になって下手に担ぎ上げられるのは彼も望まないでしょう」
ミージュはすぐさま廊下から進んで階段を駆け上がり、上層部のいる部屋へ走る。今のことを報告しなければならないからだ。
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